9 珍獣にでもなった気分だ
そろそろ魔王をお昼寝から起こすからと、ロイが机を離れ、隣の仮眠室に入っていった。私は書類を切りの良い所まで仕分けてから、お茶でも入れようかと立ち上がった。
魔王城に来て2日目、私は魔王の執務室で仕事をしている。魔王の仕事を手伝うロイの、そのまた手伝いだ。本業は魔王の教育係だが、それは午後のお茶の時間に話をする程度でいいと言われ、それならば暇な時間に出来る仕事をとダブルワークを願い出た。斡旋された仕事がこれだ。
新参者で素人の私が、魔王国の中枢で働いていても良いのだろうか。私が人間国のスパイとかだったらどうするんだ。そう思って何度も確認したが、是非にとお願いされた。魔王国の識字率は一割程度で、文官が圧倒的に足りないらしい。
それでよく国が回っているなと感心半分呆れ半分で聞いていると、問題が起きても基本は力で解決するからと、笑いながら説明された。せめて話し合いにしようよ。殺し合いは止めようよ。青褪めて言った私の言葉に、魔王のほうが顔色を無くした。人間国では殺し合いで決着をつけることがあるのかと。
よくよく聞くと、力で解決というのは腕相撲とかどちらがより大きな岩を持ち上げるかとか、そんな解決方法らしい。ブラッディな解決方法じゃなくて良かった。話し合いが決裂したら、時には血を見ることもある人間国のほうが、よっぽど物騒だった。
そんな平和な魔王国は、執務室から見える景色も長閑だ。昨日ロイが話してくれたとおり眺めも素晴らしい。魔王国は緑豊かで鉱物資源も多く、魔力に満ちている。魔族は食う寝る遊ぶがほどほどに足りていれば幸せ、という者が殆どで、争い事も少ないらしい。勇者さえ来なければ平和だという。それは魔王城も同様で。
「ほら、あの娘よ」
「あらー、可愛らしいお嬢さんじゃないの」
魔王の執務室には、朝から入れ替わり立ち替わり、見物人が押し寄せていた。目当ては私で、仕事中のためか滅多に声を掛けられることは無いが、遠巻きに観察されている。たまに手を振られる。1度振り返してみると、歓声が上った。そんなに人間が珍しいのだろうか。中には写真を撮る人までいて、珍獣にでもなった気分だ。
今もコボルトの奥様が2人、戸口からこちらを窺っていた。平和ですね。
「いいお嫁さんが来てくれて良かったわぁ」
「赤ちゃんが楽しみねー」
ご本人達はヒソヒソと小声で喋っているつもりなのだろうが、丸聞こえである。悪気が無いのは声や表情で分かるが、勘弁してほしい。
花嫁募集は間違いだったと周知されていないのか、来る人は皆私をお嫁さんだと思っているようだ。違うと言っても聞きやしない。初めのうちはいちいち訂正していたのだが、半日が過ぎて無駄だと諦めた。そのうち誤解も解けるだろう、それまでは放置だ。
私が素知らぬ顔でお茶を淹れていると、やっとロイが戻って来た。寝ぼけ眼を袖口で擦る魔王を抱っこしている。欠伸をするお子様魔王、可愛い。
「ロイちゃん、ちょっとちょっと」
コボルトの奥様がロイを手招く。ロイは魔王を抱えたまま、コテンと首を傾けた。ワンコ可愛い。子どもと動物の可愛さは鉄板だ。両方揃ってると、相乗効果で更に可愛いよ。
ロイは魔王を椅子に座らせると、奥様方の元へ。扉を出た途端に捕獲され、両手をそれぞれ引っ張られて廊下へと引き摺られていった。可能ならば誤解を解いておいてほしい。奥様方の情報伝達能力で、私は花嫁なんぞじゃないと広めてもらいたい。
「おはようございます、魔王様。よく御休みになれましたか?」
残された魔王に、私はオレンジジュースと菓子を出す。魔王はさっそく菓子を頬張った。
「もぐもぐ……ああ、よく眠れたぞ。お前も──その、昨夜はちゃんと眠れたか?」
「はい。疲れていたのか、ベッドに入って直ぐに」
「ロイの部屋で寝たんだよな。何か、えー、問題は無かったか?」
「特にございません。お気遣い頂き、ありがとうございます」
「そうか──魔導具がきちんと作動したようだな──何かあれば遠慮なく言ってくれ」
「はい」
魔王、良い子だな。途中声が小さくてよく聞き取れなかったが、聞き直すほどの事でもないだろう。
魔王はお腹が空いているのか、パクパクと菓子を平らげた。空になった自分の皿から私の皿に視線を移し、次いで私を一瞬だけ見上げる。
私はそっと、自分の皿と魔王の皿を交換した。パッと喜色を浮かべた魔王が、目を輝かせて私を見詰めてくる。
「内緒ですよ」
囁きながら共犯者の笑みを浮かべた私に、魔王はコクコクと頷いてみせた。嬉し気に、追加の菓子を口に運ぶ。今度はゆっくりと、何度も咀嚼して味わっている。うん、とても可愛い。
魔王城は平和だ。私の想像とはまるで違った。