信仰は現実という煉獄をくぐり抜けねばならない (「カラマーゾフの兄弟」について)
「カラマーゾフの兄弟」(以下カラマーゾフ)を読み終えた。以前に読んでいたので再読だったが、全く新しい本を読むような気持ちで読めた。
今、読み終えて感じる事は、ドストエフスキーはカラマーゾフにおいて、「魂の和解」を求めていたのだな、という事だった。この問題について考えてみたい。
カラマーゾフは長大な作品として知られている。途中で神学的な話が沢山出てくるので、そこで嫌になる人が多いようだ。しかし、作品の筋としては殺人事件が起こり、その犯人が誰かという謎解きが中心になっているので、文学に深く入り込めない人でもそうした興味で一応読めるようになっている。
ドストエフスキーが「魂の和解」を求めていたのは、以前からの作家の希求だったが、彼も自分の死を間近にして、そうしたものをより強く求めるようになっていたのだな、と私は読んでいて感じた。
ところで、こうした「救済」、「魂の和解」というのは、通俗作品におけるハッピーエンドと関連するものがある。このあたりも、ドストエフスキーの作品を通俗作品と読み解けそうな箇所である。この同一性と差異性について考えてみたい。
また名前を出して申し訳ないが、村上春樹を例に取って考えてみよう。村上春樹はカラマーゾフのような作品を書きたいと話している。こうした場合、ドストエフスキーの作品が「純粋小説にして通俗小説」という形態を取っており、そういう様々な物を含みこんだ総合小説だからこそ、村上春樹のような作家にとっても「お手本」に見えるという事情が存在している。
村上春樹もまた「救済」を描こうとしている作家だ。彼がそれをどれくらい意識して考えているかわからないが、作品の傾向としては明白である。この「救済」はまっすぐサブカル・エンタメ作品にまで続いていく。
学園物アニメまで行くと、無限回廊のような学園生活内でわちゃわちゃと、仲間同士戯れ合う世界が輪廻の如く続いていく。そこで尊ばれるのは「生」の連続性であり、途切れる事ない、年を取らない少年少女達である。ここでは「時間」は疎外されている。
村上春樹の小説における救済は、繁茂する大衆向けエンタメの前段階に位置するものだった。今から見るとそのように振り返れる。村上作品においては、「僕」という自我を中心とした心地よい流れが続いていく。その線において、様々な事象が起こるが、様々な事象は「僕」という聖域を汚す事はない。「僕」が破滅して死に至る、それを喜んで村上春樹が描く、というのは考えられそうにない。
ところで、現実は決してそうしたものではない。現実には死は存在し、誰しもが、現実の不合理性に脅かされている。この現実の恐怖を、科学を先頭とした、人間の諸力で征服する事に、近代の人間は力を注いできたのだった。
ここ何百年で実に多くの物事が征服された。確かに、人間が神を殺し、自らを神とするのも故なしとは言えない。丁度、昨日、私のスマートフォンが深夜に急に鳴り出した。確かめてみたら、南太平洋のトンガ付近の海底火山がきっかけで日本にまで津波が来るかもしれないという緊急警報だった。
考えても欲しいのだが、トンガで海底火山が起こっていると瞬時に認知する為にどれくらいの学問的集積が必要だったろうか。更にはそこから津波の予想をして、それを瞬時に連絡する手段を作り出すのに、いかに人間的な努力が必要だったろうか。それらのインフラが整備されるのに、いかに膨大な努力と時間が必要だったろうか。
…こんな事すら可能になった(そうしてそれを「当たり前」だと思い、何も感じない事も含めて)のを改めて見ると、人間が自らを神と称するのも全く不合理とは言えない。…というより、歴史的時間を辿ってみれば、人間は神からその力を奪ったのである。神の力を、理性をてこにして強奪したのである。それを我が物にしたのである。
そうした観点からすれば、村上春樹の描こうとする救済は、近代的な物質的勝利を基盤にしていると言えるだろう。最も、彼にしろ、彼と同じ系列の作家にしろ、そうした根底を思想的に考えてはいないだろうが。考えない事に浅薄さというものがあるが、逆に言えば、考えずに済むほど幸福であるという事でもある。幸福な作家は、深くならない。深くなるのは、不幸を秘めた作家だけだ。
