第14話
ジュリアは驚いた。
3か月も引きこもっていた割に、多少細くなったものの、以前と変わりないガウスがそこに居た。
「ジュリア。話がある。俺の執務室に来てくれ」
「え……は、はい。マシューさん、後は任せても大丈夫でしょうか」
「……ん。わかった……」
ひどく心配そうなマシューの視線を遮り、ガウスは半ば強引にジュリアの腕を取って部屋を出る。
昇降機を呼び、中に乗り込んだところで、やっとその腕を離した。
瞬間、沈黙がその場に落ちる。
ジュリアは戸惑っていた。
「……すまなかった」
ぽつりと、沈黙の中ガウスが呟いた。
先程の態度のことを言っているのか、長らく商会を不在にしたことを言っているのか、はたまたジュリアに手を上げたことを言っているのか。
ジュリアには判断が付かなかった。
「いえ……」
何にしても、ジュリアは謝罪を受け入れるだけだ。
会頭として責任を果たしてくれるなら、それでいい。
最上階のガウスの執務室に入り、ガウスが自席へと座る。
「屋敷で色々と確認した。会頭代理を任せて、すまなかった。書類上では確認したが、ジュリアの口から報告を聞きたい」
ガウスは会頭の顔をして、ジュリアに尋ねる。
それを受けてジュリアも、会頭代理として口を開く。
「はい。ご報告します。まず件のオリジナルブランドはブランド名称とパッケージを改め……」
しばし、2人は商会の経営者として言葉を交わした。
ガウスは素直に感心していた。
よくぞこの状況で、ここまでのことをし、持ち堪えたと思う。
「……なるほど。今考え得る手立てをほぼ全て試したようだな。改めて礼を言いたい。感謝する」
ガウスはそう言うと、デスクから立ち上がり、ジュリアの元へと向かう。
「本当にすまなかった。スチュアートから、寝る間も惜しみ働いてくれたと聞いている。ありがとう。これからは、2人手を合わせて頑張ろう」
そう言ってガウスは、ジュリアの手を取った。
ジュリアの両手を自身の手で包み込み、熱い瞳でジュリアを見つめる。
ジュリアは思わず、するりとその手を引き抜いた。
「ええ、もちろんですわ。ガウス様」
ジュリアは笑顔を返す。
けれどそれは、どこか他人行儀な笑顔であった。
まるで私たちの間に特別なものは何もないのだと、そう主張するような。
途端、ガウスの顔が悲しげに歪む。
酷く傷付いたように。
(……何故そんな顔を? 私たちの関係性を打ち砕いたのは、他でもないあなたなのに)
ジュリアは酷く冷めた気持ちになった。
「ガウス様。お戻り頂き大変嬉しゅうございますわ。他の皆も心強いことでしょう。ですがやらなければならないことが山積しています。共に頑張りましょうね」
ジュリアはもう一度、にこりと笑った。
「あ、ああ……。そうだな」
ガウスは曖昧に頷き、ジュリアから視線を逸らした。
そして1度目を瞑ると、再度力強くジュリアを見つめた。
「必ずや、持ち直す。クルメル商会はここで終わらない」
ガウスの顔は、まさしく会頭のそれであった。
ジュリアは先程とは異なり、心からの笑顔で頷いたのであった。
こうしてクルメル商会の再建計画が本格的に始動した。
失った損失はあまりに大きく、ジュリアとガウスが最大限力を振り絞っても、そう簡単にどうにかなるものではなかった。
じわりじわりと新ブランドの売り上げは上がるが、それ以上に負った傷が商会を蝕んだ。
2人は必死だった。
そして数か月後。
これまでの計画が全て覆される転機が訪れる。
戦争が勃発したのだ。
年の暮れ。
ティンバー王国の混乱に乗じ、アンブル王国が本格武装をしてティンバー王国に乗り込んだ。
これまで1度たりとも他国に国土を踏ませたことがなかったティンバーが、ついにアンブルの侵略を許してしまったのだ。
後に振り返れば、この時のティンバーの国防軍の弱体化は深刻で、数で勝負を仕掛けたアンブルにただ蹂躙される運命が待っていた。
しかしここで、アンブルも予想しなかった事態が起きる。
