2 キミと違ってストーキングの趣味は無い
待合室を出て扉を閉めると、我慢していた声が溢れた。扉に隔てられノエルの匂いが薄れたことも寂しさに拍車をかけ、クウーンと情けない鳴き声がまた漏れる。そうなるともう我慢できなくて、俺は出てきたばかりの扉を開けて、ノエルが確かにそこに居ることを確認した。
「ノエル、くれぐれもこの部屋から出るなよ」
俺はしつこく念を押し、目一杯彼女の匂いを吸い込んだ。相変わらず良い匂いだ。スーハースーハー過呼吸になるかというほど吸い込んでいると、頭がぼんやりしてきてノエルの事しか考えられなくなる。
ああもう離れたくない、ずっと隣に居たい、また一緒にお風呂に入りたい、俺の図体がこんなにデカくなってもノエルは前みたいに同じベッドで寝てくれるだろうか……。
「おーい、戻って来ーい」
無遠慮に背後から襟首を引っ張られ、俺は扉から引き剥がされた。扉が勝手に閉まってノエルの姿が見えなくなってしまう。嫌だ、もっとノエルの匂いに包まれていたい。俺はドアノブに手を伸ばすが、襟首を更に後ろに引かれて指先すら届かない。ノエルから離れてしまう。
「クウーン、キュゥーン」
「止めろ。とりあえず落ち着け。魔王様んとこに行くんだろ?」
「俺はノエルと居るからお前が行ってきてくれ」
「そんな情けないこと言ってたら番いちゃんに嫌われるぞ」
「嫌だあぁあぁ」
「わかった、わかったから泣くな、キミの番いちゃんは優しいから、その程度で嫌われたりしないから!でも番いちゃんの好みは頼れる大人の男なんだろ?」
そうだった。俺は拳で涙を拭い、ズビビと鼻をすする。鼻水でノエルの匂いがわからなくなってしまい悲しいが、俺はノエル好みの大人の男になると誓ったのだ、泣くのも鳴くのも我慢しなければ。
俺は気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をしようとしたが、むせた。まだ襟首を掴まれたままだった。後ろ手に俺の襟首を掴む手を外すと、パキッと軽い音がする。見るとメタリックな腕だけが、俺の手の中に残っている。
俺は振り返り、その腕を同僚に投げ返した。身体のあちこちを機械に改造した、メカニカルエリアのエリアボス、Dr.マッドだ。ウデを嵌め直そうとして、白衣の袖口からメタリックな腕を突っ込むのに手こずっている彼を眺めていると、少しだけ冷静になれた。
「俺は魔王様に確認に行く。お前はノエルが帰ってしまわないように、見張っていてくれ」
「はいはい、いつものように監視用メカビーを付けとけば良いか?」
「いや、お前自身がここに居てくれ」
「ボクはキミと違ってストーキングの趣味は無いんだけど」
「ストーキングじゃない、見守りだ!とにかく直ぐ戻って来るからここに居ろ!」
「じゃあ番いちゃんとお茶でも飲んで──」
「部屋には入るな、声も掛けるな!いいか、絶対に近づくなよ!」
「ヘイヘイ」
大丈夫かな、Dr.マッドは心まで機械に取替えたなんて言われてるから、大丈夫だよな?ノエルに惚れたりしないよな?
俺は後ろ髪を引かれながらも、魔王様の元へと急ぐ。この時間なら魔王様は執務室で仕事中のはずだ、最短ルートで行けば5分も掛からない。だが往復10分の間も油断は出来ない。他の男を近づけないためにも、大急ぎで戻らなければ。
2年ぶりに直接会ったノエルは、映像越しに見るよりもずっと魅力的になっていた。
俺とノエルが出会ったのは、俺がまだ人語を喋れず、直立二足歩行も出来ない仔犬の頃だった。群れから逸れて森を1匹彷徨い、野生動物に襲われて怪我を負い、動けなくなっていたところを拾われた。手当をされ、出されたミルクを飲んで一息ついた頃、ノエルは俺をゴロンと引っくり返し、俺の両足首を持ってガバリと開いた。
「あ、キミ男の子なんだね」
その時の衝撃は今でも忘れられない。俺は知っていたのだ。群れの仲間の1匹が、以前人間に飼われていたことがあり、そいつから人間の習性について聞いていた。人間が服を着るのは大事な所を隠すためで、人間は番い同士でしか大事な所を見せないと。
俺はこの娘の番いに選ばれた!
嬉しくて思わずお漏らししてしまった俺を、ノエルは風呂に入れてくれた。彼女も服を脱ぎ、裸で俺を洗ってくれた。ノエルの大事な所を俺に見せてくれた。俺が彼女の番いだから!
動物好きな彼女の家は、犬猫兎に小鳥やトカゲ、果てはスライムのような魔物に至るまで、沢山の生き物で溢れていた。そんなハーレムの一員になった俺だったが、自分はノエルの特別なのだと有頂天になっていた。それなのに。
ある日、ノエルは俺を獣医に連れていった。そして俺を去勢するよう獣医に頼んだのだ。
意味が分からなかった。俺はノエルの番いなのに、いずれノエルは俺との可愛い仔犬を産んでくれるはずなのに、去勢なんてされたら俺は雄じゃなくなって、ノエルと子作り出来なくなる!
俺は去勢された雄がどうなるか知っていたのだ。俺に人間のことを教えてくれた仲間は、去勢された雄だったから。
混乱した俺は、獣医に蹴りを入れて逃げ出した。渾身の一撃が奴の下腹部にクリーンヒットしたのは、奴に雄の尊厳を奪われた仲間達の恨みが、俺に力を与えてくれたからだろう。蹲った奴に後ろ足で砂をかけ、その脚で森まで走り、俺はそのまま家出した。
あの頃は若かった、他にとるべき方法を知らなかったのだ。何度もノエルの元に帰ろうとして、でも帰れなかった。俺が去勢されそうになったのは、ノエルが他の雄を番いに決めたからじゃないのか?猫ならまだ許せる、でもトカゲやスライムなんかが番いとしてノエルの隣に居たら?
確認するのが怖くて帰れないくせに、ノエルが恋しくて夜ごと遠吠えをした。思い悩みながら森を何日も彷徨った。そして今度は魔王様に拾われた。この出会いが俺の転機となる。