さて、村上春樹の描く「救済」は物質的な基盤を基礎としている。それも、戦後の日本の経済的繁栄を基礎としている。そこでは物質的な勝利が得られた。物質的な勝利というのは、肉と霊との対立であれば、「肉」の勝利である。『ダンス・ダンス・ダンス』の終わりは「寝たい」と女と思っている女と「寝る」というラストである。「寝たい」と思っている女は、最初の時点でも「寝れる」のだが、あえてそれを時間的に延長して、その間に様々な冒険を挟み込んだ上での帰還である。そこでの救済は、自分が手に入れたいと思っているものは手に入るという、素朴な信念に基づいている。だが、それは金銭によって得られる商品の類でしかない、と作家が考えてみる事はない。神を疑わない、というのが救済の第一条件である。
村上春樹は消費社会の成功を基礎とした作家だった。そこで、物質と精神は冷酷な対立を行わない。むしろ、それらの矛盾面を、優雅な線で癒着させていく事に作家の技量があった。だが、このような高度な技術をもってしても、作家は現実の冷酷さを排除するという方法を行わずにはいられなかった。村上作品にはリアリズムというものが欠けている。これは、彼が幻想的な、空想的な作家だから、というわけでは片付けるわけにはいかないものがある。
村上春樹にとって、冷酷な現実は脇に片付けておかなくてはならなかった。そうでなくては、彼の望む救済は完遂されない。それと共に、こうした空想的な救済に現代の大衆は(日本以外にも該当する)酔っている。正確には、酔おうとしているであって、そこに彼らは自分達の存在が祝聖されるのを見ようとしている。そうして、こうした願望を具現化する詩人が、言ってみれば現代の桂冠詩人たる名誉を受けたのだった。
※
村上春樹の描く救済は現代人の望む救済としては代表的なものと言っていいだろう。だからこそ、村上春樹を例として取り上げた。
こうした物質的な救済についてはドストエフスキーは既に百年も前から予言していた。カラマーゾフの作中、ゾシマ長老のセリフで次のようなものがある。「距離が短縮され、思想が大気を通って伝えられることによって世界は団結し、兄弟愛の交流に結ばれてゆく、と彼は力説する。このような人類の団結を信じてはならない」 これは現代の救済についての予言と言っていいだろう。ちなみに、イワンにも同様のものに対する予感、思想がある。
イワンの思想について述べていたらきりがないので、ドストエフスキーの救済に焦点を絞る事にする。結論から言えば、ドストエフスキーにおける救済、信仰というのは、あくまでも現実という名の煉獄を十分くぐり抜けたものだという事である。ここにドストエフスキー作品の価値があり、思想の真実性がある。逆に言えば、村上春樹以下の通俗作家らが、現実に生きる人間として、救済を望む気持ちそのものは、ドストエフスキーと全く違う次元のものだと私は思わない。それらは、同じ人間的心情に端を発している。
だがドストエフスキーの場合、信仰、救済の願望が徹底的に現実の火によって鍛えられたという事に価値があった。それと比べて、村上春樹が、現実の理不尽を脇に押しやって、自分達の救済を絶対化しようとする態度は、村上的に言えば「冒険が足りない」という事になるだろう。村上春樹以下の、全く現実の苦難に対して無知であるが故に知的領域で専横的に振る舞うくだらないインテリに関しては、もっと低いレベルでしかない。
彼らは、修道院から出なかったアリョーシャに過ぎない。そこではドラマは起きない。しかしそんな恵まれた人々を羨む弱い精神力の人達も世界には沢山いる事だろう。彼らの集合は、救済でもなんでもないし、もしそうであったら、徹底的な破滅の方がむしろ、人間行路としてはまだマシであろう。
ドストエフスキーの救済願望は何よりも現実の火に鍛えられたものだった。彼の経歴自体がそうだったし、そこには実際的な思想の変遷もある。