アンブルの侵攻を予見していたホルツ王国が介入して来たのだ。
アンブルの侵攻が行われるより前、ダルベルギア侯爵を筆頭とするホルツの使節団が秘密裏にティンバーに接触し、ある条件と引き換えにアンブルに対する共同戦線を張ることとなった。
その条件とは、ティンバーのホルツ王国への属州化。
当然ながら、ティンバー国王は反発した。
だがホルツの提示したその条件は、この状況下において悪いものではなかった。
ホルツが提示した兵力はアンブルに対抗するには十分すぎる数であり、これならばティンバー国内の血はほぼ流れないであろうと予想された。
またティンバー国王家は王家ではなくなるものの、大公の地位が与えられ、自治権を持つことが許された。
現在のアンブルの女王は悪辣だと有名だ。
自身に従わない者は躊躇なく首を刎ねるという。
このまま単独でアンブルに相対したとて、勝ち目はない。
それどころかティンバーで流れる血は、国土を埋め尽くすのではないかと思われた。
ティンバー王国に、最早選択肢は残されていなかった。
アンブル王国は、最も地理的に近いジェルバの港に乗り込んだ。
しかしアンブル軍がジェルバの地に降り立った時には、既にホルツとティンバー両軍が包囲していた。
ホルツ軍の提供した十分な兵力により、アンブル軍はジェルバの港より内陸へと進むことは叶わなかった。
アンブル軍がティンバー王国の国土を踏み締めてから、僅か3日。
アンブル軍は白旗を挙げ、撤退していった。
ホルツ王国は約束通り、ティンバー王国を手に入れた。
こうしてティンバー王国は、その長い歴史に幕を閉じ、地図上から国としての名を消したのだった。
その後も情勢は目まぐるしく変化する。
女王の圧政に苦しんでいたアンブル王国の民衆が、敗戦を契機に反乱を起こしたのだ。
下級貴族や軍部の人間も同調し、反乱軍は徐々に大規模なものへ変貌していった。
対して王宮は脆弱だった。
それまで女王に異を唱えた傑物は皆、女王によりその命を散らされ、残るは女王に媚び諂う気概のない者ばかりであった。
王宮は反乱軍に取り囲まれ、3日と経たずに陥落した。
民衆の前に引き摺り出された女王は、
「ゲームなのに何故私がこんな目に遭わなきゃいけないの! ゲームのキャラがプレイヤーに歯向かうなんて!」
とまるで民衆をただの遊戯の駒だとでも言うように叫んだ。
この言葉に民衆の怒りは爆発し、女王は断頭台の露と消えた。
女王に兄弟はなく、結婚していなかったため子もいない。
女王以外に現在王族の血が流れている者は、前王の弟、つまり女王の叔父にあたるニグラ公爵ただ1人である。
このニグラ公爵は妻を娶ることなく、独り身を貫く変わり者で有名であった。
しかし彼はアンブルがティンバーに侵攻する直前に姿を消しており、その後消息が分かっていない。
そもそもニグラ公爵は若い内に王位継承権を放棄している。
アンブル国王の椅子は、空席のままとなった。
目的を達成した反乱軍は、統率を失いただの暴徒と化しかけていた。
この沈静化を図るため、またしてもホルツが介入する。
反乱軍の上層部と交渉し、暴徒を制圧した後、アンブル王国の領土を治めることとなった。
こうしてホルツ王国はティンバー王国とアンブル王国の地を傘下に収め、その領土を大幅に拡大することとなったのだった。
その間、1年と数か月の時が流れた。
ジュリアがガウスの元に嫁いで来てから、2年半が経っていた。
この2年半を振り返ると、あまりにも色々なことがありすぎてジュリアは自分でも上手く思い出せない。
ホルツ国内は戦火に巻き込まれることなく、日常の生活を送ることができた。
しかしいつも通り変わりなく、とはいかなかった。
特に国境を接するアンブル国内の反乱が起きてからは、北方は治安が悪くなり、国民は皆不安に陥った。
戦争の少し前から途絶えていたティンバーからの輸入の再開の見通しが立たず、また北方のルートが閉ざされたことから、物流の流れも大きく変わった。
