2-4
ツバキが悪魔二匹を引き連れ、再び救護室を訪問した時には、ローザは寝台の上で身を起こせるまでには回復していた。
「ローザ……ああ、本当に良かった!」
ベッドに両手をつき、全身から力が抜けたように、ずるずると崩れ落ちるツバキ。
「もう、ただの熱よ。ツバキはちょっと過保護すぎなのだわ」
心配をかけてしまったという自覚があるのだろう。ローザは少しだけ控えめにツバキへと苦言を呈す。
「でも……ここ一番ってところで毎回やらかすのだわ、アタシ。折角積年の夢を叶えるチャンスだったのに……」
掛け布団の裾をきゅっと握り締め、俯くローザ。
彼女の頭にあるのは明日に控えた職場体験学習のことだろう。
落ち込むローザの姿に、ツバキはあわあわと視線を彷徨わせ──ふいに視線が合ったレーベンをキッと睨んだ。
「ちょっと、あなた! ただの熱くらいどうにかしなさいよ!」
「それは無理ですねー。救護隊員全員に言えることですけれど、私達の能力は外傷を癒すものですからー」
「ですからー、じゃないわよ、この役立た──」
役立たずと言いかけたツバキは、何かに気が付いたかのように、そのまま口を噤む。
そんな、急に黙りこくった主の姿に、カゲロウとアスタロトは何事かと顔を見合わせた。
「あれー? 役立たず、って言わないんですかー?」
ほけほけと微笑むレーベンに、ツバキはしばらく押し黙っていたが、徐に、
「言いたくても、言えるはずがないでしょう……そんな傲岸なこと」
──と、ぶっきらぼうに呟く。
なぜならば、能力者は神ではないのだから。
外傷を癒せるだけでも、対象の生命に運命られた、外傷による“死”を先送りにするという、神の理に反するといっても過言ではない能力なのだ。
内なる病にまで人が干渉し、対象者の生命の時を延命す。それが人間の手に委ねられて良い権限だとはツバキには到底思えなかった。
だがそう理解した上でも尚、なんとかローザを励ましたいツバキは、落ち込む友の手を両手で挟み込むようにそっと握り、己が決意を声高らかに宣言する。
「安心して、ローザ。あなたの夢は私の夢。……私が、絶対にあなたの夢を叶えてあげるから!」
「え? ええっ? あ、ありがとう……? でも、ツバキがアタシの夢を叶えるって、そんなのどうやって──」
「──簡単な話よ。ローザの代理として私が完璧にその仕事を引き受けてみせる!」
「「「は?」」」
見事に被った声は、ローザのものであり、成り行きを見守っていたレーベンのものであり、二匹の悪魔のものでもあった。
実際問題、この場合に於いて、ツバキがローザの夢を叶えたところで、彼女のためには一切ならないのだが、ツバキにはそれしか解決策が思い浮かばなかったらしい。
「ツバキさん……頭脳明晰なのかバカなのか、どっちかにしませんかねー?」
──と、レーベンの涼やかな声が、中々の暴言を紡ぐ。
「違うよ、天使。ツバキの故郷ではこんなコトバがあるんだよ。バカと天才は紙一重ってね」
カゲロウの言葉を地で行く天才もしくはバカは「失礼な」とふんぞり反りながら己の横髪をさらりと肩の後ろへと手で払う。
「あなた達、私をなんだと思っているの? 畏れ多くも魔を打ち祓う、神具女の山の──」
その言葉を引き継いだのはアスタロトだった。
「神具女の山の影法師。その実態は、立てば癇癪、座れば示談。歩く姿は夢の墓地。──だろ?」
あまりと言えばあまりだが、的を射たその言い草に、ローザはベッドの上で腹を抱え、軽く悶絶している。
「失敬ね。そんな傍迷惑なものじゃないわよ! とにかく給仕くらい、私にかかれば朝飯前なんだから!」
何処から来るものかさっぱり不明な自信に満ち溢れているツバキに、このままでは埒が明かないと踏んだのだろうアスタロトは、やれやれと言わんばかりにツバキの腕を掴んだ。
「じゃあ嬢ちゃん、ちょっと来てみろ。何、明日の予行練習だと思えばいいさ」
ツバキがアスタロトに連れられて訪れたのは時の竜騎兵本部の食堂だった。
現在の時刻は十六時。──食堂では一般兵士達より一足早く、七天使の面々が食事を摂っている時間帯だろう。
アスタロトは食堂の出入口である両開きの扉を開くと、その中へと踏み入ることを躊躇うツバキを半ば強引に扉の内側へと引きずり込んだ。
思わぬ闖入者に、食事を摂っていた天使達は扉の方を見つめ、何事かと目を瞬いている。
「よう、七天使ども。お揃いで何よりだ」
片手を挙げて軽く挨拶をするアスタロト。