ドストエフスキーがシベリアの牢獄に送られた直接のきっかけは社会主義的運動だった。ロシアにおいて、社会主義運動は、神の国を現実のものにするという理想を持っていた。これは日本の左翼ーー右翼の観念では計り難い。ロシアには根っこに素朴なキリスト教があるので、そこから発する無神論的、現実改革運動も神を自らの力と化し、自分達の力で世界を染め上げるという理念に傾いていた。
しかしドストエフスキーはこの運動に挫折し、シベリアの牢獄で考える。牢獄では、聖書一冊しか読む事はできなかったという。こうした環境の変化に、ドストエフスキーの信念は鍛えられなければならなかった。彼が牢獄を「人生の学校」だったと言うのはそのような意味においてである。
牢獄から出てきた彼の思想は徐々に変化していく。これも詳細に辿っていくと長いので、結論から書いていく。五大長編に見られるドストエフスキーの思想は、社会主義とローマ・カトリックを共に糾弾するものである。何故、社会主義とローマ・カトリックが同列に見られるかと言うと、そこでは、神の国を現実にしている、と宣言する類のものだったからである。霊肉の分離、その矛盾の実現としてのキリストの実存ーーそれがドストエフスキーがいつも念頭に置いていた『姿』だったーーと違って、それら実現した神の国は、霊肉の融合を果たしたものだった。だが、ここに半畳が入る余地はなかっただろうか?
そこからドストエフスキーの思想は展開していく。イワンの議論はそうした場所に存在している。イワンは未だ「若造」であり「くちばしの黄色いひよっこ」であるが、彼は考える。『一人の幼子の魂を犠牲にして、作られた神の国があったとして、そこで全てが救済されるとしても、そこに入る切符を俺は返上する』 ここには鍛えられた信仰の姿がある。現実の火、現実という名の煉獄はドストエフスキーという男に、「犠牲にされた幼子の魂」に類するものをさんざ見せつけてきたのであった。
この思想を先の村上春樹的なものと合わせて考えてみよう。果たして、犠牲にされた幼子の魂は、我々に十分目撃されただろうか? 我々はそれから目を背けてはいないだろうか? 理不尽や犠牲、人間には死がありそれは誰にも訪れるという不合理な現実を、社会常識によって薄めたり、知性に覆いを掛けて自分達を騙してはいないだろうか? 私がこの社会に根底的に感じる虚偽はこうした点にある。…もっとも、この低落化した社会こそが、私にそういうものについての思考を可能とさせてくれたのだったが。
村上春樹は先に言ったように、リアリズムを回避しつつ、消費社会の上に乗った「我々」に都合のいい夢を見せてくれる。その夢が若干、現実の理不尽によってかき乱される事はあっても、また彼が見たい夢へと筆は戻っていく。こうした時、村上春樹が願望している救済は現実によって徹底的に鍛えられていないと私には見える。問題は二つのものの分裂によって引き起こされる。信仰と現実、霊と肉といったものである。
こうしたものの対立、矛盾に耐えるには大きな精神力、粘り強さが必要とされる。偉大な作家になる為に必要な力は、こうした力であるに違いない。最も大きな矛盾に耐えられる精神が、最も大きな作品を、すなわち世界の全体像を描き出す。私はそう信じて疑っていない。
ドストエフスキーほど感受性の強い人間はいなかった。ところで、感受性の強い人は、往々にして繊細であり、精神的には「弱い」。しかしドストエフスキーはその繊細さに耐えられる恐るべき粘り強さがあった。これと比した時、岩石の如き強き人間は、感受性が乏しい場合が多い。彼は確かに強いが、その分味気ないのであり、世界を認識する力が弱い。ただ彼は存在しているだけで、感じる力が弱い。
ゾシマ長老はアリョーシャを修道院から送り出す。私はこの意味が、人々についぞ理解されていないような気がしてならない。例えば、こうした事柄を「貴種流離譚」であると分析するのは可能だろう。神話との類似を語るのもいいだろう。あるいは、これは「物語性」を作り出す為だと、また物語は結局は読者を楽しまさせる為にあると結論してもいいかもしれない。
