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第6話

 

 ジュリアが厨房から自室に帰ってからさして間をおかず、カンナが部屋に入ってきた。

 間一髪だったと、ジュリアは一息ついた。


「おはようございます。どうなさいましたか、奥様」

「い、いえ。何でもないのよ」


(勝手に部屋を抜け出して厨房に行っていたなんて、知られたら何を言われるか分かったものじゃないわ)


「朝食はこちらにお持ちしてよろしいでしょうか。ガウス様はまだお休みになられています」

「まあ、でしょうね」

「? 今何か?」

「いいえ。何も。じゃあ朝食はここで食べるわ。あと……疲れているのかあまり食欲がないの。朝食は少なめで構わないわ」

「……畏まりました」



 どうも、昨日と比べてカンナの対応が丁寧になっている。

 カンナの前で号泣してしまったから、同情されているか、関わると面倒だと思われているか。

 どちらか分からないが、昨日のように悪意をぶつけられるよりはよほど良い。



 しばらくして、カンナがワゴンを押して入ってきた。

 ワゴンからテーブルに朝食を並べる。

 サラダとふわふわの白パン、それからフルーツだ。


(さっき食べたばかりだから、流石にお腹いっぱいね。でもトビー、気を利かせて別のものにしてくれたのね。有難いわ)


 目の前の朝食を食べられるか不安だったものの、ジュリアは存外全て平らげてしまった。

 しかしお腹ははちきれんばかりだ。

 完全に空っぽだった胃が急に膨らみ、負担がかかりそうだ。


「ねえカンナ。申し訳ないのだけれど、胃薬をもらえないかしら。この家でも常備されているでしょう?」

「……はい、ございます。奥様、調子が悪いのですか?」

「そういう訳ではないのだけれど、ここ3日ほどほとんど食べていなかったから、久々のちゃんとした食事が胃に重たくて……」

「そう、ですか」



 カンナは静かに、失礼します、と言って部屋を出て行った。

 やはり昨日の勢いはどこへやら、どうにも大人しい。

 ジュリアは首を傾げる。

 またしばらくして、カンナがトレイに薬包と水の入ったコップを持ってきた。

 ジュリアはカンナから薬を受け取ると、口に含み一気に飲み込んだ。


(ううう……昔から薬は苦手だわ……。あまり病気をしたことがないから、慣れていないし)


 ジュリアが顔を顰めて水を飲み干していると、カンナがポツリと呟いた。


「お兄様に無理矢理船に乗せられたとおっしゃていましたね。ご自身で逃げて来られた訳ではないのですか?」

「……信じて、くれるの?」


 ジュリア一瞬キョトンとした後、驚きで目を見張った。

 カンナがそんなことを言うとは思わなかった。


 カンナはキッとジュリアを睨んだ後、ふいっと視線を外した。


「信じた訳ではありません! でも、昨日のあなたは嘘をついているように見えなかった。あれが演技だというなら、相当な女優なはずです。そんな演技力があるならば、あなたは婚約破棄などされていないでしょう。破棄されるのが目的でなければ。だから、少しだけ話を聞いてみようと思っただけです」



