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第7話

 

 ジュリアは屋敷に帰ってからも上機嫌だった。

 元々何もしないで居るのは性に合わない質だ。

 少しでも頭と体を動かしていた方が気が紛れる。


「ガウス様が、簡単な雑用だけれど仕事をさせて下さることになったの。とても嬉しいわ! 図書室の蔵書を読むのも楽しかったけれど、それだけでは体が鈍ってしまうもの。それに、クルメル商会はさすがね! 事務所にある昇降機には感動したわ! 資料もきちんと整理して残してあって、ちゃんと適正な経営がなされている証拠だと思うの。まだ今日一日しかやっていないけれど、明日も楽しみだわ」


 ジュリアはカンナに興奮気味に話した。

 カンナはジュリアの勢いに一瞬面食らった。

 しかしすぐに正気を取り戻すと、無感動に応えた。


「それはようございました。さて、夕食をお持ちします。よろしいですか」

「ガウス様は……まあ一緒には食べないわよね。あ、そうだ。よかったらダイニングで食べられないかしら」

「……畏まりました」


 しばらくして準備が整ったとカンナから報告があり、ダイニングルームに向かう。

 すると8人ほどが座れそうな大きなテーブルに、1人分の夕食が用意されていた。

 壁にはマルタと金髪のメイド、ルーナが控えていた。

 てっきりカンナだけであると思っていたため、ジュリアは驚いた。

 カンナに席を引かれ、ジュリアが座る。

 するとルーナが水を入れたカラフェを持ち、グラスに注ごうとした。

 そこで、ルーナの手が震えカラフェから水が溢れ、ジュリアのドレスを濡らした。


「っ……申し訳ございません」


 ジュリアは、またかと溜息をつきルーナの顔を見上げると、意外にもルーナの顔には失敗したと焦りの表情が浮かんでいた。

 そして何やら顔色が悪い。

 ルーナは慌ててナプキンでジュリアのドレスを拭いた。


「あなた、もしかして具合が悪いのではなくて? 酷い顔色だわ。気にしないで。わざとではないのでしょう? それに、ドレスはほら、そんなに濡れていないのよ。裾の方だけで、冷たくもないし。具合が悪いなら、今日はゆっくり休んだら? ねえマルタ。問題はないかしら?」

