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第4話

 

 アルガの街から、更に1日。



 ジュリアは1人、門の前に立っていた。


 御者に無理を言って、夜道も馬車を走らせてもらい、翌日の昼前にはウォルナット家の邸宅に着いた。

 礼として、船乗りの男から預かった路銀を少し御者に渡して別れた。




(今日からここが、私の家なのね)


 ここに来る道中。

 これまでのあらゆることが頭を駆け巡り、嵐が吹き荒れる胸を抱えてここまで来た。

 もはや、今はいっそ心は凪いでいた。

 いや、あまりに傷付きすぎて、もう何も感じなくなったと言うべきか。


(どこに居たって、もう同じことよ。帰る場所は、もうないのだから)


 そしてジュリアは、何の感慨もなく、門を叩いた。

 あるのは、父を失った静かな悲しみ。

 母と兄、そしてマルセルを案ずる気持ちだけだった。




 ホルツ王国の王都には、南北に運河が走っている。

 王宮はこの運河の西隣に位置し、運河に並行に南へと目抜き通りが作られている。

 クルメル商会は、この目抜き通り沿いに事務所を構えており、これは実力ある商会の証だ。

 ウォルナット家の邸宅は、目抜き通りから運河を渡った橋の袂にあった。

 マホガニー家ほどではないものの、それなりに立派な門構えだ。

 ジュリアは商会でしかガウスに会ったことがなかった為、邸宅には初めて来た。

 運河に沿うように作られた道と、橋から続く道が交差する角にあり、扇形に作られた建物の中心角の部分に門がある。

 そのすぐ奥に、5段ほど階段を登った所に玄関が見える。

 高級住宅街なのか周囲の家々も立派なものだが、ウォルナット家の邸宅は3階建てで、特に大きく見える。

 他の家にはあまり見当たらないが、ウォルナット家の門の前には門番が1人立哨(りっしょう)していた。



「もし。私ジュリア・マホガニー……いえ、ジュリア・ウォルナットですわ。当主のガウス・ウォルナット様に取り次いでいただける?」


 ジュリアは門番に声を掛けた。

 すると門番は怪訝な顔をし、ジュリアを上から下まで観察するように眺める。


「ああ? 何だあんた。もしやガウス様の遊び相手の1人か? 帰れ帰れ。一応ガウス様には奥様が出来たんだよ。知らないのか?」

「いいえ……私がその奥様なのですわ。今日からお世話になるのです」

「はは! 嘘ならもっと上手く吐きな! 奥様はあのティンバー王国のお貴族様だぞ! こんな小汚い女な訳ないだろう!」



 そう言われて、ジュリアは改めて自身を顧みる。

 この一週間洗われていないドレスは酷く汚れ、至る所に土が付いている。

 そして風呂にも入っていない。

 泊まったのは安宿だったため、風呂がなかった。

 ジュリアはこの一週間、湯に浸した布で拭う以外のことをしていなかった。

 食事もほとんど食べていない。

 元々心労が祟って窶れてきていたのもあり、鏡を見ないと分からないが、相当な酷さなのだろう。


「……あの、これを見ていただける? この指輪はマホガニー家の紋章よ。あなたも見たことがあるのではないかしら?」



 マホガニー家の紋章は、センダン商会で扱う商品の外装にも印字している。

 そのためセンダン商会の商品が数多く流通するホルツ王国では、見たことがない人間の方が少ない。

 門番はその指輪見ると、慌てて屋敷の中に駆けて行った。


 しばらくその場で待つと、玄関から執事らしき年配の男が降りてきた。

 グレーの髪を全て後ろに撫でつけ、左眼にモノクルを掛けている。

 後ろには先程の門番が付いている。


「これはこれは。奥様。遅いお着きで御座いましたね」


 執事らしき男は表情を動かさず言う。

 随分と不遜な態度だ。

 確かに普通であれば2日前には着いていていい。

 ジュリアは素直に謝罪することにした。


「嵐のせいで街道が塞がって立ち往生してしまったのよ。一応そう連絡を入れたのだけれど……待たせてしまい申し訳なかったわ。ガウス様にも、そうお伝えしたいの。ガウス様は今どこ?」

「……ご主人様は今商会の方にいらっしゃいます。とりあえず、奥様は邸宅の中へ。旅の汚れを落としてくださいませ」

「……ええ……そうね。そうするわ」



 ジュリアは執事に付いて門を潜り、階段を上がる。

 しかし、随分と歩みが早い。

 ジュリアは本来走り回るのが好きな質のためそこまで苦でもないが、普通の御令嬢はきっと付いていくのは大変だろう。


(やっぱり……お兄様から何か聞いているのね。明らかに歓迎されていないわ)