 ジュリアを見ないまま、カンナはそう告げた。

 ジュリアの話を信じた訳ではないまでも、聞いていた話と何か違うと感じたようだ。

 カンナはきちんと自分で考え、判断できる人間なのだとジュリアは思った。

 今のジュリアにとって、この存在は貴重だ。


「ありがとう。話を聞いてくれるだけでも、とても嬉しいわ」



 そしてジュリアは話し始めた。

 兄の変化、婚約者の変化、ジュリアの知らない間に、全て両親が不在の間に兄が独断で行ったこと。

 最後の最後まで、ガウスとの婚姻について知らなかったこと。

 何の荷物も、路銀さえ渡されずに船に乗せられたこと。

 父の死は、オルガの事業所で初めて聞いたこと。


 ジュリアはできるだけ主観を入れずに、事実のみを話した。

 その方が説得力があるだろうと思ったからだ。

 カンナはじっとジュリアを見つめ、黙って話を聞いていた。


 そして話が終わると、カンナははーっと深い溜息をついた。


「私には、あなたの話を信じられるだけの材料がない。だから、これだけでは信じません」

「っ……そう……」

「ですが、全てが嘘という訳でもなさそうだと、これは勘ですが思います。なので、昨日の態度については謝罪します。申し訳ございませんでした」

「カンナ……」

「ですが、私はあなたの味方になった訳ではありません。もしも、やはりガウス様の奥様に相応しくない方だと思ったら、それ相応の対応を致します。……失礼致します」


 カンナはそう言うと、お辞儀をして部屋から出て行った。

 どうやらカンナは一旦態度を保留し、中立に立つということのようだ。

 本来なら、メイドがそのような尊大な態度を取ることは許されないだろうが、ジュリアは今この家で誰にも当主の妻と認められていない。

 それに、ジュリアは実家とも縁が切られ、貴族令嬢でも何でもない。

 カンナのこの姿勢は、むしろ良かったと喜ぶべきだ。


 カンナと、コックのトビー、そして庭師のビル。

 彼らのジュリアに対する態度に、嘘はないように見える。


 皆この家ではあまり発言力がある訳ではなさそうだ。

 しかし穿った見方をしない人がいるだけでも、この場所でジュリアがやっていける活路が、細く小さいながらも開けた気がした。




 その後、カンナが替えのドレスを持ってきてくれた。

 きちんと黒色だ。

 しかし事前に用意していた黒いドレスはこれともう1着だけらしい。

 今後1年は黒いドレスを身に付けるので、新しく仕立てた方がいいかもしれない。


(と言っても、この状況でそんな話をするのは難しそうよね……。船乗りの彼から預かったお金はまだあるけれど、既製品が1着買えるかどうかかしら。平民の服なら、まだもうちょっと買えそうだけど……)


 とりあえず、今はこの2着を着回すことにして、早くガウスの誤解を解くことを考えた方がいいという結論に達した。

 今手元にある金が、ジュリアの全財産だ。

 何も持ってきていない為、売れる物もほとんどない。


(売れるとしたら、マホガニー家の紋章の入った指輪と、このネックレスだけね……)


 胸元のアメジストのネックレスを、ジュリアは握りしめた。

 成人のお祝いに、マルセルが顔を赤くしながら渡してくれたネックレス。


 17歳の誕生日にはダイヤの指輪をくれたが、パーティー用の華やかなデザインだったため出て来る時につけておらず、マホガニー家のジュリアの自室にあるだろう。


 ジュリアは春生まれだ。

 18歳の誕生日には、マルセルからは、何も届かなかった。



 ジュリアは決してマルセルに恋をしていた訳ではない。

 だがこのネックレスは、幸せだった頃の象徴のような気がして、手放す気にはなれなかった。




 ジュリアは指輪を外し、ネックレスのチェーンに通して首から下げる。

 部屋にはジュエリーボックスがなく、アクセサリーを置いておくのは気が引けたので、ネックレスは常に身に付けている。

 もうマホガニー家の紋章を堂々と付けることも憚られ、指輪は首から下げることにしたのだ。



(ああ。何か仕事がしたいわ。ここに居ても何もやることがないし。クルメル商会のお手伝いは……させて貰えないかしら)