「掛けたままでいいからちょい聞いてくれ。実はここなお嬢がだな、ウェイトレスになると言い出してだな。そもそもの発端は──」
そのまま、かくかくしかじかの内容を彼から聞かされた天使達の反応は、
「いや、まずテメェには無理だわ」やら「人には得手不得手というものが……」やら「無理じゃの(断言)」やら散々なものである。
悲しいかな、誰一人として天使達から彼女の擁護の声が上がることはない。
だがそれでも、ローザの夢を叶える。ただそれだけのために、ツバキはおいそれと引くことはできないのだろう。集う天使達に『無理』の太鼓判を捺された彼女は歯痒そうに、ぎりりと爪を噛んでいる。
そんな主の姿に、アスタロトは「ま、思った通り引かねぇわな」と小さく呟き──、
「なあアンタら、ちょっとばかしこのお嬢に、ウェイトレスっぽいコトさせて、自分にゃウェイトレスなんざ無理ってことを、このわからず屋に分からせてやってくんね?」
──と、天使達へと依頼した。
どうやら彼はその依頼のためにツバキをここへ連れてきたのだろう。
「結果が見えているのに何でそんなコトをしなくちゃならないのよ。……と言いたいトコだけど、まあ、ここで止めておかないと、変な自信を持ったこの跳ねっ返りに明日来られるお店が可哀想ですものね」
仕方ない、と言わんばかりの表情でそれを引き受けたのは、時の竜騎兵中、最強の結界を張る能力を持つ、七天使の一人、アマラ・ビリジアであった。
亜麻色のウェービーロングヘアに蠱惑的なトパーズ色の瞳を持つ彼女は、隊服を、豊満なその肉体をより強調するような作りに改造しているのだろう。胸元を大きく開けた紺のレザージャケットの下に黒いインナー、同色のロングスカートは腿のあたりから大きくスリットを入れたようになっている。
そんな見目麗しい彼女は「構いませんわよね?」と、その豊かな髪を掻き上げながら、周囲の同胞にも確認を取り──、どうやら否の声は上がらなかったようで。
「アナタにウェイトレスができるとは、まず思わないけど……納得できないのならやってみれば良いですわ」
「ふん、揃いも揃って、人を見くびるのも大概にしなさいよ! 私だってその気になれば茶や団子の十や二十……そうよ、給仕の真似事くらい、この私にかかれば造作もないことなんだから」
アマラに対抗するように闘志を燃やすツバキは「ほら、さっさと注文しなさいよ頓馬ども!」と早速店員であればまず口にしないであろう単語を想定上、客である天使達へと投げつける。
「えーと、では僕はシチューをお願いできますか?」
一番早く注文をかけたのはウリエルの天号を持つ天使──シズマ・イヴァノフ・セヴィンだった。
栗色の癖のあるショートヘアに、髪と同じく栗色の瞳を持つ、レーベンと同じ、飾緒と天使羽の階級章以外は基本的な隊服を身に付けた、温和な性格であるその青年は、食堂の机に置いてある本日のメニューを見ながら、無難そうな注文をかける。
「ホラ、出来るんだろ? やってみろって」
アスタロトに背を押されたツバキは厨房へと入って行くと、程なくして調理人から受け取ったシチューを盆に載せ、僅かの危なげも感じられぬ足取りで戻ってきた。
昔遠き日には故郷で巫女として、奉仕活動の一環で、茶や団子を里人に振る舞うことも多かった彼女は、盆を抱えながら静々と歩くことには慣れていたのだろう。背筋を伸ばし、音を立てずに歩みを進めるその洗練された動作は、周囲の空気を凛と清めさせる、かつての巫の姿、そのものだ。
「どうぞ。熱いので気を付けて下さいませ」
少しだけ屈みながらシズマの前にシチューの皿を静かに置き、立ち上がりざまにニコリと儚げで、それでいて清廉な微笑みを浮かべる。
ドレストボルンにはまず彼女以外は存在しない黒髪黒瞳と、その作り物めいた美貌故にツバキは、魔物が化けただの魔物と人の間の子だのと根も葉もない噂を立てられ、厄介事に巻き込まれたくない一般人から遠巻きにされることも多いのだが──、
「成程、確かにこれは彼らの心情が分からなくもありませんね……」
──と、シズマはツバキの微笑みに、何かを感じ取ったのだろう。盆を小脇に踵を返すその後ろ姿を見送りながら、一人頷く。
「どうしたシズマ」
抑揚の見当たらないその声の主は、膝丈まで伸ばした銀髪に、エメラルドグリーンの瞳を持ち、隊服の上に黒のロングコートを羽織った長身の、時の竜騎兵団長──ヴァイス・ツー・アーベントロードのもので。疑問かどうかも怪しいほどに淡々と問われたシズマは、困ったように眉尻を下げた。
