第18話
ガウスがティンバーから戻ると、ジュリアは待てないとばかりに話をせがんだ。
ティンバーの話は噂で色々と流れてくるけれど、確かなことは何も分からなかったから。
エミリアは元気にしているのだろうか。
アークは、カインは、ルーカスは、デュークは、そしてマルセルはどうしているのだろう。
そう思っていたジュリアとって、ガウスから聞いた話は、とても辛いものだった。
かつてはとても近くに居て、共に笑い合った人たちだ。
彼らと過ごした時間は、ホルツで過ごした時間よりもずっと長い。
長さだけではない。
穏やかで、特別なことではないけれど、確かに共に刻んだ思い出があった。
彼らを思うと、思い出が鮮やかに蘇る。
アークと初めて挨拶をした時に笑われてしまったこと。
カインと読んでいる本の内容を語り合ったこと。
ルーカスに抱き上げられはしゃいだこと。
デュークに髪に口付けられ赤面したこと。
まだマルセルと婚約する前のこと。
ジュリアとエミリアがお気に入りのリボンを交換して、お互い身に付けていたことがあった。
ジュリアは萌黄色のサテンのリボンを、エミリアは薄水色のレースのリボンを渡した。
ルーカスに薄水色のリボンが赤茶の髪に合わないと揶揄われ、ジュリアは悔しくて思わずポロポロと泣いていてしまった。
するとカインが『乙女心の分からないガサツ男め』とルーカスの頭をこづいた。
『小さなレディ、君に涙は似合わないよ』とデュークがハンカチを貸してくれた。
アークは『俺のエミリアが何でも似合ってしまうだけだ、気にするな』とフォローにならないフォローをし、エミリアは『そんなことないわ!とても素敵よ!』と必死に褒めてくれた。
ジョシュアは、『大丈夫、可愛いよ』とジュリアの頭を撫でてくれた。
そして泣き止んだジュリアに、気まずそうに頬をかいてルーカスが謝ってくれた。
今はもう戻れない、幸せな日々だ。
マルセルとの思い出もたくさんある。
マルセルとオリーブ畑を散歩して、お弁当を食べて、昼寝したこと。
マルセルはキュウリが苦手なのだ。
サンドイッチに入ったキュウリを食べるのは、いつもジュリアの役目だった。
最初怖いと思ったマルセルの赤い瞳にもすぐに慣れてしまって、まるでルビーみたいに綺麗だと褒めたら耳まで赤くしてしばらくは瞳を見せてもらえなかった。
ある農家で飼っていた大型犬が恐ろしくて、いつもマルセルの後ろに隠れた。
マルセルはしっかりとジュリアを守る様に支えてくれた。
初めて誕生日のプレゼントを貰った時、本が好きなジュリアのために美しい細工の施された栞をくれた。
その時の、ただ一言聞いた『おめでとう』がとても嬉しかった。
いつも無表情なマルセルが、初めて微かに微笑んでくれたから。
何気ないあの日々が、後から後から思い出される。
そんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。
マルセルは穏やかな人だった。
無口だけれど、とても心の温かい人だった。
いつもさりげなくジュリアを気遣い、いつでもジュリアの側にいて、とても、とても大切な人だった。
それなのに。
何もかもが変わってしまった。
ジュリアはマルセルのことを何も分かっていなかったのだと、今更思い知らされる。
あの頃マルセルが辛い思いをしているなど、欠片も知らなかった。
マルセルがローズウッド子爵の実子でないことは知っていた。
しかし子爵には子どもが居なかった。
だから実の子の様に可愛がっているのだと、ジャンに話していたはずなのに。
マルセルがジュリアのことを我慢ならないと思うのも、仕方ないと思った。
ジュリアは、何も知らなかった自分を憎んだ。
未だに牢の中にいるであろうマルセルを思い、ジュリアは涙を流した。
世間も大きく動いていた。
行方が分からなくなっていたニグラ公爵の乗った船が、ティンバーの浅瀬に座礁しているのが発見された。
遺体は見つからなかったものの、状況から見てニグラ公爵の死は間違いないだろうと判断された。
また、ジョシュアに海へと突き落とされたシャーロットの遺体の残骸が、船が座礁していたのと同じ浅瀬に打ち上がった。
損傷が激しく身元の特定に時間がかかったが、身につけていた衣服の切れ端と僅かに残った頭髪から、シャーロットであろうと判明した。
その後ホルツ王国政府により、この2人は血の繋がった親子であるとの見解が発表された。
奇しくも、親子の死が同じティンバーの地で判明したのは、運命の悪戯だろうか。
ジュリアはこの報道を新聞で読み、酷く驚いた。
それと同時に納得したのだ。
ジュリアやその周りの人々の人生がこうも壊されてしまったのは、国家の陰謀だったからなのだと。
アンブルがティンバーを手に入れるために送り込んだ、毒。
それがシャーロットだったのだろう。
ティンバーはアンブルの毒牙にかかり、それをホルツ王国が救ってくれたのだ。