しかし、だからどうなのだ、と思う。ここから先は言っても伝わらないと思うが、ある程度優秀な人間は成功を望む。そうして実際に成功する。だが天才はーー天才と呼ばれるべき資質の持ち主は、成功よりも挫折を目指す。この言葉の意味は決して現代の人々には伝わらないに違いない。
それでも説明を続けるならば、天才が挫折を目指すのは人間の限界の「外」に出ようとするからだ。要するに、カントの鳩が、「もっと上へ!」と内的衝動を発露させつつ飛翔し、真空に飛び出て死ぬのと同じ事だ。賢い人間は中途で留まるだろう。彼は挫折しないかもしれないが、それ故に、人間の限界は覆い隠されたままとなる。
人間の限界の外にあるのは神である。ドストエフスキーはどこまでも人間主義だったし、実存としての人間を抜きにした抽象哲学は受け入れられない体質だった。にも関わらず、その作品で絶えず神の存在が問題になるのは、人間が人間を喰い破らんとした時、その外に神のような超越的な存在がなければ、人間の限界線そのものが描けないからだった。
カラマーゾフの最後の裁判のくだりで、「カラマーゾフ的なもの」は、絶えず二つの極限点を有している、という点が強調される。カラマーゾフ的なものは一種の深淵であり、汚辱と高尚、その両極が絶えず存在していると強く主張される。これはドストエフスキーが人間の限界を描き出す為に、カラマーゾフという固有名詞の中に人間性を圧縮させた結果現れたものだと私は理解したい。
汚辱と高尚、神と悪魔、無神論と信仰。これらは全て、人間的なものの極限だ。ドストエフスキーの登場人物はしばしば異常だと言われる。大げさだと言われる。しかし本当はそうではない。いや、全然、そうではない。それは我々の姿である。我々の『全て』なのだ。だがその全ての中に埋没し、その部分でしかなく、部分である事に埋没している我々にはドストエフスキーの技巧は異常なものには見える。実際には、人間的なものの極点がああした方法によって開示されているのであり、だから、我々は自分の卑小さを感じ、無意識のどこかで、ああした作品を偉大なものと感じる。作品が我々を包んでいるのを感じるのである。
※
こうした巨大な深淵は、だが、深淵そのものとしては描けない。深淵を想定してみてほしい。それを握っているとして、出口のない世界をどうやって描けば良いだろうか? そうした深淵があって、人間は単に矛盾だと想定しても、振り子のようにあっちこっちを行き来するだけである。深淵それ自体を描くには、少なくとも作家は深淵を脱していなければならない。
ここに、最初に書いた問題が現れてくる。信仰は懐疑の火によって鍛えられねばならない。あるいは、信仰は現実という煉獄をくぐり抜けねばならない。現実の深淵は、ここでは煉獄に該当する。現実の理不尽さを信仰はくぐり抜けねばなければならない。また、くぐり抜ける事によって、現実と呼ばれるものの全貌も見えてくる。物事というのは対立物なしでは決して認識できない。水の中の水は自らを水だと認識できない。
ドストエフスキーの思想過程を思い起こそう。ドストエフスキーの信仰は最初、現実を変化させようとする社会主義運動として現れた。そこからキリスト教に帰っていった。この経路は何を意味するか。…「政治家」というものを思い起こす時、最良の政治家は、おそらく、集団を救うために一人の少女の魂を踏み潰す事は厭わないだろう、と私には思われる。
というのは政治家は何にせよ、現実に行動しなければならないのであり、彼は、絶対的に正しい神の一手ではなく、人間的に正しいできる限り被害が少ないであろう一手を打つしかないからだ。その英断と諦念の中に優れた政治家の哲学はある。逆に、こうした現実的な存在に、神のような絶対的な一手を求めると、神は悪魔に転じてしまう。ロシアは不幸にも、そのドラマを国家レベルで演じた。スターリンは世界の教師の顔をした悪魔であった。
ドストエフスキーはこうした力学をよく学んでいた。だから、彼の想像する救済は、宗教的なものでしかありえなかった。私にはそう思われる。人は言うかもしれない。「そうした救済は観念的なものであって、現実に人々を救済しようと運動する我々の方が遥かに高尚だ」 …確かにそうかもしれない。それは一理あるのだろう。だが私は逆に考えたい。ドストエフスキーが見出した救済は、現実というものを徹底的に身に浴び、その理不尽性を極限的に体得したからこそ、宗教的な、つまりは観念的なものになったのだと。ここでは観念は現実を止揚したものとして現れる。これを安全圏から一歩も出ていない通俗学者が真似しようとしても、無理な話だと私には思える。