「いえ、上手く説明できないのですが、何故、彼女が人々から距離を置かれるのか、今なんとなく解った気がしまして……」
「なんだ、そんなことか。……そんなもの、早いが話『共感できない』からだろう」
ヴァイスの言葉に、シズマは目を丸くする。
「共感できない、ですか?」
「そうだ。これは生まれ持ったものだから仕方ないとはいえ、この都市に住まう者は、まずあの髪と目の色に共感できない。そこを何とか通過しても今度は服屋の入口に飾られている着付け人形のような、無駄に整った容姿を人は奇異に思うだろう。……アレがもう少し人並みな顔立ちであれば、そこに『共感』して人は歩み寄ることも出来ただろうが、まあそれも叶わぬときた」
ヴァイスは「違うか?」とエメラルドグリーンの瞳をシズマへと向けた。
「いえ、確かにそうかもしれません……。先ほど、僕がツバキに感じた違和もきっとその、共感できない、というものなのでしょう」
それに、とシズマは続ける。
「その……、彼女に共感できないからそう思うのかは分かりませんが……、彼女の笑み自体も、僕の知るウェイトレス達とは何かが根本的に違うというか……」
運ばれてきたシチューの湯気を見つめながら、真剣に考え込むシズマ。
「シズマ、アナタってホントに鈍い男ねえ……。簡単な話でしょう、ウェイトレスはあんな一方通行な笑い方をしない、それだけのコトですわ」
長机を挟んでシズマと対面するように座っていたアマラが、その人差し指の先をびしっと彼の額へと向ける。
「『お給料を貰っているから』でも『仕事が楽しいから』でも、そこには人間らしい、共感できる笑みの理由があるわ。……けれどアレは違う。アレはただ当然のように『施す』ためだけの一方通行の笑み。見返りも感情もない、そんなモノに共感なんて出来るワケがありませ──」
「──ほーら! ご覧なさいな! どうかしら、簡単だって言ったでしょう!」
アマラの声を盛大に掻き消したのは、厨房に盆を置いて戻ってきたツバキの勝利の雄叫びだった。
先ほどまでの静謐さもどこへやら。
勝ち誇った笑みすら浮かべ、アスタロトへと「何か言うことは?」と謝罪を迫るツバキであったが、アスタロトは「いや、まだだ」とその真紅の眸を細くする。
「ウェイトレスは茶や決められた団子、それだけを運ぶ仕事に非ず。……つまり、一種類運べただけで鬼の首を取ったように語るのは早計ってことだ」
「え……」
そう。ウェイトレスとは決してそんな簡単な仕事ではないのだ。──ないのだ。が、ツバキは目に見えて少し動揺する。
「なんだ、できないのか?」
「だ、誰が! 違う注文が重なったってこの私にかかれば余裕も余裕。できないはずがないじゃない……?」
動揺し、何やら語尾が上がりつつも、まだ彼女には若干の自信と余裕があるのだろう。
ツバキは「やってやる!」と言わんばかりにその薄い胸を張り──。
「んじゃ俺は、サラダとミートパスタと後、紅茶な」
「こっちには青椒肉絲に小籠包、それから杏仁豆腐も頼むぞ」
先に注文をかけたのは、オールバックにした短い銀髪に灰銀色の瞳を持ち、耳にはいくつもの銀のピアスを付けた、見るからに短気そうな青年だ。戦闘時に邪魔にならないよう隊服の袖を短めに改造している彼の名は、ジオン・ディストリーク。戦場においては常に最前線を張ることが多い、時の竜騎兵きっての切込隊長だ。
そして、後から注文をかけたのは、琥珀色の瞳にシニョンヘアに纏めたブラウンの髪を持つ、愛らしい見た目に反してジジくさい喋り方をする七天使の一人──イェンロン・ユンだった。紺の隊服を体型にピッタリ合うワンピースのように改造しており、その両裾に大きく入れたスリットからは、だぼっとした白いズボンが覗いている。
そんな二人の天使から続けて入った注文に、ウェイトレスなぞ造作もないこと、と直前まで豪語していたはずのツバキは、その舌の根どころか舌の上っ面すら渇かぬうちに、早くも「面倒くさい」の一言を顔に貼り付け、額に青筋を浮かべた。──たった六つ。たかが六つの注文であるにも関わらず、である。
だが彼女はローザとの約束がある手前、どんなに面倒であろうともウェイトレスをやめることだけはできないらしく、ニマニマと己を見守っているアスタロトへと舌打ちしながら厨房へと消え──、
「サラダとミートパスタと紅茶、お持ち致しました」
──彼女は作り物の微笑みの裏に苛立ちを押し込め、机に料理を並べた。──その時だった。