「……ええ。ガウス様のお世話も私とエマで行います。ルーナ。今日は下がりなさい」

「はい……申し訳ありません。失礼いたします」


 ルーナは深くお辞儀をすると、ダイニングルームを後にした。

 ジュリアは心配に思いながらも、食事を始めた。



 マルタもカンナも、その間何も言わない。

 しかしトビーの作った温かな絶品料理に舌鼓を打ち、ジュリアは気にしなかった。

 午後軽く働いたからか、お腹が空いていた。

 ガツガツと食べないように意識を集中させながら、デザートまで完食した。


「ああ。本当にウォルナット家のご飯は美味しいわ。ねえ、コックにお礼が言いたいの。呼んで来てくれない?」

「……畏まりました」


 マルタは頭を下げ、一旦食堂を出て行く。

 厨房は食堂のすぐ近くだ。

 すぐにマルタはトビーを連れて帰ってきた。


「あなたがコックね。お名前は何というのかしら」


 ジュリアは敢えてそう尋ねた。

 今朝ではなく、今が初対面という体にしてくれという暗黙の合図だ。


「はい、トビーと申します。初めまして、これからよろしくお願いいたします、奥様」


 トビーは正しくその意図を感じ取ってくれたようで、そう挨拶した。

 ジュリアの意図はこれでもあった。

 トビーと正式に出会ったことを周りに見せないと、トビーの話が出来ないからだ。

 うっかり、口を滑らせるとも限らない。

 それに、直接お礼を言いたいのも確かだった。


「トビー。朝から私の体調や要望を聞いて素晴らしい料理を作ってくれてありがとう。とても美味しいかったわ。今後ともよろしくね」

「光栄です。よろしお願いいたします」


 トビーはそう言って頭を下げた。

 ジュリアは何んだか秘密の芝居を打っているような気がして、むず痒くなった。


 すると、そこにスチュアートがやってきた。

 ガウスが帰宅したようだ。

 時刻は7時をとうに過ぎ、8時に近い。

 昨日よりも遅くなったようだ。

 何だかんだ、昨日はジュリアが来たために早く帰宅したのかもしれない。


 ジュリアはスチュアートたちと共にエントランスホールに出迎える。

 ルーナの姿はない。

 きちんと休んでいるようだ。


「お帰りなさいませ。ガウス様」

「……ああ」

「お疲れ様でございました。それと、申し訳ございません。夕食を先にいただいてしまいました」

「はっ。俺がお前と一緒に食事をとると思うのか。用が済んだなら、とっとと引っ込め。目障りだ」

「……畏まりました。それではごゆっくり。失礼致します」


 ジュリアは一礼して自室に下がった。


 風呂に入り、カンナの用意してくれたネグリジェに着替える。

 昨日はうっかりドレスのまま眠ってしまったっことを今更ながらに後悔した。

 昨日の水色のドレスは、形が崩れてしまったのではないだろうか。




 カンナを下がらせ、1人になる。

 ベッドに腰掛け、はぁっと息を吐き寝転んだ。

 目を閉じると、途端に悲しみが押し寄せてきた。

 父や母、そして兄、マルセルの顔が浮かんでくる。

 どうしても眠れないジュリアは起き上がり、書き物机に向かった。

 引き出しを開くと、万年筆とクルメル商会の紋章が型押しされた便箋が入っていた。

 滞在する客のために、常に用意してあるものだろう。


 ジュリアはそれらを使い、手紙を書いた。


 一つは母に。

 母の体調を気遣い、心配していること。

 父の死を招いた自分の至らなさに対する謝罪。

 決して兄の言うような事実はなく、自分は無実であるということ。

 ホルツでもどうにかやっていけそうなことと、3年後には自由の身になり、必ず帰るということ。

 どうかジュリアのことは心配せずに、自身の体調回復だけに注力して欲しいということ。

 ジュリアは書きながら、勝手に溢れる涙を止めることができなかった。


 もう一つはエミリアに。

 自分の置かれた状況の説明と、心配は要らないこと。

 またエミリアやティンバーの近況を尋ねる手紙だ。

 エミリアは次期王妃だったのだ。

 ジュリアよりもよっぽど苦しい状況に置かれているに違いない。

 ジュリアはとても心配していた。


 そして最後の一つは、マルセルに。

 これまで自分の独りよがりで付き合っていたことに対する謝罪。

 自身の状況の説明。

 婚約破棄はジュリアの意志ではなかったこと。

 そして改めて、自分は何一つやましいことはしていないこと。

 迷いに迷って、最後に幸福を願う一文を足した。


 3通の手紙を書き上げた頃、とっぷりと夜が更けていた。

 明日も何か仕事があるだろう。

 ジュリアはベッドに横になり、目を瞑った。

 連日の疲れが残っていたのか、その日は夢も見ずにぐっすりと眠った。



 翌朝、ジュリアはカンナに手紙を出してもらうよう頼んだ。

 しかし何日経っても、誰からも返事は届かなかった。




 朝食を部屋でとっていると、ガウスがまたジュリアを迎えに来た。

 今日は割と早起きだ。

 昨日はもしかしたらルーナの番で、ガウスは独り寝をしたのかもしれない。


(なんて、下品な想像だったわね)