絶対的な救済は、絶対的な彼岸で行われなければならない。それはあくまでも理想である、イデアである、とは脆弱な理想論ではなく、現実の様々な艱難を経てきたが故に辿り着いた結論であった。ドストエフスキーはそういう場所に辿り着いたのではないかと今の私は考えている。だからこそ、イワンは「神の国への切符を返上する」のである。幼子の魂を、彼は見てみぬ振りができないのである。
後はもうそれほど言う事はない。最後の、ミーチャを中心とした和解、それからアリョーシャの子供達への和解。それは静かな喜びに満ちた一章である。ドストエフスキーという騒がしい自意識に似つかわしくない、あるいはそうした騒がしさが静まる時にはじめて訪れるような静かな喜びの章だ。私はカラマーゾフを最後まで通読して、あるイメージを自分の中に喚起された。それは暗い、澄んだ水の中に上方から光が差し込んでくるようなイメージだ。ドストエフスキーの小説は暗いイメージに満ちているが、それは暗さから上っていく光の方角がはっきりとわかっているからこそ、現れるのが可能なタイプの闇だった。
カラマーゾフのあの最後の部分を読んで、私はベートーヴェンの第九の合唱を思い出した。ベートーヴェンはあくまでも近代の芸術家だった。バッハの神を奪われた天才ベートーヴェンは、自らの個性の中に人々の合唱が、聖なる和解があると想像する他なかったーーそんな風に私には感じられる。最後の合唱は、人類全体が唱和できるものとなっている。
かつてはこの唱和は神の台座においてのみ可能だった。ところが、天才ベートーヴェンは、自分の個性の中に人類の唱和を可能とさせる。彼が「天才」たらなければいけなかったが故に、これは生じた問題だった。ベートーヴェンはキリストのように言いたかったに違いない。「様々な人よ、傷ついた、病んだ人々よ、我の元に来い」と。
ドストエフスキーの小説においても、ラストの和解は神を抜いて理解する事もできる。ドストエフスキーもまた近代の作家だった。近代は人間が、神という親元を離れ、分裂し、互いに闘争を始める最初の時期である。だがそうした騒然とした世界において、彼ら偉大な芸術家は、魂の和解を、過去の宗教思想をイメージしつつ、自分の作品の中に込められた。それは一回限りの、偉大な事業だったのかもしれないが、とにかく彼らはそれをした。今では、そうした唱和は、過去の偉大性として懐かしく思われるばかりであり、現代にはわかりにくいものになっている。
現代の和解は現実の悲惨をよそに取り分けたものとなっている。それと並行して、宗教はくだらない過去の遺物として、廃棄される事になった。こうした思想は、現実を科学をテコに征服していく現代的なものである。こうした現代性は、果たして「全て」を克服するのか。おそらく、結果として現れるのは、カラマーゾフ的に、比喩的に言えば「人肉の食い合い」という事になるのではないだろうか。肉と霊との対立において、肉の中に救いを求める現代人がどの程度、現実の深刻さと向き合えるか。この世界は今やそれを問うているように私には思える。
私自身はここで書いたように、ドストエフスキーやベートーヴェンといった人達が結果としては正しかったと思っている。しかし、その「正しさ」は現実を試金石として試されなければならないものだった。この「試される」という部分に物語性が生じる。物語性が単に自分達を楽しめる何物かであるとしか考えない人達と、話し合う言葉は私にはない。彼らは自分達を傍観者の立場に置いているが、その地盤が崩れている事にはなんとしても目を向けようとしないのである。ところで、ある種の少数の人々の物語は、ほとんどの人間が諦めた所から始まっていく。そうしたものは私には、今流行している、現実を矮小化する哲学から発する事は決してないと思う。