side ユアン
森の中を、馬で駆ける男が1人。
男は苦々しい顔を浮かべ、舌打ちをする。
(今年からはもう終わりだと言っておいたのに……! 勝手をしてわざわざ証拠を差し出すとは……愚かな!!)
男、ユアンはひたすらに進む。
もうかなり陽が落ちてきた。
まだ道の見通しがつくうちに、出来るだけ遠くへ逃げなければならない。
疑惑を持たれている状態で、偽装を行うのはあまりにリスクが高い。
だからこそユアンは工場長に、今年からはもう偽装は行わないと通達していた。
そして今回、ユアンは農家の前に加工工場に立ち寄った。
ガウスとジュリアが来るにあたり、万全を期すために。
すると驚いたことに、自分の指示を無視して今年も偽装作業を行っているではないか。
ユアンは慌てて地下作業場を片付けさせ、入り口を廃棄物で塞いだ。
工場長は、まさか気付かれないだろうと高を括っていたようだ。
愚かな男だ。
そして自分の人選が間違っていたと後悔した。
警邏は地下作業場の調査から始めていたため、事務所棟の警備はまだ手薄だった。
その隙をつき、自分へとつながる証拠に火を放った。
あの部屋の証拠は灰となっただろう。
しかし完全とは言えない。
自分へと捜査の手が伸びるのは時間の問題だった。
ユアンは真っ直ぐに前を向き、必死に馬を駆った。
ユアンは元々、貧しい家に生まれた。
母1人子1人、明日食べるものもままならない生活を送っていた。
ユアンの母は儚げでありながら、不思議な美しさを持つ女性であった。
月に1度か2度、家にやってくる男がいた。
ユアンの母は、その男がユアンの父であると語った。
わたしの愛しい愛しい男だと。
幼心に、男には別の家庭があることをユアンは理解していた。
ユアンの母は、男の愛人であった。
ユアンの母はその男が来ることを毎日心待ちにし、男が来るとユアンは外へと出された。
寒い冬も、雨の日も。
寂しいだとか辛いだとか、そう言った感情はなかった。
ただ生きるために、1人膝を抱えて時が過ぎ去るのを待つだけだった。
男はそれなりに身綺麗にしており、そこそこの裕福さであることが窺えた。
男がやってきてから数日は、普段は食べられない肉や魚が食卓に出ることから、金銭も置いていっていたのだろう。
だが、母子が生活するには、あまりに少ない額だったことが窺い知れる。
いつも男は急に前触れもなくやってきていたから、男の気分次第で会いに来ていただけなのだろう。
ユアンの母は、ただの都合のいい女でしかなかった。
やがてユアンはまだ少年と呼べる年齢の頃から、クルメル商会のとある地方の店舗で働き始めた。
ユアンは見目が良かったため、多少身なりが汚くとも役に立つと、当時の店長の判断で採用された。
結果、ユアンはその才能を開花させることになる。
身なりを整えたユアンは非常に女性の目を引き、人気者だった。
幼い頃はただ年配の女性に可愛がられていた節もあるが、成長と共にユアンに熱い視線を投げかける女性が増え、ユアンが店頭に立つ日は女性客でごった返すこともあったほどだ。
容姿だけでなく、元々の要領の良さと頭の回転の速さも相まって徐々に店舗の中で存在感を強くしていった。
ユアンが店長の補佐を任されるまでになった時、転機が訪れた。
新しく会頭になったばかりのガウスが、各店舗の視察に来たのだ。
その時たまたま、店長は腰を悪くし療養中であったため、ユアンが店長の代わりにガウスの対応を行ったのだ。
ユアンとガウスは息が合った。
それだけでなく、ガウスはユアンの有能さを見抜いていた。
こうしてユアンはガウス自身の意志で、商会本部へと引き抜かれたのであった。
仕事は面白かったし、やり甲斐もあった。
初めて自分で新しい顧客を開拓し、取引を結んだ時の達成感は忘れられない。
それは副会頭になってからも同じだった。
ユアンは商会の仕事を気に入っていた。
ただ、ガウスという男が気に入らなかった。
最初はそんなことはなかった。
まるで手のかかる弟が出来たようで、親しみすら持っていた。
しかし、それはすぐに崩れ去ってしまった。
ガウスと少し付き合えば、その女関係のだらしなさはすぐに分かる。
ユアンはガウスのその性質を、心底軽蔑していた。
ユアンとて女には苦労しないたちだ。
経験が少ないということもない。
けれどガウスは、根本的に違う。
ガウスのそれは、自分の弱さや寂しさを紛らわすため、女に依存しているに過ぎない。
多くの女に求められたい、構われたいと甘えているだけだ。
少なからず、ユアンはそう思っている。
何故ガウスに嫌悪感を抱くのか。
ユアンの父である男とは無関係である、と言えば、嘘になるだろう。
結局、母の老いと共に男の訪れは減り、やがて男を請いながら、ユアンの母は病の果てに亡くなった。