 ジュリアは1人自嘲し、ガウスに付いて家を出る。

 てっきり今日は1人で勝手に行けと言われるものと思っていた。

 まさかガウスと一緒に行くことになると思わず、何を話そうかジュリアは迷った。


「昨日、ルーナを早く休ませたそうだな。何故そうした」

「え? 何故って……特に理由は。体調が悪い人を休ませるのは、当然のことではありませんか?」

「……そうか」


 ガウスはじっとジュリアの顔を見たかと思うと、それ以来何も喋らずに黙々と歩いた。

 ジュリアは不思議に思いながらも、付いて行く。

 心なしか昨日よりも歩みが苦ではない。

 もしかしたら、きちんと食事をしたために体力が少し戻っただけかもしれないが。



 事務所に着くと、相変わらずにこやかにユアンが出迎えた。


「おはようございます。今日はきちんと始業時間にいらっしゃいましたね、ガウス様。いつもこうだといいのですが」

「うるさいぞユアン」


 ガウスはムスッとすると、自身のデスクへと向かった。


「ジュリアさんもおはよう。昨日は疲れたんじゃない? よく眠れた?」

「はい、お陰様で。ご心配いただきありがとうございます」

「それなら良かった。それで、昨日考えたのだけれど、ジュリアさんには下の店舗の手伝いをお願いしようかと思うんだけど、どうかな?」

「ええ! もちろんやらせてくださいませ!」


 ジュリアは嬉しくなった。

 実は実際にセンダン商会のハーブやスパイスが人々の手に渡る瞬間を一度見てみたいと思っていたのだ。

 だからユアンの申し出は願ったり叶ったりだった。


「ガウス様もそれでよろしいですね?」

「ああ。ただし今いる職員の言う通りに動けよ。余計なことをして現場を混乱させたら、ただじゃおかない」

「畏まりました。もちろん、心得ておりますわ」

「ふん。どうだか」


 ガウスはそう吐き捨てると、早々に自身の前の書類に目を通し始めた。

 仕方なくジュリアは失礼します、と一声掛けると、ユアンに付いて下へ行った。


「ガウス様にも困ったものだよね。でも、これは私の勘だけど、しばらくするとガウス様はジュリアさんの事が気に入るんじゃないかな」

「そう、でしょうか……」

「ああ女性としてというより、人としていう意味だよ。変な風に思わないでね。あ……いや。奥さんにそう言うのも変だね」


 ユアンは困ったような笑顔を浮かべた。

 昇降機で一階に降り、表へ回る。


「あの、ヒッコリー様。1つ、お願いがあるのですが……」


 途中、ジュリアは立ち止まりユアンに声を掛けた。


「おや。一体なんでしょうか」

「店舗の皆さんに、私がガウス様の妻だと伝えないで頂きたいのです。きっとそう伝えると、きちんとした仕事をさせて貰えないと思うのですわ。それでは意味がありません。ガウス様は私に『役に立て』とおっしゃいました。私もそうしたいのです」


 ジュリアが真剣な顔で言うと、ユアンはふっと笑った。


「やはりあなたは噂とは随分違う人のようだ」


 ユアンはついとジュリアから視線を外す。

 そして、何とも言えない表情をした。

 まるで残念そうな、もしくはどこか苛立っているような。

 しかし次の瞬間、ユアンはパッと笑顔になり、ジュリアに顔を向けた。


「そうだね。そうしようか。ジュリアさんは、あくまで事務方で雇った一般の子ってことにしよう。実際、店舗で慣れたら事務方の方に移ってもらうつもりだしね」

「はい。よろしくお願いします」


 ジュリアはお辞儀をすると、指輪を通したネックレスをドレスの襟の中に隠した。



 ユアンとジュリアが店舗に入ると、中には数人の従業員と思しき男が開店準備を行っていた。


「やあ。みんないいかな。今日からこの店舗を手伝ってくれるジュリアさんだ。事務方の方で雇ったんだけど、研修も兼ねてしばらくはここで経験を積んでもらうよ。いいかな」


 ユアンが声を掛けると、数人の店員と思しき男が顔を上げた。

 中でもでっぷりと太ったお腹を揺する男が、前に出た。

 ジャンやトビーと同じ年代に見える。

 ジュリアのことをジロジロと眺める。


「副会頭。会頭はまた趣味が変わったんですかい? これまでと随分毛色が違いますなぁ」

「ジュリアさんは純粋に職員として採用しただけです。そういう勘ぐりはやめなさい。ジュリアさん、挨拶を」

「今日からお世話になります。ジュリアです。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」


 ジュリアは敢えて、まるで町娘のように元気に挨拶をした。

 令嬢らしさを出してしまうと、きっと距離を置かれるだろう。

 ある程度上流階級と付き合う経営陣とは異なり、現場でカーテシーは逆効果だ。

 もちろん、特別扱いをされたいなら別だが。


「これはこれは元気なお嬢さんだ。しかし随分と細いなぁちゃんと食べてるのか? 店頭に立つならもっと肉を付けてからだな。お前じゃ来る客も来ない。最初は奥で商品の仕分けをやってくれ」