これが却って、クルメル商会にとっては好機となった。
ジュリアの手でオリジナルブランドの刷新を行なったが、ガウスが復帰した後にこれまでの仕入れ元の整理を行なっていた。
ティンバー産のハーブ類は海上輸送を伴うため、どうしてもその分コストがかかる。
それでも質がいいのと、ティンバー産を使用することが一般的な物は市場価格の水準も高いため、普通は問題にならない。
ジュリアはそこに目をつけた。
ジュリア個人としても、ティンバー産のものを使いたい。
ジュリア自身が、その良さを知っている。
しかし、クルメル商会を再建させるためには、背に腹は代えられない。
オリジナルブランドのハーブ・スパイス類の仕入れ元を、国内産中心に切り替える決断をした。
元々ホルツ国内ではハーブ・スパイス類の栽培は盛んではない。
というのも、採れる地域がかなり限られるからだ。
その数少ない国内産のものの品質は、決して悪くない。
ただ量があまり多く採れない。
故に多くの商会は輸入へと力を注ぎ、国内の農家は自前での販売を余儀なくされていた。
農家独自では輸送と販売ルートの確立に難があり、あまり流通せず、地元や周辺地域のみでの消費に終始していた。
そうした農家と手当たり次第交渉し、クルメル商会のオリジナルブランドの仕入れ元とすることにしたのだ。
交渉はガウスが先頭に立って行われた。
伊達にクルメル商会の看板を背負っている訳ではない。
その交渉術は大したものだ。
結果、多くの種類のハーブ・スパイス類を国内産に切り替えることに成功した。
クルメル商会は各地域ごとに加工工場を持っていた。
新しく仕入れることとなったハーブ・スパイス類を地域ごとに各加工工場に集約し、それまで各農家で行っていた封入とラベリング作業を一元化して行うことした。
こうして輸送と仕入れ値のコストを抑えることで、利益率を上げつつ平均的な価格での商品提供を行うことが出来た。
この仕入れ元を国内に集中させたことで、結果戦時下でも安定して仕入れを行えることに繋がった。
ティンバーや他国からの輸入に頼り、輸入中止を一時的なものと楽観視していた商会は、仕入れが滞り軒並み店を畳むことになってしまった。
供給量が狭まる中でも、ジュリア達は商品の値上げをしなかった。
これは偽装事件を止められなかった、許してしまったことへの禊であった。
このことはホルツ国民に好意的に受け取られ、騒がしい時世の流れもあって、徐々に偽装事件の爪痕は薄くなっていったのだった。
そんな慌ただしい日々の、ある夜。
ジュリアは寝る前に、自室でジュエリーボックスを開けて眺めた。
中には、マホガニー家の指輪、マルセルから貰ったネックレス、そしてビルから貰った髪飾りが入っている。
当初は貴重品を屋敷に置いておく気にならなかったジュリアだが、今ではジュエリーボックスに入れ、自室の書き物机の中に置いている。
そうすることが出来るようになる程、屋敷の中は様変わりしていた。
カンナは相変わらずつんけんしているが、それでもかなりジュリアに好意的になった。
必死にクルメル商会のために働くジュリアに対し、心配から苦言を呈すほどだった。
「このままでは奥様の体が壊れてしまいます。少しはお休みになってください。ガウス様にもう少し任せれば良いのです。あの方は、3か月も十分に休んでいたのですから」
カンナがそんな風に言った日には、ジュリアは椅子から転げ落ちそうになる程驚いた。
まさかカンナの口からそんな言葉を聞く日が来ようとは思わなかった。
何か心境の変化でもあったのだろうか。
マルタも変わった。
彼女は第2の息子であるガウスを溺愛するが故に、瑕疵のある女をガウスの妻として迎えることに抵抗があったのだろう。
ジュリアがカンナやガウスに語った本当の事情を知ってか知らずか、今ではきちんとジュリアを屋敷の女主人として扱ってくれる。
と言っても商会の仕事が忙しいため、屋敷のことは全てマルタに任せきりだ。
