第2話
それから、ジュリアとマルセルは予想以上に仲良くなった。
いや、無口なマルセルがジュリアに連れ回されていたと言うのが正しいかもしれない。
ソルムの港を始め、付き合いのある農家のハーブ畑やオリーブ畑は、昔からジュリアの遊び場だった。
そうした遊び場にマルセルを連れ出しては、色々なことを話した。
ジュリアは父や兄から、商人にとって最も大切なことは、商品を愛することだと教わっていた。
そしてそれを生み出す人々、商品として形に成るまでに携わる全ての人々も、同じ様に大切にすることだと学んだ。
だからこそ純粋に、ジュリアはそれら全てを愛していた。
ジュリアはその愛をマルセルに語って聞かせた。
マルセルは、ただそれを黙って聞いていた。
ジュリアは決してマルセルに恋していなかったが、段々と一緒にいることが普通になり、自然体で付き合える友人のような親愛を感じていた。
マルセルとて、それは同じように見えた。
ほとんど無表情で感情が読みづらいことに変わりはないが、少なくとも嫌がっている様には見えなかった。
マルセルが時折見せる眩しそうに目を細める顔や、ごくたまに、本当にたまにだけ見せる微かな笑顔が、ジュリアは好きだった。
マルセルの全てを知っている訳ではないけれど、マルセルがそういった顔を見せるのは、自分の前だけの様な気がして、嬉しかったのだ。
ジュリアはこのまま、マルセルと穏やかな家庭を築くのだろうと思っていた。
やがてジュリアは17歳になった。
兄であるジョシュアは23歳になってもなお、婚約者を決めていなかった。
それどころか、アークとエミリアもまだ婚姻を結んでいなかった。
アークは今年で25歳になる。
フルールの最終年だ。
本来ならもっと早くに婚姻を結ぶはずだったが、そうもいかない事情があったのだ。
3年前にハリケーンがティンバー王国を襲い、死者は出なかったものの、いくつかの港の施設が損傷したり、沿岸部の家が浸水する被害があった。
ティンバーにはハリケーンがほとんど訪れない。
そのため、この被害は誰も予想だにしなかった。
更にこれを好機と見たのか、アンブル王国が攻撃を仕掛けてきたのだ。
アンブル王国は、海を挟んでティンバー王国の北方に位置する国だ。
彼の国は、物理的にティンバー王国に最も近い。
過去何度もティンバー王国を手に入れようと攻撃を仕掛けてきており、その度に国防軍に返り討ちにされている。
全て海上での戦闘に終始していたため、アンブル王国は一度たりともティンバー王国に足を踏み入れたことがない。
だが諦めるどころか、どうもティンバー王国に固執しているように見える。
最近即位したアンブル王国の年若い女王は、それが顕著だ。
攻撃を仕掛けてきたのはこれが初めてであったが、それまでも何度も使者を送り、時にはアークに対し女王との婚姻を迫ることさえあった。
何の交換条件も付けず提案される婚姻に、いっそティンバーの王は困惑した。
アークに相思相愛な婚約者がいることは、周辺諸国においても有名な事実だ。
アンブルの行いは周辺諸国からも非難の対象となった。
力関係としてもアンブルの提案をティンバーが飲まなければならない道理はない。
そこまでして、ティンバー王国を手に入れることは、アンブル王国の悲願となっていたのだろう。
アンブル王国からの攻撃に、国内に大きな影響はなかったものの、混乱はあった。
船も思うように出せなくなる。
ソルムの港はアンブル王国とはほぼ真反対に位置するためそこまでの制限はなかったが、北方航路は使えなくなり、やはり従前通りとは行かなかった。
ジョシュアは破損した港湾施設の復旧と貿易航路の調整のため、多忙を極めた。
それ故、婚約者選びは一旦保留することになった。
ジュリアも、マルセルとの婚姻は時勢が落ち着いたらと決めていた。
そして、ハリケーンの被害から3年が経過した後。
アンブルはついに一度諦めたのか退却し、ハリケーンの被害を受けた箇所も完全に復旧し、また平穏な日々が戻ってきていた。
アークとエミリアの婚姻式の日取りが7ヶ月後のアークの25歳の誕生日と決められ、ジュリアとマルセルもその後に続くように、婚姻式の予定が決められた。