たとえ国としての形が無くなろうと、このままアンブルに蹂躙されるよりは余程良かった。
一体誰がどのようにアンブルの動きを掴んだのか、ジュリアには分かるはずもない。
けれど、その誰かにジュリアは心から感謝した。
そしてホルツという国に、感謝していた。
ガウスがティンバーから戻って3か月。
ジュリアは必死に歩く練習をしていた。
ついにジュリアは、補助具を使えば一人で歩けるくらいにまで回復した。
医師にはかなり治りが早いと言われた。
まだ若く、子どもの頃からお転婆でよく動いていたことが要因だろう。
人生何が役に立つか分からないものだ。
折れてしまった骨に気遣いながら、衰えた筋力を回復することが難しい。
日々訓練する他ないと言われている。
商会の仕事も少しずつ始めたが、ガウスが無理をするなとあまりジュリアにやらせない。
本当は仕事に没頭して色々なことを頭から追い出したいのだがそうもいかず、ジュリアは鬱屈としていた。
そんな気分を少しでも晴らそうと、ジュリアはよく中庭に出る様になった。
少しばかり屋敷の外に出て、運河沿いを散歩したいとも思うが、ガウスがまだどうしてもと許してくれない。
付き添いを連れて、中庭に出ることが精々だ。
しかしジュリアにとってそれは、気分転換と訓練を兼ねた良い習慣となっていた。
その日もカンナに付き添われ、中庭に出ていた。
ガウスもよくジュリアに付き添うが、商会の仕事もある。
常にとはいかず、今回は事務所に顔を出しに行っていた。
しばらく庭の花々を愛でていると、屋敷の中が騒がしくなった。
不思議に思い中に入ると、玄関でスチュアートが誰かと口論している。
ジュリアはゆっくりと近づき、スチュアートに声を掛けた。
「スチュアート? どうしたの、お客様かしら?」
スチュアートが驚き、勢いよくジュリアの方を振り返る。
すると、スチュアートに隠れて見えなかった客人の姿が、見える様になった。
「っジュリア!!!」
「マルセル…………?」
そこには、最後に見た時よりもかなり窶れてしまった、マルセルが居た。
ジュリアは動揺しながらも、応接間にマルセルを通した。
向かい合ってソファーに座り、しばし沈黙が流れる。
カンナがお茶をテーブルに置く時、ちらりと心配そうにジュリアを見つめた。
ジュリアは大丈夫だと1つ頷いてみせ、カンナはスチュアートと並んで壁際に立った。
本当はジュリアの頭の中は混乱していた。
今は牢に入っているはずなのに、何故目の前に居るのか分からない。
しかしそれよりも、マルセルの姿が痛々しい。
この2年、ずっと牢に入っていたのだ。
それも当然だろう。
マルセルに会えて嬉しい、とても嬉しい。
けれど今の状況があまりに理解し難く、素直に喜んで良いものか、ジュリアには分からなかった。
「……驚いたわ。まさかマルセルがここに居るなんて……何だか不思議ね」
「ジュリア……。ごめん、君にどうしても謝りたくて来たんだ」
マルセルは真剣な表情でじっとジュリアを見つめる。
その赤い瞳は昔のままであるはずなのに、どこか翳りを帯びて見えた。
「君に、とても酷い言葉を投げつけてしまった。本当に……申し訳ない。本当は、一度だって婚約を破棄したいなんて思ったことはない。むしろ、君との結婚を今か今かと指折り数えていたんだ。こんなことを言っても、信じてもらえないかもしれないけれど……」
そう言ってマルセルは目を伏せた。
ジュリアは知っている。
マルセルは言葉を紡ぐのが得意ではない。
だから、今はジュリアに気持ちを伝えようと必死なのだ。
マルセルが長く言葉を発したのは、婚約破棄のあの一度きり。
それまでは、とても短い言葉しか口にしなかったのだから。
「そう……。ありがとう。あなたの謝罪を受け入れるわ。私こそあなたに謝らなくては。婚約者だったのに……私は何もあなたのことが分かって居なかったの。ごめんなさい。あなたが不満に思って嫌になるのも、無理はないわ……」
「違う!!!」
それまで穏やかに話していたマルセルが、急に声を荒げて立ち上がった。
「君は何も悪くない! 僕はこれまで一度だって君を嫌になったことなどない!!」
「で、でも……あの薬は元からある不満を増幅させるものだったのでしょう? なら、あなたも私に不満があったんじゃ……」
「違う! 僕が思っていたのは……僕が本当に思っていたのは、誰よりも、何よりも僕が君の一番でありたかっただけなんだ! 君があんなにも大事にしていたソルムの港にすら嫉妬していた浅はかな男なんだ僕は! 父たちは君のことを令嬢らしくない、まるで平民のような娘だと陰で嗤っていた! こんなにも君は素敵なのに、彼らは表面上でしか人を判断しない! それが耐えられなかった!」
ジュリアは目を丸くした。
マルセルがこんなに長く話すことも驚くが、それ以上にマルセルの語ったことが信じられない。
マルセルが嫉妬?