 それは邸宅の中に入っても同じことだ。

 通常、貴族の娘が嫁ぐ場合には使用人が総出で出迎え、当然当主たるガウスも迎えるものだ。

 しかしエントランスホールはがらんとしていた。

 確かに嵐のせいで予定より遅くなったのは確かだが、宿から手紙は出していたのだ。

 準備が出来なかった訳ではあるまい。



 邸宅の中を歩きながら、スチュアートと名乗る執事からこの家のことを聞いた。

 使用人はスチュアートを入れて6人。

 メイド長とメイドが3人、あとはコックだ。

 表からは分からなかったが、扇形の邸宅の弧の部分が一部削られ、太いVの形になっており、その削られた部分に庭があるようだ。

 それぞれ運河沿いに立つのが南棟、橋から続く道沿いに立つのが東棟と呼ぶらしい。

 東棟は主に使用人の自室や作業部屋があり、南棟はウォルナット家のプライベートルームや客間があるようだ。


 廊下を進むと件のメイドと思しき2人とすれ違う。

 どちらもジュリアより少しだけ上に見える、若い娘だ。

 2人は一応形ばかりに頭を下げるが、通り過ぎると後ろからこそこそと話し声が聞こえ、明らかに嘲りを含んだ笑い声が聞こえる。

 随分と質の悪い使用人だ。


(まあ……この姿では、仕方ないかもしれないけれどね)


 ジュリアは自嘲した。

 窓ガラスに映った自分の予想以上の姿に溜息が漏れる。

 汚れも酷いが、思った以上に窶れ方が酷い。

 マホガニー家にいた時も、このひと月ほどはずっと食欲がなく、細くなっていた自覚はあるが、この一週間でより酷さが増している。

 まさに幽鬼のようとはこのことだった。



 スチュアートに案内されたのは、南棟の3階の端、庭に面した部屋だった。

 ガウスの自室は2階だと聞いたため、明らかにこの家の妻の部屋ではない。

 調度から考えて、客間のようだ。

 入ってすぐにベットがあり、入り口の正面とベットの脇に窓がある。

 ベットの脇の窓の前には、小さめの書き物机が設置されていた。

 左手は浴室に繋がっているようだ。

 通常、妻の部屋にあるはずのクローゼットルームはなく、右手に大きめのワードローブがあるのみだ。


(部屋は何でも別にいいけれど。できれば運河に面した部屋が良かったわ。船が見えるし)


 ジュリアは一つ息を吐くと、窓に近寄って外の庭を見下ろした。

 すると、1人の庭師が花の植え替えをしているところだった。


(庭師がいるとは言っていなかったけれど……通いの庭師なのかしら)


 ジュリアがしばしぼーっと庭師の作業を見つめていると、ふと庭師がジュリアの部屋を見上げ、目があった。

 庭師は立ち上がると、帽子を脱いでお辞儀をした。

 先程まで顔が見えず、てっきり年配の男性かと思ったら、思ったよりも若い男のようだ。

 茶髪のふわふわした髪が、帽子を被っていたためにあちこちにはねているのが遠目からでも分かる。

 ジュリアは何だかおかしくなって、小さく笑みをこぼした。



 すると、コンコンとノックの音が聞こえ、入口を振り返るとメイド服を着た2人の女性が入ってきた。

 ジュリアの母ほどの年齢の女性と、先程すれ違った2人とは異なる若いメイドだ。

 この2人が、メイド長と残りの1人なのだろう。


「奥様。ご挨拶が遅くなりました。私がメイド長をしているマルタと申します。そしてこちらがカンナ。本日から奥様付きになります」

「カンナと申します。よろしくお願いします」


 カンナと紹介されたメイドは、くすんだ茶色の髪に茶色の目、そして頬にはそばかすが散った平凡な容姿だ。

 しかしくりくりと大きな瞳が可愛らしい印象を与えている。

 年はジュリアよりも幾分か若いだろうか。

 成人しているかいないか微妙な頃合いだ。

 2人とも口調は丁寧だが、ジュリアの特技を使うまでもなく、明らかに警戒心と敵対心を持っているのを感じる。

 特にマルタと名乗ったメイド長からは、どこかこちらを値踏みするような鋭い視線を感じた。


「ガウス様はとてもお忙しい身。本日の夜までこちらに帰ってこられません。それまでゆっくりお休みくださいませ。まずは……そうですね。ご入浴なされるのがよろしいかと。カンナ、準備を」