 ジュリアはカンナに手伝ってもらい、黒いドレスを着た。

 このドレスは後ろにボタンが付いているため、どうしても手伝って貰わなければならない。

 ドレスを着終わって、一息つく。

 すると途端にやることがなくなってしまった。

 ジュリアは手持ち無沙汰に、何かできることはないかカンナに聞いてみた。

 すると読書と刺繍を勧められた。

 ジュリアは刺繍があまり好きではない。

 不器用で細かい手作業が苦手なのだ。

 ジュリアは読書をすることにした。

 カンナの案内で、図書室へと向かう。

 図書室は南棟の中央部、ちょうどVの角のあたりにあった。

 思ったよりもかなり蔵書が多い。


「すごい。これはどなたが集められたものかしら」

「ガウス様は読書家でいらっしゃいます。ここにある書物はガウス様のご両親が集められたものも多いですが、半分はガウス様のものです」


 ジュリアは驚いた。

 どうもガウスの印象とここにある蔵書が結びつかない。

 かなり難解な専門書もあるようだ。

 若くして商会を背負うことになったガウスは、想像以上の努力を強いられたのかもしれない。

 ジュリアは、自身もたった一面だけで相手を判断していたのだと、反省した。



 いくつか興味を唆る書物を手に取り、中央にあるテーブルに着く。

 思いの外熱中してしまい、カンナに昼食の確認を取られるまで読書に没頭してしまった。

 ほとんど動いておず、あまり腹も減っていない。

 カンナに軽いものを持ってきてもらうよう伝えた。


 ジュリアは野菜とハムの挟まったホットサンドを食べ、また読書を始めると、ガウスが図書室にやってきた。


「おい。支度をしろ。お前を商会に連れて行く。ただ家で遊ばせはしないぞ。せめて少しは役に立て」


 そう言ってさっさと部屋から出て行ってしまった。

 ジュリアは本を戻すようカンナに言い添え、慌ててガウスを追いかけた。



 邸宅から商会の事務所まで、徒歩で10分と掛からない距離だ。

 と言っても、貴族ならば皆馬車で行く距離である。

 だがガウスは徒歩で行くつもりらしく、ジュリアを気にせず、ずんずんと歩いて行く。

 どうやら供は付けないようだ。

 背の高いガウスは歩幅も広い。

 女性としては背が高い方であるジュリアも、小走りにならないと追い付けない。


「あの、ガウス様っ、もう少しだけゆっくりお願いします!」

「ふんっ。俺に意見するつもりか!とっとと付いて来い!」


 そう言ってちらりとジュリアを見ただけで、ガウスはまた前を向いて歩いて行く。

 仕方なく、ジュリアは小走りのまま追いかけることになった。


 事務所に着く頃には、ジュリアはクタクタだった。

 通常ならジュリアは貴族令嬢としては珍しく余裕で歩く距離であるが、ここ最近きちんと休めていない。

 体も動かしていなかったので、当然のことだった。


「軟弱だな。貴族のお嬢様としてぐうたらしていた証拠だ。これからはそうはいかない。覚悟しろ」


 荒い呼吸を繰り返すジュリアをひと睨みし、ガウスは事務所に続く扉を開いた。



 クルメル商会の事務所は王都の目貫き通りに面した一等地にある。

 5階建ての建物のうち、1階は店舗になっていて、2階以上が事務所になっている。

 クルメル商会はハーブやスパイスを扱う商会だ。

 センダン商会の質の高いハーブを始め、様々な地域の珍しいものを扱っていることもあり、とても人気が高い。

 最近ではそうしたハーブなどを使った料理や菓子を出す飲食店をホルツ国内に5店舗ほど展開しており、どれも行列が出来る人気ぶりだ。

 中でも目貫き通りにあるこの店舗は、本店として国内一の売り上げを誇る。

 実際に商品を売る店舗が事務所の一階にあり、隣の建物の一階にレストランがある。

 客の好みに合わせてスパイスとハーブを調合し、オリジナルのミックススパイスを作るスタイルがうけており、店舗にもレストランにも人が溢れている。

 通りにまでハーブやスパイスの香りが漂い、もしも昼食を食べていなければ腹の虫が鳴いていたかもしれない。

 よくセンダン商会でも嗅いだ懐かしい香りだった。


 店舗の脇にある扉を潜ると、右手に重厚な木の階段があった。

 正面には、3人がぎりぎり入れる小部屋がある。

 小部屋の扉は引き戸のようで、ガラスが嵌め込まれている。

 扉は二重構造になっており、内側には金属の蛇腹式の扉があるようだ。

 ガウスはその扉を引いて、中に入る。

 ジュリアはどうしていいのか逡巡していた。


「とっとと乗れ。それとも階段で行くか?」


 ガウスがジュリアを鼻で笑った。

 ジュリアはよく分からないながらも、ガウスに続いて小部屋に入る。

 ガウスはまた2枚の扉を閉め、壁に付いたハンドルを右に倒した。

 すると、なんと小部屋自体が上に上り始めたではないか。


「これ……昇降機……!」

「初めてか。まぁ、ティンバーにはまだ入っていなかったな。ホルツでも入れているのはごく僅かだ」


 ガウスはどこか誇らしげに言うと、はたと気付いて顔を顰める。

 相手がジュリアであるにも関わらず、つい話してしまったようだ。

 そんなガウスに気付きつつも、ジュリアは続けた。


「話には聞いていましたが、こんなにも揺れが少ないものだとは思いませんでした。力もあまり要らなそうですね。それとも、ガウス様が力持ちなのでしょうか。しかし昇降機をご自身でお持ちだなんて……財力もさることながら、最先端の技術を積極的に取り入れる決断力は、流石ですわ!」