ジュリアはとても混乱していた。
「愛してた……。いや、今だって、心から愛してるんだ、ジュリア」
そう言ってマルセルは憔悴した顔で、ふらふらとジュリアに近寄った。
スチュアートがマルセルを押さえようと一歩前に出る。
ジュリアは呆然としながらも、スチュアートを制した。
愛している? マルセルが、自分を?
信じられない。
確かに親愛はあると思っていたが、それ以上の何かがあるとは、ジュリアは一度も感じなかった。
けれど、どうだ。
今、マルセルからは切実に愛が伝わってくる。
きっと嘘ではないのだろう。
「本当に……? そんな風に思っていたの……?」
「君と結婚することだけが、僕の希望だった。碌でもない僕の人生で、たった一つの光だった」
「そんな……」
「ジュリア……僕たち、もう一度やり直せないか。ローズウッドの爵位はなくなってしまったけれど、これから2人で」
「人の妻を口説かないで貰おうか。元婚約者殿」
マルセルがジュリアに一歩一歩近付き、もう一歩で手が届く、その時。
ガウスが応接間に入ってきた。
入り口では膝に手を置き、肩で息をしているマルタが居る。
どうやら事務所まで急いでガウスを呼びに行っていたようだ。
面食らっているマルセルを睨みながら、ガウスはソファーの後ろから、ジュリアの肩に手を置いた。
「何か誤解があるようだから言っておこう。今、ジュリアは俺の妻だ。君の婚約者ではない」
「っジュリア……」
「マルセル……」
混乱する頭の中で、ジュリアは考える。
自分は、誰の手を取ればいいのか。
マルセルのことは、今でもとても大切だ。
マルセルはいつでも隣にいることが当然で、家族のように愛している。
だが、ジュリアはマルセルに何が返せるだろう。
あのまま婚約が続いていたら、穏やかに育む愛もあったかもしれない。
しかし今のジュリアには、マルセルのような身を焦がすような想いはない。
ジュリアも、マルセルと同じだけの愛が返せれば良かった。
いや、そう思うことは傲慢だろうか。
ガウスとの約束の3年が近付いている。
ここで、マルセルの手を取ることも出来る。
けれどそれは、ただの同情に過ぎない。
「マルセル……。マルセル、ごめんなさい。あなたのことはとても大切よ。心からそう思う。でも……今からあなたとやり直すことは、もう出来ない」
ジュリアは目を伏せる。
胸が軋んで砕けそうだ。
マルセルのために、出来るだけのことをしてあげたい。
けれどジュリアがマルセルの手を取るのは、きっとマルセルのためにならない。
彼の手は、同情などで取ってはならない。
自分がマルセルのためにできることは何なのか。
これからマルセルはどういう生活を送ることになり、どうすることが彼のためになるのか。
……いや、そもそも、マルセルは今何故ここにいることが出来るのだろうか?
「そんなこと言わないでジュリア!! 3週間! 一目ジュリアに会いたいと3週間ここに通ったんだ! 待てというならいくらでも待つから!!」
「待って、3週間前から来ていたの?」
「1か月前に釈放されて、すぐに来たんだ! ジュリアに会いたくて!」
おかしい。
マルセルの釈放は半年後ではなかったか。
ガウスからマルセルが来ていたなどと、一言も聞いていない。
そう言えばここ最近、不自然なほど自室に戻れと言われることが多々あった。
てっきり疲れるから休めという意味だろうと思っていたが、そうではなかったのだろうか。
「ガウス様、嘘をついたの……?」
ジュリアはガウスを信じられないものを見る様に見上げた。
ガウスはふいと視線を外す。
「ねえジュリア! お願いだ!」
マルセルは興奮してジュリアの手を掴んだ。
その余りに激しい力にジュリアは怯む。
ガウスはマルセルの腕を払おうとした。
が、その時、不思議とマルセルは自らジュリアの手を離し、ガタガタと震え始めた。
「マルセル……? 顔色が悪いわ、どうしたの……?」
「ごめん……。ごめんジュリア……」
そう呟いたかと思うと、マルセルは両の目から涙をボロボロと溢し、顔を歪めて、笑った。
「ごめん、全部忘れてくれ。ジュリア……どうか幸せに。心から祈るよ」
そう言ってマルセルは駆け出した。
「待って! マルセルどこに行くの!?」
マルセルは玄関の手前で一度止まり、振り返った。
「大丈夫、僕は僕の居場所を見つけたんだ。だから、大丈夫。ジュリア……さようなら」
そう言ってそのまま外へ駆けていった。
ジュリアは呆然とそれを見送った。
あまりに急な出来事に、何も言えず立ちすくむ。
立ち上がったジュリアの肩を、ガウスは抱こうとした。
しかしジュリアはそれを拒否する。
今は、頭が破裂してしまいそうだ。
その後、ジュリアはマルセルの足取りを探した。
けれど不思議なことに、マルセルの消息は、杳として知れなかった。