多少の遅れはあったものの、ジュリアは概ね想定通りの未来が待っていると思っていた。
彼女が現れるまでは。
シャーロット・メイプルが突如として姿を現したのは、平穏な日々を取り戻した冬のピアンタのことだった。
メイプル男爵に連れられてやってきたその少女は、つい最近まで市井で暮らしており、メイプル男爵の今は亡き弟の庶子であることが判明したため、男爵家で引き取ったのだという。
彼女は孤児院に併設する教会のシスターの子であったが、シスターが亡くなり、そのまま孤児院で育った。
孤児院がハリケーンの影響で浸水し生活できなくなったため、一時的に領主であるメイプル男爵家の別邸に住まうという寛大な処置がなされた。
その際、以前男爵家に勤めていたが急に消息を絶ったメイドと瓜二つであるシャーロットを男爵が目に止めた。
確認したところ、そのメイドとシスターの特徴が一致したのだ。
実は男爵の弟が病で亡くなった際、とある遺言を残していた。
かつて彼はそのメイドと恋仲になりメイドは妊娠したが、ある日忽然と姿を消したのだと言う。
そのメイドと自身の子が困窮しているのなら、援助をして欲しいというものだった。
男爵と弟は仲の良い兄弟だった。
そのため、その遺言を実行しようと、メイプル男爵家ではそのメイドを探していたのだ。
男爵の弟は当時まだ若く未婚で、メイドが失踪してすぐに病で亡くなった為、子どもは他にいない。
男爵も最近結婚した息子が1人いるだけであったため、初めての娘としてシャーロットは温かく男爵家に迎え入れられた様だ。
話題性もさることながら、シャーロットはその可憐さでも注目を浴びていた。
ミルクティ色の髪は緩やかにウェーブを描き、瞳は深い海のような青。
白い肌と大きな瞳で、如何にもか弱そうな庇護欲をそそる見た目をしていた。
彼女がフルールに参加する様になると、まだ婚約者の決まっていない下位貴族が殺到した。
アークや側近たちは儀礼的に歓迎の意を伝えるに留まっていたが、ジョシュアはシャーロットのことを当初から気にしていた。
平民から急に貴族の仲間入りをする様になったことや、デビューの年を超えてフルールに途中入りしたことなどが、自分自身の状況と重なって見えたのだ。
フルールのシーズン中、よくシャーロットと共にいるジョシュアの姿を見られるようになった。
最初はついに兄にも春が来たかと喜んでいたジュリアだったが、シャーロットとジョシュアの距離が近づくにつれ、ジュリアとジョシュアの距離が離れていくように感じていた。
兄離れをする時かと当初は思っていたが、どうもジョシュアはジュリアのことを避けているようだ。
訳を聞こうとジュリアが話しかけても、ジョシュアは会話をすることを拒むように、ジュリアを睨みつけて去っていく。
ジュリアは困惑し父母に相談したが、「あのジョシュアがジュリアを疎むなどあり得ない。何か怒らせるようなことをしたのではないか?」と言われるだけだった。
マルセルにも相談したが、その頃のマルセルはどこか上の空でボーッとしていることが多くなっていた。
そのことも、ジュリアを不安にさせていた。
そして春が終わりに近づく頃には、状況はまた更に一変することになる。
当初は興味がなさそうだったアークたちまで、シャーロットの周りに集まる様になっていた。
その間エミリアや他の婚約者たちは放置され、その一団を遠くに見ているようになった。
特にアークはエミリアを溺愛していることで有名で、この状況は誰しもが驚く事態だった。
それだけでない。
互いに信頼し仲が良かった筈の彼らの仲違いが起きていた。
シャーロットを巡っての諍いもあるが、それだけではない衝突が起きているようだった。
特にアークの従兄弟であるデューク・チェリー公爵子息とジョシュアの間でトラブルになっている様子が度々目撃されていた。
更に初夏が始まると、マルセルまでシャーロットを囲む輪に加わるようになった。
最早フルールに属する成人以上のほとんどの男性が、シャーロットに群がるようになっていた。
シャーロットの虜になった男性の婚約者の内、最も爵位が高いのはエミリアになる。
エミリアは、アークたちに何度か苦言を呈していたが、耳を貸されることはなかった。
そしてシーズンも終盤になったある日。