 店長はでっぷりとした顎に指を当て、ジュリアにそう言った。

 全身を舐め回すように見られ、不快感が迫り上がる。

 しかし店舗を任されている者ならば、当然店員の容姿も重要な判断要素だ。

 仕方のないことだとジュリアは飲み込む。

 それにハーブの仕分けはむしろ得意分野だ。

 良かったと思うべきだろう。


(でも、ちゃんと見た目を元に戻す必要がありそうね。トビーの料理を食べていれば、問題ないと思うけれど)


 ジュリアは考えながら、笑顔で店長の言葉に従う。

 ジュリアを気にかけながらも、店長に任せてユアンは事務室へと帰っていった。



 店頭にはありとあらゆるスパイスが陳列され、小瓶に分けられたものや量り売り用の大瓶に詰められたものが並んでいる。

 ハーブやスパイスは香りが命だ。

 乾燥させたものは空気に触れたその時から徐々に香りを失っていく。

 そのため、ハーブやスパイスの輸出には神経質なまでに密閉に気を遣う。

 商店の中にはスパイスやハーブで小山を作り、量り売りをする店もあるが、クルメル商会では品質に拘っているのだろう。

 空気に曝されているものは、生で使用するもの以外には一つもない。


 店舗の陳列状況を横目に見て、ジュリアはバックヤードへ行く。

 一歩バックヤードに入ると、そこにはあらゆる種類の箱が堆く積み上げられていた。

 センダン商会の紋章が描かれた箱もたくさんあるが、それ以外のものもたくさんある。

 ジュリアは心が浮き上がるのを感じた。


「今日はこの列の箱を店に出す。最終検品はこのマシューがやるから、お前はマシューの作業を手伝え」


 そう言って店長は、また表に出て行った。

 マシューと呼ばれた男は、赤毛のもじゃもじゃ頭で、前髪に隠れて目が見えない。

 背がひょろりと高く、猫背気味だ。

 マシューの視線がどこを向いているか分からず、困惑しながらもジュリアはにこにこと笑顔を作り挨拶をした。


「マシューさん、今日からお世話になるジュリアです! よろしくお願いします!」

「……そんな大きい声出さなくても聞こえる。こっち」


 そう言ってマシューは挨拶も返さずに、作業台へと向かった。

 口が悪い割に、不思議と敵意は感じない。

 こういう性格なのだろうとジュリアは思った。


(見た目は全く違うけれど、少しマルセルを思い出すわ)


 ジュリアは切なげに笑むと、箱に手をかけた。


「マシューさんが最終検品をされるということは、私はどの部分をやるのが良いでしょうか。箱の中から出して種別ごとにまとめますか? それとも検品後のハーブを店頭に待って行きますか? いや、それは両立できそうですね」