母の葬儀に顔も見せなかった男のことを、ユアンは恨まなかった。
しかし、心から軽蔑をしたのだった。
母と男がどういった経緯で愛人関係になったのか、男の身元は何なのか、ユアンには興味がなかった。
それは、ユアンが母のことも愚かだと思っていたからかもしれない。
男が男なら、母も母。
あんな男を愛し、待ち続けるなど、とんだ愚行だと思っていた。
元より、母の愛はユアンよりも男にあった。
ユアンにとって母は、母というよりも、あの男の女であった。
仕事を得てから、ユアンはほとんど家にも帰らなかった。
ガウスを見ていると、どうしようもない嫌悪感がユアンの中に湧き上がってくる。
家族に手を出された訳でも、恋人を取られた訳でもない。
ただただガウスという男が嫌いだった。
ユアンさえも名前の付けられない感情が体内を渦巻いていた。
ユアンは、これはもう生理的な嫌悪感という他ないだろうと思った。
だが自分が今の地位にいるのは、紛れもなくガウスのおかげであった。
だからこそ、ユアンは「頼れる右腕」としての自分を完璧に演じていた。
演じなければ、とても仕事にならなかった。
少しでも素の自分を出してしまえば、ガウスへの嫌悪感で顔が歪んでしまいそうだったから。
ユアンが完璧に演じてみせた結果、ガウスがユアンに全幅の信頼を置いていることも分かっていた。
ガウスが完全にユアンを信用し、まるで唯一無二の盟友だと、仲間だと思っていることを感じていた。
ユアンは、それに虫唾が走る思いだった。
仕事は順調だった。
ガウスは商人としての才覚は持ち合わせていて、商会は徐々にその規模を大きくした。
ユアンが最初勤めていた店舗だけでなく、またいくつかの店舗を地方に展開し、飲食店形態の店も軌道に乗ってきていた。
しかし、ここでもユアンの気に入らないことが起こる。
クルメル商会のプライベートブランドとして売り出しているハーブやスパイス類は、数年前からユアンに任されいる。
ガウスも時折確認するが、基本的に商品の選別はユアンが行っていた。
ユアンの商品を見る目は確かで、自分自身で見極めた納得のいく品質のものを販売している自負があった。
けれど、ユアンは気付いてしまった。
顧客の多くは、クルメル商会というブランド力と、値段だけで判断しているのだと。
ある時、天候が悪く質の良いハーブが穫れない年があった。
正直その年のハーブは納得のいく品質でなく、例年よりも価格を落とし販売することにしたのだ。
しかし手違いで、ある店舗で例年通りの価格で販売していることが分かった。
ユアンは慌ててその店舗の顧客たちに謝罪に行った。
だが、ほとんどの顧客は、品質の違いに気付いていなかったのだ。
ブランドと価格。
それでしか商品の価値を測っていなかったのだ。
ユアンは衝撃を受けた。
自分が誇りを持って行ってきたこと。
それらが全て無駄なような気がした。
クルメル商会が売れば、それなりの価格がついていれば、中身は関係ないのではないか。
そう思えてしまった。
やがてユアンは考えるようになった。
このまま、嫌悪感を抱いて一生ガウスの右腕を続けるのか。
誇りをかけても意味のない、無駄な仕事を一生続けるのか。
そして思った。
そんな人生はクソ喰らえだと。
そしてユアンは今回の偽装を思いついた。
サフランの偽装は、歴史的に見ても繰り返し行われてきた犯罪だ。
しかしユアンは、自分ならもっと巧妙な偽装が出来る自信があった。
この偽装が成功すれば、かなりの大金が手に入る。
その大金を手に、姿をくらますつもりでいた。
ユアンは1人検証を繰り返し、最も発覚しづらく、かつコストのかからない偽装のレシピを開発した。
ユアンは加工工場の中で目を付けていた男を、上手いこと工場長になれるよう取り付けてやり、計画に加担させることにした。
工場長となった男は、実に利己的で打算的な男であった。
そして愚かであった。
そこにユアンは目をつけた。
男はただ上手い話だと思い、計画に乗ることにしたのだ。
そして始めたサフランの偽装は、予想以上に上手くいった。
誰も偽装に気付かないことに、ユアンは安堵すると同時に落胆してもいた。
紛い物だろうと、誰もそんなことは気にしないのだ。
サフランの偽装を始めて、2年が経った頃だった。
ユアンが、あの少女に出会ったのは。
ある日突然ふらりと現れて、街中でユアンに声をかけてきたのだ。
ミルクティー色のふわふわとした髪を揺らし、庇護欲をそそる愛らしい顔で、
少女は恐ろしいことを言った。
「クルメル商会の副会頭さん。私ね、知ってるのよ。あなたがしていること。
ふふ。大丈夫怖がらないで。簡単なお願いがあるだけ。
あなたの商会の会頭さんと仲の良い、ティンバー王国の貴族がいるでしょう?