「はい」


 カンナは浴室へと入って行った。

 マルタと2人になったジュリアは息が詰まる心地だった。


「それで、私はここでどんな仕事をすればいいかしら。

 何も持たずに身一つできてしまったのだもの。

 許される限りの働きはするわ。

 屋敷の女主人のお仕事は……させてもらえるのかしら?」

「詳しくはガウス様がお帰りになられたらお話になります。ガウス様にお聞きください」


 マルタは突き放すようにそう告げる。

 ジュリアは吐きそうになった溜息を既の所で飲み込んだ時、カンナが準備ができたと浴室から出てきた。


 マルタは無言で会釈をし、部屋を出て行った。


 いかにも不本意だという様子で入浴を手伝おうとするカンナを制し、ジュリアは1人で浴室に入った。

 浴室にはバスタブの湯が張られ、石鹸のいい香りがする。

 湯は直接この浴室の蛇口から出るようだ。

 これは平民の邸宅ではとても珍しい。

 さすがクルメル商会のウォルナット家というところだろう。

 ヘアオイルやタオル、着替えなど必要なものは一通り準備されており、ジュリアはホッと息を吐いた。


 ジュリアは丁寧に指輪とネックレスを外し、全身を念入りに洗うと、ゆっくりと湯に浸かり、目を閉じた。

 今まで不自然に凪いでいた心が騒ぎ出す。

 母はどうしているだろう。

 心労で倒れたと聞いた。

 母はとても大らかで、いつもにこやかに微笑んでいる人だった。

 そして、父を、兄を、私を心から愛していた。

「あなたたち家族が、私の宝物」が口癖だった。

 今のこの状況に、どれ程心を痛めているだろう。

 兄に捨てられるかもしれないが、ダメ元で手紙を出してみようか。

 父は、一体どういう気持ちで海に沈んでいったのだろう。

 私のことをどう思っていたのだろう。

 本当に、兄の言うことを信じて、私が愚かな娘だと恨んだだろうか。

 けれどもう弁解も説明も出来ない。

 父はなぜ死ななければならなかったのか。

 そして、兄。

 一体何があんなにも兄を変えてしまったのだろう。

 実はメイプル男爵令嬢は何も関係なく、私自身に兄を憤怒させる何かがあったのだろうか。

 私はもっと他に何が出来たのだろう。

 考えれば考えるほど、あらゆることが出来たような気がしてくる。


 ジュリアは目を閉じ、膝を抱えて湯の中で涙を流し続けた。




 ジュリアに用意されていた服は、一般的な貴族令嬢の室内着よりも若干グレードの落ちるサマードレスで、夏らしい鮮やかな水色だった。

 普通だったら喜ぶ色合いだが、今はとてもそんな気になれない。

 父が亡くなったばかりなのだ。

 やはりドレスは黒がいい。

 それにサイズが明らかにジュリアより大きい。

 服を変えてもらった方が良さそうだ。

 サマードレスは後ろを紐で編み上げているもので、自分一人では着られない仕様になっている。

 仕方なく、ジュリアは自分で着られる所まで着てから、浴室を出た。


「ねえカンナ。お願いがあるのだけど、ドレスを別の物にしてくれないかしら。黒色で、自分一人で着られる物がいいわ。あともう少し小さいサイズはないかしら。ないのであれば、仕方ないけれど」