その日はとある侯爵子息の主宰するパーティーが、子息の邸宅で行われた。
フルールのパーティーは各家の邸宅で行う場合にも、当主とその妻は手を出さない決まりだ。
パーティーは侯爵子息と友人たちだけで進められていた。
そのパーティーにはアーク以下側近たち、ジョシュア、マルセルも参加しており、もちろんその婚約者であるジュリアやエミリアも参加していた。
しかし、彼女たちは誰も婚約者のエスコートなしで参加していた。
それまでは流石に儀礼としてエスコートはされていたものの、それすらもなくなり、最早看過できない状況だった。
いつものようにシャーロットに群がるアークたちに向かい、ついにエミリアを先頭に、ジュリアや他の婚約者たちが対峙することになった。
「アーク様、そこにいる男性の多くは婚約者をお持ちですわ。どうか、理性ある行動をお心がけくださいませ」
「ふん。性悪女が何を言う。お前たちは寄ってたかって、このか弱い1人の女性を蔑ろにしているようだな。なんと浅ましい」
「滅相もございません! 私たちの誰1人として、そんなことをしておりませんわ!」
「見苦しい! 地位を鼻にかけ、弱き者を虐げるなど、貴族として最も許されざることだ! 私はそういう者が最も許せない!エミリア・ダグラスファー。私はお前との婚約を破棄する!」
ついに、アークは衆人環視の中、エミリアに婚約破棄を告げた。
女性陣が騒然とする。
しかし更に驚くべきことに、アークの側近たちもそれに続く。
そして、マルセルまでも。
「ジュリア。もう君の自慢には飽き飽きしたんだ。そんなにソルムの港が好きなら、ソルムと結婚すればいい。
シャーロットと同じ最近まで平民だったのに、いや、シャーロットよりも貴族になってからの期間が長い筈なのに、なぜ君はそんなに令嬢らしくないんだ。これまで我慢してきたけれど、もう限界だ。婚約破棄してくれ」
ジュリアは驚いた。
マルセルがこんなに長く話しているのは、初めて聞いたかもしれない。
そして、これまで語られなかったマルセルの本音にショックを受ける。
仲良くやっていると思っていたのは、ジュリアの独りよがりだったようだ。
「マルセル……あなた、今までそんな風に思っていたのね」
「ああ。シャーロットが気付かせてくれたんだ。僕の本当の気持ちに」
「そう……そうなのね……」
パーティーは混乱を極め、最早収拾が付かなかった。
その日パーティーのホストを務めていた侯爵子息もシャーロットの熱心な信者の1人で、シャーロットに害を為す女性たち全員を社交界から追いやる心算でいた。
婚約者に罵られ傷付き会場を後にする者、怒りからすぐに出ていく者と様々で、最終的には、会場にはシャーロットとそれを囲む男性たちのみになったのだった。
通常、フルールで起きたことにオープストの貴族たちは介入しないのが決まりだ。
しかし、状況はそんなことを言っていられない所まで追い込まれていた。
事態を重く見た国王は、状況調査と関係者の聞き取り調査のため、シーズン終了より前にフルールの社交を異例の中断をする旨を通知した。
例のパーティーでの婚約破棄も、正式に取り扱わず保留するよう各家に通達した。
だが婚約破棄された令嬢を持つ家はそれに反発し、国内は完全に混乱していた。
シャーロットに不自然なまでに男性が集まることは早くに王の耳に入っていた。
しかし王太子の腕試しにと、事態の収束をアークに任せ傍観していたのだ。
アークがシャーロットの周りに侍ったことも、何かの作戦だと考えていた。
実際、春の終わりから少し前の段階で、王はアークから側近たちと事態の調査をする旨の報告を受けていたのだ。
そしてシャーロットの周りに侍るアークに何か考えあってのことかと尋ね、そうだとの返答を聞いていた。
王はアークの力量を過信していたことを後悔していた。
まずこの状況で最も考えられることは、シャーロットが何らかの薬物を使い、男性たちを洗脳したということだ。
しかし調べでは、シャーロットに不審な点は何も見受けられなかった。
メイプル男爵家の特産である蜂蜜が、シーズン中ホストとなる貴族に度々差し入れられたが、そこからは何も検出されなかった。