 ジュリアは興奮気味に話す。

 お世辞でも何でもなく、初めて実際に見る昇降機に感動し、それを導入したガウスを本心から流石だと思ったのだ。

 これはジュリアの持論だが、自分が感じた好意的な印象は、相手に伝えて悪いことはない。

 全く出鱈目の胡麻擂りは、人の心を動かさないばかりか相手を不快にさせることすらある。

 だが、実際に自分の感じたことであれば、それはきちんと相手に伝わるし、相手も悪い気はしないはずだ。

 ジュリアはそう思っていた。

 ガウスは何も応えないが、満更でもなさそうだ。

 ジュリアはふうっと安堵の息を吐いた。



 昇降機を降りると、目の前にこれまた重厚な扉が現れる。

 扉の枠には精緻な細工が施され、そうしたことにあまり頓着しないマホガニー男爵家の執務室より立派かもしれない。

 ガウスはその重厚な扉を押し開いた。


 扉の向こうは、広々とした室内の壁中に資料が納められている。

 思ったよりも綺麗に整頓されていた。

 部屋の最奥にある一際大きいデスクはガウスのものだろう。

 そのデスクを前にして右手に、一回り小さいが立派なデスクがある。

 そのデスクには、1人の男が座っていた。

 年はガウスよりも幾らか上だろうか。

 金髪だが長い前髪だけが茶髪で、それを真ん中で分けた前下りのボブという印象的な髪型だ。

 線の細い優男風の端正な顔立ちで、ガウスとは別の層の女性たちに人気がありそうだ。


 ガウスが部屋に入ってきたことを認めると、男は呆れを滲ませつつも、親しげに声を掛けた。


「相変わらず遅よう様ですね。もう昼すぎですよ?おや、そちらの女性はどちら様ですか?」

「きちんと仕事はこなすから問題ないだろ。こいつは俺の妻になった女だ。形ばかりだがな」


 ガウスが紹介とも付かない紹介をする。

 名前も伝えないのであれば、やはり紹介ではないのかもしれない。


「これはこれは。あなたが噂の奥様ですか。随分と……話に聞いていた印象とは異なりますね。私はユアン・ヒッコリーと申します。これでもクルメル商会の副会頭をしております。どうぞよろしくお願いいたします」


 ユアンはにこりと笑顔で言った。

 ジュリアは内心驚く。

 これまでジュリアの噂を知って敵対心を露わにしない人物は、船乗りの男以来初めてだ。

 ユアンの笑顔にはどうも色気が感じられ、多くの女性は簡単に陥落しそうである。


 だが、ジュリアは気付いていた。

 ユアンの目は、鋭くジュリアを観察し、値踏みしていることを。


 ジュリアはその印象を心に留め、自身も笑顔を作った。


「恐れ多くも、ガウス様の妻となりましたジュリアと申します。嵐のせいで、ようやく昨日こちらに到着したのです。お会いできて光栄ですわ」


 そう言ってジュリアは美しいカーテシーをする。

 ジュリアはお転婆故によく家庭教師を悩ませたが、カーテシーだけは自信があった。

 きっと体幹が鍛えられていたからだろう。

 この数週間で体力は落ちたが、まだカーテシーは問題なく出来そうだ。

 美しいカーテシーにはある程度効力がある。

 上流階級と付き合いのある人物が見れば、印象は良いはずだ。


「こいつにはこれから雑用をさせろ。くれぐれも経営に関わるようなことはやらせるなよ」


 ガウスはそう言って、自分のデスクにさっさと座ってしまった。


 ジュリアは、ガウスが自分に仕事をさせる気だと知って驚いた。

 どういうつもりかは分からないが、家でくさくさしているよりずっといい。

 きっと出ないのだろうが、給料も気になる。

 しかしそれは追々確認しようと思った。


「まさか仕事をさせていただけるなんて、とても光栄ですわ。どんなことでも構いませんので、やらせてくださいませ!」


 ジュリアは思わず心からの笑顔で、胸の前に両手で拳を作る。

 ユアンは一瞬きょとんとした後、声を立てて笑った。


「ははは。気合十分ですね。それでは、明日以降の業務は後で考えるとして、今日はこの部屋の資料整理をお願いしてもよろしいですか。後ろの棚にある資料を、種類と年代別にまとめて下さい」

