side ガウス
ガウスはあの事件以来、漠とした靄の中にいる気分だった。
人はあまりに信じられないことが起きると、理解するのを放棄するのかもしれない。
周りでたくさんの人が色々と言っていたけれど、ガウスの耳を通り過ぎて行った。
ガウスがユアンと初めて出会った時、その仕事ぶりに感嘆した。
的確かつ端的に、そして物腰柔らかく指示を出す様は、ユアンの有能さを如実に語っていた。
そして何より、ユアンは一人で立っていた。
物理的な話ではない。
ユアンはただユアン自身を信じ、自分だけの力で生きているように見えた。
まだ成人したての若者で、頼るべき両親の居ないガウスにとって、その姿に憧憬を感じた。
だからガウスはユアンを欲した。
地方の店舗から引き抜き、自分の側に置いた。
最初は遠慮していたユアンも、徐々に打ち解け、いつの間にかガウスの兄のような存在になっていった。
ガウスは弱い男だ。
見た目の力強さと裏腹に、とても弱い男だ。
ガウスは1人で立つことは出来ない。
常に誰かが側で支えてくれなければ、立っていられない。
代わる代わる隣にいる女たちは、いっときの慰めにすぎない。
しかしユアンは違った。
ユアンはまさしく、ガウスの支えそのものだった。
けれどガウスはそれを表面に出すことはなかったし、ガウス自身が正しく認識していたとも思えない。
ガウスは弱い故に、自身の弱さを認められない男だった。
しばらく事務所で寝泊まりし、いつの間にかスチュアートに連れられ屋敷に帰ってきた。
ガウスはただ自分の殻に引きこもり、漠とした靄の中で膝を抱えていた。
ユアンが、自分を裏切った。
そんなことは信じられないし、信じたくもなかった。
やはりそんなことは間違いで、ユアンは誰かに嵌められたのかもしれないと思った。
けれど時が経つにつれ、ぽろりぽろりとユアンの罪の証拠が見つかる。
無常にも、スチュアートはその事実を日々報告する。
ガウスはその声も耳に入らなかった。
いや、入らないように心を閉ざしたと言うのが正しいだろう。
ガウスは、自分が何か黒いものに飲み込まれていく感覚を覚えた。
自分は裏切られたのだ。
他でもない、ユアンに。
2人でクルメル商会の展望を語り合ったあの日々は、虚構でしかなかった。
ガウスは空っぽだった。
ガウスの中には、ただ空虚な穴が広がっていた。
どれくらいの時間が経っただろう。
ある日ガウスは、夜になると声が聞こえることに気が付いた。
それまで全ての声に耳を塞いできたガウスだったが、その声が妙に気になった。
扉越しでくぐもっているが、それでもよく通る美しい声だ。
最初は声がする、というだけで内容はよく分からなかった。
だが1日、1日と過ぎるうちに、徐々に靄が晴れていくように、次第に明瞭になっていった。
(ジュリア……そうだジュリア……)
あまりの衝撃で、すっかり忘れていた。
ジュリアという、己の妻の存在。
「ガウス様。新しくしたオリジナルブランドですが、じわりじわりとではありますが業績が上がっています。従業員が減ってしまったのは残念ですが、人件費が減ったのは良かったかもしれません。今残ってくれている従業員たちを、辞めさせたくはありませんから」
ガウスは耳を傾ける。
本来は自分がしなければいけないことだ。
分かっている。
だが何もする気が起きない。
けれど、ジュリアはやっている。
自分でも酷い扱いをしていたことは自覚している。