「……上の箱を俺が下ろす。あんたは箱の中身出してまとめて。そこにあるトレーに3つ分纏まったら、店頭に持ってく」

「はい、分かりました!」


 ジュリアは言われた通り次々と箱から出し、種別ごとに分類していく。

 かつてマホガニー家でよく見ていたセンダン商会の紋章入りの瓶を見ると、何だか込み上げてくるものがある。




「ハーブの目利きが出来るんだな」


 しばらく作業をしていると、マシューがぽそりと呟いた。

 どうやらジュリアがきちんと種別ごと、状態ごとに分類して置いていたことが分かったのだろう。


「素人じゃこれの違いも分からない。どこかで経験が?」


 そう言ってマシューはディルとフェンネルを指差した。

 確かにディルとフェンネルはよく似ている。

 羽のような細い葉がわさわさと生えていて、用途も主に魚に合わせるため似ている。

 どちらも生でそのまま使うことが多いため、紙の帯で一括りにされているだけだ。


「実家がハーブやスパイスを扱う商家だったんです。だから見慣れていて……。こっちの葉が密な方がディル、匂いの強い方がフェンネルですよね。私のちょっとした特技です」


 ジュリアは照れたように笑った。

 ティンバーではフェンネルはよく使うが、ディルはあまり使わない。

 だから確かに、2つをすぐに見分けられる人間は少なかっただろう。


「……ん。作業が早くて、助かる」


 マシューはジュリアの顔をじっと見てから、自分の手元に視線を戻した。

 そしてその後は黙々と作業を進める。

 前髪で隠れていて表情がよく分からないが、どうやらジュリアのことを好意的に受け入れているようだ。


 そのまま開店までに最終検品を終わらせ、品出しを終えるとそのまま在庫のチェックと整理を行う。

 マシューは無口だが作業が早く、話すことも端的で分かりやすい。

 ジュリアは快適に作業を進めることができた。

 やはり、クルメル商会の本店ともなると職員も優秀なのだろう。

 これは自分もしっかりしなければならないと、ジュリアは襟を正す心持ちだった。




「もう昼。飯は?」


 正午になると、マシューがそうジュリアに声をかけた。

 表に出ている店員は交代で昼休憩に入るようだが、バックヤードでは同時に取るようだ。


「ええと、何も持ってないです。そっか、自分で調達しなきゃですよね……」


 ジュリアは途方に暮れる。

 しっかり食事をとって容姿を元に戻そうと誓ったばかりなのに、早速一食抜くことになりそうだ。

 そう思うと、唐突に空腹を感じ、腹の虫が鳴った。


(またどうしていつもこういうタイミングで……!)


 ジュリアは顔を真っ赤にする。

 そんなジュリアをマシューはまたじっと見つめると、視線を斜め下にずらしポケットに両手を突っ込んだ。

 猫背な背中がさらに丸くなる。


「ん。平気。隣のレストランの賄いが食べられる。付いてきて」


 そう言ってジュリアの返答を待たずに歩き出した。


「ま、待ってくださいマシューさん! それって私が食べても大丈夫なんですか!?」

「あんた、うちの職員でしょ?なら平気」


 ジュリアは慌てて追いかけるも、マシューは気にせず歩いて行く。

 背が高いせいか、歩く速度が早くジュリアは小走りだ。

 しかししばらく行くと、思い出したように振り返りジュリアが追い付くのを待つ。

 なんだか猫のような人だとジュリアは思った。


 レストランの名は「ノーチェ」というらしい。

 店名の描かれた窓ガラスを横目に見て、裏手に回る。

 キッチンの裏に、人が7、8人入れる休憩スペースがあった。

 ちょうど昼時で忙しいのか、他には誰もいない。

 キッチンから賄いを受け取り、マシューと向かい合って椅子に座る。

 賄いは、ティンバーでもよく食べられるイワシのパスタだった。

 フェンネルの葉がふんだんに使われ、松の実や玉ねぎで作った塩味のシンプルなパスタだ。

 ジャンの好物でもあった。

 ジュリアは懐かしい味に、不意に涙がこぼれそうになった。

 先程まで気分良く仕事をしていたはずなのに、ふとした瞬間に涙腺が緩む。


(……しっかりしなくちゃ……)


 ジュリアはパスタもろとも涙を飲み込んだ。

 必死に涙が溢れまいと噛み締める。

 そんなジュリアの様子に気付いたのだろう。

 マシューはジュリアをじっと見つめ、おもむろにジュリアの頭をぽんぽんと優しく叩いた。


「俺、前髪で前見えないから。好きにしたら」


 そう言って、また黙々とパスタを食べ始めた。

 何だかジュリアは堪らなくなり、涙腺が決壊したように涙が溢れた。

 嗚咽を漏らしながら、パスタを啜る。

 その間、マシューは何も言わず、食事を続けた。

 マシューの優しさに甘え、ジュリアは昼休み中、ずっと涙を流し続けた。




 ジュリアは気付かなかった。

 部屋の外からジュリアを見つめる、金の二つの瞳に。


マシューは大のお気に入りです。

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