 カンナはちっと舌打ちをした。

 流石にこの態度は使用人としてどうなのかと思い、注意しようとジュリアが口を開きかけた時、カンナの方が先に言葉を発した。


「それは体裁を取り繕いたいということですか?」

「え?」


 ジュリアはカンナの言っていることがさっぱり理解できなかった。

 ドレスの変更を頼むことが、一体何の体裁を取り繕うことになるのか。


「だって、あんたが喪に服すのはおかしいもの。あんたのせいじゃない」


 カンナはそう吐き捨てる。


 成る程、彼女は既にジュリアの父の死を知っているようだ。

 そして何某か、アルガの所長が言っていたようなことを、聞かされているに違いない。


「いえ、それは違うの」

「それともガウス様の色を身につけて媚を売ろうと言うことですか? 生憎、どう見てもあなたはガウス様の好みじゃない。とっととそれを着なさい!」


 そう言ってカンナは無理矢理にジュリアの背後に回ると、ぎゅっと編み上げを締め上げた。


「痛い! 何をするの!」

「あんたなんて! 婚約破棄された傷物の性悪のくせに! しかも生粋の貴族のお嬢様ですらないくせに! 何であんたなんかがガウス様の妻になるのよ!」


 カンナはそう叫ぶと、ドレスの紐を乱暴に結んでジュリアを突き飛ばし、きっと睨みつけた。

 ジュリアはたたらを踏んだが、どうにか踏みとどまり、驚いてカンナの方を振り返った。

 カンナは本来くりくりした大きな目をきっと釣り上げ、ジュリアに敵対心を剥き出しにしている。

 最初は辛うじて使っていた敬語も剥がれ落ちている。




「あなた……ガウス様のことが好きなのね……?」

「っ……!」


 カンナは皮膚が裂けそうなほど唇を噛み締め、目に涙を溜めている。

 ジュリアは理解した。

 彼女が自分を厭うのは、ジュリアの評判だけでなく、ガウスへの恋心故なのだろう。


「あんたに教えてあげる! ここの家の若いメイドはみんな、ガウス様の愛人よ! エマもルーナも、ガウス様が家に帰られた時は日替わりで寝室に呼ばれるんだから! あんたなんか、ただのお飾りなのよ!」


 そう叫ぶと、カンナは部屋から飛び出していった。

 ジュリアは呆然とそれを眺め、溜息を吐いた。

 ドレスはこのままで居るしかなさそうだ。



 それにしても、ただでさえ頭が破裂しそうなのに、また厄介なことを聞いてしまった。

 エマとルーナというのは、先程廊下ですれ違ったメイドのことだろう。

 ジュリアは、はぁっとため息を吐いた。


(彼女の言っていることが本当かどうかは分からないけれど、ガウス様なら十分にあり得るわ。だとしたらやっぱりガウス様は最低ね。見目は確かに悪くなかったけれど……好きになれそうにないわ)



 ジュリアはかつて会ったことのあるガウスを思い出す。

 最後にガウスと会ったのは、ジュリアが10歳を超えたかどうかという頃だろうか。

 ガウスはジョシュアの1つ上に当たる。

 その為、当時ガウスは17、8の青年だった。

 黒い髪を短く切り、背が高く、鍛えているのかがっしりとした体。

 金の瞳が印象的だった。

 ただ外見だけを見ていたのなら、ジュリアとて嫌悪することはなかった。


 しかし、彼はとにかく女性関係が派手だった。

 自分の好みと見ればそれが婚約者がいようが既婚者だろうが見境なくアプローチする。

 実際、見た目がいいことと、交際中のガウスは女性に丁寧なようで、非常にモテていたのも確かだ。

 4股5股というのもざらで、幼い頃からジュリアは必要以上にガウスに近寄ることを避けていた。

 商人としては優秀で、早くに両親を亡くして若くしてクルメル商会の会頭になったが、部下を纏める力もあるようだ。

 だがすぐに職員の女性に手を出し問題となる為、クルメル商会には現在年頃の女性はいないと聞いた。

 遊びで付き合うつもりの女性はいいのかもしれないが、正直夫にするには最も適さない部類の男だろう。

 そんな男が、8年経ちどうなっているのかと想像すると、ジュリアは身震いする思いだった。


(お兄様……私がガウス様を毛嫌いしていることを知っていて、敢えて結婚相手に選んだに違いないわ。一体、お兄様の何がそこまでさせるのかしら……)


 ジュリアは、ぽすんとベッドの縁に腰掛けた。


(でも、私はもうここでやっていくしかない。ここでやっていけるように、まずは努力しよう。全てはそれから。もしも、どうしてもダメだと思ったら……何か方法を考えなければ)


 顎に手を当て、ジュリアは考える。

 カンナの言うようにガウスに媚びを売るつもりはないが、良好な関係を築けるならそれに越したことはない。

 幼い頃の印象と噂話で判断せず、ガウスときちんと向き合う努力をすべきだとジュリアは考えた。


(そんなもの、ここの人たちの私に対する態度と同じだわ。きちんとガウス様その人を見なければ)


 ジュリアは強く頷き、自分に言い聞かせる。

 ベッドから立ち上がり、窓辺に立つ。

 窓の外を見てみたけれど、あの庭師はもう居ないようだった。


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