ジュリアが来てから、まだ1年も経っていない。
クルメル商会に強い思い入れがある訳でもないだろう。
(何故……何故ジュリアはここまで出来るんだ……)
毎晩聞こえるジュリアの声を、ガウスは楽しみにすると同時に耳を塞ぎたくなった。
ジュリアの美しい声を聞きたい。
けれど話は聞きたくない。
思考がクリアになっていくのと比例して、後ろめたさが膨らんでいく。
自分は彼女に何をしただろう。
ユアンが怪しいという彼女の言葉を、ほぼ反射的に否定して、手を上げた。
そう、ガウスは自分でも自覚し始めていた。
ユアンの怪しい動きに、ガウス自身気付いていたのだと。
けれどその疑惑から目を背けた。
まさかユアンがそんなことをするはずがないと。
結局、ガウスは何も分かってはいなかったのだ。
もう部屋から出なければならないと分かっている。
けれど、ジュリアと顔を合わせるのが怖かった。
ガウスはユアンという支えを失い、すっかり臆病になっていた。
ガウスが部屋に引きこもってから、2か月。
ガウスの身の回りの世話はスチュアートやマルタが行っていた。
少しずつ動くようになったものの、当初は放っておくと、食事も摂らなければ風呂にも入らない始末だったのだ。
ガウスは自尊心が高い故に、身なりには人一倍気をつかう質だった。
自分自身の見た目が人に与える印象を熟知していたし、武器として使えるものだと自負していた。
しかし今や、かつての姿は見る影もない。
髪は整えられず、髭も生やし放題。
鍛えられていた肉体も、ずっと動かずにいたためほっそりとしてしまっていた。
徐々に靄が晴れていくのと比例して、自身の見た目が気になってきた。
それ故に、エマやルーナにも姿は決して見せなかった。
こんな姿は誰にも見せられないとは思うのに、ではどうにかしようという気は起きなかった。
ある晩。
ジュリアの就寝の挨拶を聞いてからしばらくした後。
もう深夜という時間に、スチュアートが部屋に入ってきた。
「ガウス様。そろそろお部屋から出ませんか。中庭などどうでしょう。気分転換になりますよ」
「……もう遅いだろう。今日はいい」
「いいえ、今日はとても月が綺麗な夜ですよ。それに夜ならば身支度もいらないでしょう。さあ」
確かに、夜ならば見た目は気にしなくていいだろう。
マフラーとガウンを着込めば、誰にも見られまい。
ガウスは徐々に動かなければという焦燥感が生まれていた。
確かに慣らしていくには、ちょうどいいかもしれないと思った。
そしてスチュアートの誘いに乗ることにした。
約2か月ぶりに自室から足を踏み出し、階段を降りる。
それだけの動作で、息が上がる。
かなり筋力が落ちてしまったようだ。
中庭へと続く扉を開け、庭に出る。
すると、思った以上の爽快感があった。
「少し前に庭師が変わったので、また違う雰囲気で気分転換になるのではないですか。トビーは前の庭師と仲良くしていたようで、寂しがっていましたが」
「……そうか」
確かに、どことなく庭の雰囲気が違うように感じる。
ガウスはハーブやスパイスには造詣が深いが、観賞用の花には疎い。
言われてみればという程度に納得しながら、辺りを見回す。
ふと、南棟3階の端の部屋に目をやる。
そこには、ジュリアの姿があった。
ガウスは非常に驚き、咄嗟に顔を隠す。
が、どうやらジュリアはガウスに気が付いていないようだ。
庭の奥の方をじっと見つめ、微動だにしない。
(こんな時間に……どうしたんだ……?)