あの人のね、妹さんと会頭さんを結婚させてあげたいの。だから、協力して?」
当然、ユアンは怪しんだ。
だが少女は加工工場の地下作業場の場所まで言い当てた。
一体なぜ、どうやって。
理由は何もわからない。
しかし少女が自分の生命線を握っているのは確かだった。
いっそ、少女を消す。
そんな不穏な考えも浮かんだ。
だがユアンとて極悪非道な人間ではない。
人に対して冷めた所はあっても、何の躊躇いもなく人の命を奪えるほどの感性は持ち合わせてはいなかった。
それに、実際のところ不可能だったのだ。
少女は最初に声をかけてきた時以来、居所を掴む事ができなかった。
どうやらティンバー王国からの船に乗っていたという所までは掴んだ。
しかしそれ以上が、どう調べても分からなかった。
無理もない。
その頃の少女は、まだ名もなきただの孤児であったのだから。
その後、少女の使いであるという男が手紙を届けに来た。
少女とどういった関係があるのか分からない。
顔を黒い布で隠し、どう見ても堅気の人間ではないだろうと思われた。
男はユアンに手紙を渡すと、いつの間にやら姿を消していた。
少女の手紙には、いくつかの要求が書かれていた。
しかし、どうにも妙な内容だった。
ガウスに早く身を固めた方がいいと強く勧めること。
形ばかりの都合の良い妻がいれば楽だと伝えること。
ジョシュアに、ガウスがそういった妻を望んでいると伝えること。
たったそれだけだった。
金銭を要求されるでもなく、違法なことをさせられるでもなく、ユアンは拍子抜けをした。
これから更に何か要求されるかも知れないとユアンは恐れた。
しかし、それ以上少女から何かを要求されることはなかったのだ。
やがて、少女の望み通りにジュリアがガウスの元に嫁いできた。
ユアンはガウスから、ジュリアという女は性悪な悪女だと聞いていた。
自分本位に周囲を振りまわし、他人の犠牲を物ともしない女なのだと。
そこでユアンは思った。
あの少女はジュリアに酷い目に遭わされていて、その復讐を考えていたのだろうと納得したのだ。
しかし現実は違った。
ガウスは信頼した人間の言うことを盲目的に信じてしまうためなかなか気付かなかったが、明らかにジュリアは噂とは違う女性だった。
そしてユアンは思ったのだ。
ジュリアはただ障害物として他国に出されただけなのだろうと。
ユアンはジュリアを不憫に思った。
ガウスの女癖の悪さに加え、酷くジュリアを厭う様からジュリアにとってこれは幸福な結婚とは言い難いだろう。
少女にとってジュリアがどれほどの障害だったのかは分からないが、そこまでするほどのことなのかと思った。
ユアンから見て、ジュリアはとても好感の持てる女性だった。
ガウスには勿体ないほど。
噂通りの悪女であったなら良かったと、ユアンは思った。
それならば、こんなにも胸が痛むことはないのに。
そう思っていた。
ユアンは駆ける。
もう夜の帳はほぼ降りかけている。
(くそ! もう少しだったのに……!)
元々今年で偽装はやめるつもりだった。
十分な蓄えを得て、他国へと渡る予定でいたのだ。
偽装事件が発覚し、予定が一年早まり準備が整っていなかった。
正直なところ、ユアンはジュリアのことを評価しつつ、しかし侮っていた。
まさかハーブの目利きが出来るとは思っていなかった。
これまでの仕事上の取引は、ジョシュアかジャンが行っていたため、ユアンはジュリアを見たこともなかったのだ。
優秀な女性ではあるが、それでも箱入り娘なのだろうと思っていた。
だからこそ安易にジュリアを店舗に配置し、そのままにしてしまった。
それが間違いだったのだ。
(こうなったら致し方ない。あの少女の伝手を使うしか……)
ミルクティー色の髪の少女は、いざと言う時の逃亡先をユアンに紹介していた。
ただ脅しをするだけでは言うことを聞かないかもしれないと思ったのだろう。
ユアンに利になるものを、少女は用意していたのだ。
しかしあの得体の知れない少女のことを恐れたユアンは、あくまで最終手段だとその伝手を使うつもりはなかった。
だが、この状況では致し方ない。
少女の伝手を使おうと、ユアンは覚悟した。
ユアンは馬を駆る。
北へ北へと、アンブル王国を目指して。