「分かりましたわ。それは今日中という事でよろしいでしょうか?」

「ええ。大丈夫です。ですがこの量ですので、今からだと今日中には終わらないかもしれませんね、それなら出来るところまでで構いません。ああ、それから。ガウス様の奥様に敬語を使われるのは居心地が悪いですね。ぜひ普通にお話しください」

「いいえ。ここではあくまでヒッコリー様が上司ですわ。そうしたことはきちんとしなくては。ですから逆にヒッコリー様が敬語を外してくださいませ」

「いや……はは。これは参りました。ではそうして貰うよ。ガウス様、よろしいでしょうか?」

「……勝手にしろ」


 ガウスはジュリアの方を見ずに吐き捨てた。

 ユアンは両肩をあげながらも、ジュリアによろしくと微笑んだ。



 こうしてジュリアは思ったよりもずっと居心地良く商会で仕事をすることが出来た。

 ガウスも仕事中は黙々と業務をこなし、ジュリアに対し悪意ある態度を示さなかった。

 公私は切り分けられるのだろう。

 これがジュリアでなく、別の女性だった場合はそうもいかないのかもしれないが。

 ユアンはジュリアの質問に丁寧に答え、スムーズに作業は進んだ。

 そして終業時間までには、きっちりと作業を終えることが出来たのだった。


「さすがコンテナ男爵の娘さんだけある。仕分けが早いね。そして的確だ」

「いえ、そんなことは。元々ある程度種別ごとに纏っていましたし、大したことはありません」


 本気で感心している様子のユアンに、ジュリアは頬を染めた。

 ジュリアにとって仕事ぶりを褒められることが、何より嬉しいことだ。

 純粋に喜んでいた。


「ふん。付け上がるなよ。俺はまだこの資料を確認してから出る。お前は1人で帰れ。道はもう覚えただろう」


 時刻は夜6時を回る。

 夏のこの時間はまだ明るい。

 確かに1人で帰っても問題ないだろう。


「畏まりました。それでは、お先に失礼いたします。ガウス様も、ご無理なさりませんように」


 ジュリアは丁寧にカーテシーをする。

 そして1人執務室を後にした。


 さて、ここから降りるために昇降機を使いたいが、使い方が分からない。

 先程ガウスがやっていたことを見様見真似でやってみればいいのだが、未知の装置に操作を失敗すると昇降機が落ちるのではないかと心配になった。

 やはり階段で降りるべきかとジュリアが逡巡していると、執務室からユアンが出てきた。


「やっぱり、初めて見ると戸惑うよね。ほら、一緒に降りよう」


 どうやらジュリアのことを心配して出てきてくれたらしい。

 ジュリアは素直に嬉しかった。

 ユアンは壁に取り付けてある扉を開けて昇降機に入ると、ジュリアも中に誘った。


「ありがとうございます。乗ってみたかったのですが、操作が分からなくて……」

「簡単だよ。ほら、このレバーを左に倒すと下に、右に倒すと上に行く。最近よく聞くようになった蒸気機関で動いてるんだ」

「わあ!そうなのですね!センダン商会でも、船や船積み用クレーンに蒸気機関が応用出来ないか研究していた所ですのよ!そんな最先端な技術が使われているなんて!」

「仕事を始めた時もそうだったけれど、君は本当に、きらきらした目で話すんだね。何だかとてつもなく凄いことをしている気分になるなあ」

「お恥ずかしいですわ。つい、思ったことが出てしまって……」

「いや、いいんだ。それはきっと君の美点だろう。……ガウス様には、勿体無いくらいだ」

「え……?」


 そこでユアンは何かを誤魔化すようににっこりと笑った。


「ほら。1階に着いたよ。本当は屋敷まで送りたいけれど、それだとガウス様にどやされてしまうからね。気を付けて帰って」

「はい。ありがとうございました。明日もどうぞよろしくお願いいたします」


 ジュリアは目を伏せてカーテシーをしていたため気付かなかった。


 ジュリアを見つめるユアンの表情が、一瞬抜け落ちていたことに。



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