ガウスは一歩一歩と歩を進める。
気付かれないよう慎重に、けれどジュリアから目を離さずに。
そして、気が付いた。
ジュリアが涙を流していることに。
月明かりがジュリアの顔を照らし、涙に反射してキラキラと輝いていた。
ガウスは目が釘付けになった。
美しい、と。
素直にそう思った。
「奥様は時折、夜に中庭を眺めては、涙を流していらっしゃいます。奥様も、お強いばかりではございません」
囁くような小さな声で、スチュアートは言った。
ジュリアの涙の理由は分からない。
しかし、毎晩ガウスの部屋の前で明るく話す女と、あれは同じ女だろうか。
(ああ……俺はただの愚か者だ……)
自分だけが辛い気持ちでいた。
悲劇の主人公になったつもりで、ただ甘えていただけだった。
ジュリアとて、何があっても傷付かない頑強な心を持っているわけではない。
弱さを持つ人間なのだ。
自分と、同じように。
ガウスは、悟った。
自分の我儘、愚かさ、弱さに。
「……部屋に戻る」
「ガウス様……」
ガウスは一言そう告げると、ガウンを翻し屋敷の中へと戻った。
階段を登り自室に着くと、息が上がり膝が笑っている。
たった1階分登り降りしただけでこれでは、仕事をするどころか、事務所まで辿り着けないかもしれない。
「……俺はあまりに動かなすぎたようだ。明日から、外に出る」
「っ本当ですか!」
「体力と筋力を付ける。トビーにメニューを考えてもらってくれ。それから、屋敷で出来る商会の仕事を出来る限り持ってこい。…………遅れを取り戻さなければ」
「はい……! 畏まりました」
ガウスの見た目は酷いままだ。
しかし、その金の瞳は、以前のように獣の如く光を灯していた。
ガウスはそれから、筋力の回復と現在の商会の状況把握、そして事務仕事に明け暮れた。
マルタなど、ずっと動かないでいたところに急に動き出しては、かえって体に悪いと反発したほどだ。
しかしガウスは焦っていた。
早く現場に復帰し、1日も早くジュリアの負担を減らさなければならない。
調子の良い時は、顔をフードで隠しながら店舗まで歩いて行ったこともある。
店舗でのジュリアは、あのよく通る明るい声で何事か話していた。
従業員の人数は減ったようだが、残った者はジュリアの言うことをよく聞いている。
(ジュリア…………)
ガウスはゆっくりと邸宅に帰り、またトレーニングと作業を開始する。
ガウスは必死だった。
その間、見た目が元に戻ってきてもなお、一度もエマやルーナを自室に呼ぶことはなかった。
そして、1か月後。
マルタの強い勧めで医師の診察を受け、心身共に仕事に復帰できるだろうとの診断が降った。
ガウスはついに、商会へ赴く日を迎えた。
全く以前の通りとは行かないまでも、かなり筋力は回復し、商会の状況と対策も頭の中に入っている。
ガウスは逸る気持ちを抑えながら、商会へと向かった。
店舗へ顔を出すと、店長が驚いた顔でガウスを見つめた。
「ガウス様……!」
他の従業員たちも驚いてガウスの顔を見つめる。
しかしその目には、以前にはなかった問い詰めるような色が滲んでいる。
当然だ。
ガウスは商会の従業員たちの信頼も、これから回復していかなければならない。
「お前たちに言わなけれならないこと、謝罪すべきことがたくさんあることは分かっている。だが……まずはジュリアの所へ。彼女は今どこだ」
「……今は3階でマシューと作業中です」
「分かった」
そう言ってガウスは店を出ようとする。
「会頭!」
徐に店長が声をかけた。
ガウスが振り返ると、店長はあの大きな腹を突き出して、言った。
「おかえりなさい。これから大変ですよ!」
「……ああ」
ガウスは口角を上げて、答えた。
昇降機を動かし、3階へと向かう。
ジュリアが居るという部屋の前で、ドアノブに手をかけたまま、ガウスは深呼吸をした。
ガウスは緊張していた。
ジュリアに会ったらどんな顔をすれば良いのか、何を言えば良いのか、そして何を言われるのか分からなかった。
「あんたは、幸せ?」
「それは……」
中からジュリアとマシューの声が聞こえる。
ガウスは思わず耳をそばだてた。
「もしあんたが幸せじゃないと思ってたら……。俺、あんたが笑ってなきゃ嫌だ」
マシューのその声色を聞き、ガウスは全身の血が沸騰するように感じた。
ガウスにとって、生まれて初めての経験だ。
「だから……その……俺と……」
これまでたくさんの女と過ごしてきた。
しかしガウスは女に執着したことはなかった。
女は移ろい行くものと知っていたから。
だからその感情が、嫉妬と呼ばれるものだと気付かないまま、扉を開けた。
「マシュー、心配は無用だ。夫婦のことは夫婦で決める。俺の妻の心配は無用だ」
3か月分ぶりにジュリアの前に姿を現したガウスは、独占欲以外の何物でもない感情をむき出しに、言葉を放ったのだった。