ジュリアは一度、そのことを申し訳ないと言ったことがある。
するとマルタはこう言った。
「……いいえ。ガウス様が立ち直り、今こうして商会が続いているのは奥様のおかげです。感謝こそすれ、謝罪される謂れはありません。屋敷のことは、どうか私めにお任せを。何かご要望があれば、いつでもお申し付けください」
その言葉を聞き、ジュリアは思わず涙ぐんでしまった。
スチュアートには、それまでの態度を謝罪された。
「奥様が話に聞いていたような方でないことは、この耄碌にも分かります。そのような方は、誠実でない夫の商会のためにここまでしない。奥様、これまでの非礼、慙愧に堪えません。大変、大変申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます……」
そう言って涙を流した。
その後スチュアートが語る所によると、どうやらガウスからジュリアの語ったこれまでの経緯を聞いたようだ。
そしてそれが真実であると判断したようである。
ルーナはずっとジュリアに対し、余所余所しいというか、一歩引いて腫れ物に触るように接していた。
しかし一転、ガウスが引きこもりから外に出てきてからは、とても明るく気さくになった。
何かが吹っ切れたような、そんな印象をジュリアは受けた。
きっとこれが本来の彼女なのだろう。
それまで休みの日に外に出ることは少なかったようだが、最近はよく外に出ているという。
彼女も何か心境の変化があったのかもしれない。
この屋敷で唯一何も変わらないのは、エマだけだ。
彼女はいつまでもジュリアへの敵対心を隠そうともしない。
ガウスはどうやら、エマやルーナを自室に呼ぶことを完全に止めたようだ。
そのことがエマを苛立たせているらしい。
しかし最近では、マルタやスチュアートにその態度を窘められている。
それが更に、エマの気分を害しているようだ。
この屋敷の中で最も変わったのは、他でもないガウスだ。
2人で偽装事件を調べに加工工場へと向かった時とは、また違う。
ジュリアの父、ジャンの喪が明けた時、ガウスはすぐに仕立て屋を屋敷に呼んだ。
新たな事業展開により、ウォルナット家の財布から持ち出しが多くなっていた時期だったため、ジュリアは固辞したが、ガウスは頑として聞かなかった。
いくつかのドレスを作り、試着したジュリアを、目を細めまるで愛しいものを見るように眺めた。
そしてまるで感嘆の溜息を吐き出すように「綺麗だ」と言った。
ジュリアはただただ困惑していた。
ガウスが何故そのような反応をするのか、理解ができなかった。
ガウスは今でも、ジュリアを寝室に呼ぶようなことはない。
ジュリアとて呼ばれたとしても必ず断るだろう。
約束の3年まで、後少しだ。
ジュリアはジュエリーボックスをしばらく眺め、蓋をする。
そして窓の外を見た。
この屋敷の中庭は、だいぶ雰囲気が変わってしまった。
もうビルはいないのだと、その事実を突きつけられているようで、ジュリアを悲しい気持ちにさせる。
ビルの手を取らなかったのは、自分自身だ。
あの時、ビルの手を取っていたら、今頃どうなっていただろう。
ジュリアは一抹の後悔を覚える。
けれど、何度あの時に戻ったとしても、自分の答えは変わらないことをジュリアは知っている。
ビルの言った店に足を向けそうになったことも、何度もある。
それでもジュリアは自分の足を制した。
あの時の決意は、今でも変わらない。
(ビルは今でも待ってくれているのかしら……。それとも私のことなど忘れてしまった? あなたは一体、何者なの……?)
ジュリアはビルに思いを馳せる。
そして涙を流した。
あの日から、もう2年近くの時が経っている。
それなのに、いつまでも涙は枯れない。
ジュリアの想いも枯れてはくれない。
おかしな話だ。
一緒に過ごした時間は、あまりにも短いのに。
(会いたい……。ビルに会いたいわ……)
ジュリアはそっと瞼を閉じて、ビルの笑顔を思い浮かべた。