また仮に薬物を混ぜていたとして、どうやって男性だけを対象と出来たのか、その方法がわからなかった。
シャーロットの虜となった男性たちは一貫して自分の意志で婚約破棄をしたと主張し、また彼らの婚約者はシャーロットを蔑ろにしていたと口を揃えた。
中でもマルセルは、ジュリアがシャーロットへ度重なる嫌がらせの域を超えた危害を加えていたと主張した。
曰く、ジュリアに階段で突き落とされシャーロットは捻挫をし、打ちどころが悪ければ命さえ危うかったという。
ジュリアには当然全く心当たりがなく、何故そんな誤解が生まれているのかすら分からなかった。
当のシャーロットは調べに対し、ただ涙を流すばかりで明確な供述を何もせず、捜査官は手を焼いていた。
そんな中、ジョシュアが信じられない暴挙に出た。
例のパーティーでの婚約破棄は保留するよう通達されていたにも関わらず、勝手に正式な婚約破棄の手続きを行ったのだ。
本来ならそれは当然当主であるジャンの役割だが、ちょうどジャンは夫婦で取引のある他国の貴族の結婚式に参列するため、国を離れていた。
ジャンはジョシュアを信頼し、また評価もしていたため、国内のことは一時的にジョシュアに一任していた。
負い目のあったローズウッド家はこれに対し是とする他なく、ジュリアとマルセルの婚約は正式に破棄された。
それだけでなく、ジョシュアはセンダン商会の貿易拠点であるホルツ王国の昔からの取引先であるクルメル商会を経営する男とジュリアの縁談を取り付けていた。
相手はジョシュアと友人関係であるガウス・ウォルナットという男だ。
この男、商人としては優秀で容姿も悪くはないのだが、とにかく女遊びが激しいことで有名な男だった。
ジュリアも子供の頃何度か顔を合わせたことがあるが、常に美しくスタイルの良い女性を側に置き、しかもその女性はいつも違う。
長じてからは顔を合わせていないため、ジュリア自身は言い寄られたことはないが、女にだらしないガウスに、ジュリアははっきりと苦手意識を持っていた。
いや、生理的に受け付けないくらいに嫌っていると言っていいだろう。
以前は「今のジュリアをガウスに会わせたらきっと狙われる。だから会わせない」と豪語していたジョシュアが、まさかこのような縁談を結ぶとは思っていなかった。
例のパーティーからずっとジュリアは自室に軟禁されていた。
早く両親が帰ってくるようにと祈っていた折、婚約の正式な破棄と、ガウスとの結婚の話を聞かされた。
既に手続きは正式に行われた後だった。
ジュリアはジョシュアに連れ出され、港へと向かった。
そして無理矢理、商会のコンテナ船の船員用食材庫へと押し込まれたのだった。
客船どころか、船員の過ごす部屋ですらない。
ジュリアは信じられず、ジョシュアに縋りついた。
「お兄様! 何故! 何故こんなことをするの!? 私が一体何をしたと言うの!?」
「分からないのかジュリア。お前がまさか、ここまで愚かで非道な人間だとは思わなかったよ。シャーロットは今のお前よりもよっぽど辛かっただろうに」
「私はメイプル様に何もしていないわ! ほとんど話したこともないのよ!? そんなことするはずないじゃない!」
「ここまで来てもしらを切るつもりか! 見下げたぞジュリア! ならばシャーロットのあの痛々しい傷は何なんだ!? お前の心ない言葉に傷つき流していた涙は何なんだ!」
「知らないわ! 私には全く見当もつかないのよ!」
「もういい。お前と話していても時間の無駄だ。ガウスはちょうどお前のような妻を欲してたんだ。周りを納得させるためだけの、蔑ろにしても、顧みずとも問題のない形だけの妻をな。お前は自業自得で婚約破棄された傷物だ。シャーロットのような無垢な女性を害する悪女には、あまりに勿体ない嫁ぎ先だろう。じゃあな。二度と会うことはないだろう」
「待って! お願いお兄様話を聞いて!」
ジュリアの訴えも虚しく、ジョシュアは食材庫の扉を閉め、外から鍵を掛けた。
ジュリアは絶望し、声を上げて泣いた。
何故、こんなことになったのか。
何故、こんな目に遭わなければならないのか。
たった4か月前までは、穏やかな未来がやってくると信じていたのに。
これからのことなど、何も考えられない。
ジュリアはただ涙を流し続けたのだった。