「ワシの杏仁豆腐はまだかの?」
「あ、アタシ、注文はパンケーキにするわ。あ、団長は野菜スープがいいそうよ」
それは現場では往々にしてある光景だろう。
矢継ぎ早に注文やら催促やらををまくし立てる天使達に、太くも長くも強くもないどころか、むしろ細く短く、紙切れ以下の強度しかないツバキの堪忍袋の緒は、いとも簡単にブチリと切れた。
「はい、杏仁豆腐ですッ!」
最早、その顔には微笑みなど皆無。
ダン、と白い液体の飛沫を上げながら、鬼の形相のツバキに、机に叩きつけられたそれは──、
「待て、コレはミルクではないか!?」
──固める前の杏仁豆腐。つまり、砂糖入りミルクである。
抗議の声を上げるイェンロンの肩で、小白虎のツェンリンが興奮気味に「キャ、キャウュ!」と前肢を必死に運ばれてきたグラスへと伸ばす。
どうやら己の好物を目の前に、主から何とかそれをねだろうと躍起になっているようだ。
「細かいわね! 杏仁豆腐なんてコレを固めるだけでしょう! つべこべ言わずに飲みなさい!」
ツバキの頭には香料などという高尚すぎる概念は存在しないようで、がおがおと牙を剥きながら、お盆を片手に吠えていると、その肩に浅黒い手がポン、と乗った。
「な、嬢ちゃん。アンタにゃ無理って解ったか?」
ハッと我に返ったツバキは、己をニヤニヤと見下ろす悪魔の手を、パシリと肩から払い除け「できる、私ならできる」と、自己暗示を掛けるかのように何度も己へと強く念じながら、厨房へと去り──。
優に十分は経った頃、彼女は盆に野菜スープを載せて再び戻ってきた。
「お待たせ致しました。野菜スープでございます」
機械的にそう発言し、団長ヴァイスの前へと熱々の液体を撒き散らせながら、スープの注がれた器を置く──もとい、叩き付ける。
彼の持つ、ウェーブの掛かった白銀の長髪と、隊服の上から羽織った黒いロングコートに染み込んでゆく飛び散ったスープに、場の空気が一瞬で凍り付いた。
──が、適応力の高い彼は、もう彼女の暴挙には慣れつつあるのだろう。取り立てて驚いた様子も、気分を害した様子もなく、どこからか取り出した手巾で、黙々とスープの染み込んだコートの胸元を拭いている。
「慣れって怖え……」
アスタロトの呟きに、まさかほんの数ヶ月前まではこんな日が来るなどと、夢にも思っていなかったシズマは、彼のその言葉に心の底から同感した。
そんな時だった。パスタを頬張っていたジオンから、剣呑な声が上がったのは。
「オイ、このパスタ虫が入ってんぞ!」
勿論、それはパスタに実際に虫が混入しているわけではなく、厄介な客を想定してのものだったのだが──、
「……申し訳ございません、只今、違うものとお取り替え致します」
機械的な謝罪に抑圧された怒りを含んでいる給仕ツバキの方が、想定の客よりも圧倒的に厄介な思考回路を持っていた。
ジオンの前から、虫の混入したミートパスタの皿を下げて数分後──。
「──お待たせ致しました」
ツバキは新しい皿を厨房から持ってくると、その上へと影蟲と呼ばれる、影の世界に住まう掌サイズの蟲をボンと置いた。
髑髏のような禿頭に蟷螂のような鋭い顎。そしてちびちびと毛の生えた白蟻のようなボッテリとした躰に、短い棘のある蜘蛛のような脚を持ち、蟇の潰れた声で鳴くその蟲はまず食用とは思えない見た目である。
「なんで!?」
嫌な予感が拭えず、こっそり付いてきたのだろう、食堂の入り口からそっと覗いていたカゲロウがうっかり声を上げる。が、彼の疑問も当然と言えば当然だ。一体どこの料理店が混入した虫を新たな蟲に取り替えるなどという暴挙に出るというのか。
「無料です。どうぞ安心してお召し上がりください」
「いや、無料云々以前の問題だろーが!?」
「では返金も致します」
「そういう『無料以前』じゃねえから!」
おおよそ常人とは思考がかけ離れているウェイトレスの対応に「なんでそうなる」と頭を掻き毟るように抱えるジオン。
──と、その目が哀れな皿上の複眼とうっかり合ってしまったらしく、ジオンは「ギ……ギギ」と何かを訴えるように鳴く蟲に「いや、食わねぇから、つか食いたくねえから安心しろ」と謎のフォローを入れる。
口腔から人の体内へと侵入し、宿主に巣食うことができる蟲であっても、咀嚼されるとなると話は別らしい。
「ギ……ギギギ」
「あーうん、よく解らんが、お前も大変だ、な?」
引き攣った表情で蟲と謎の会話をしている彼の隣で、漸くテーブルに料理が届いたアマラから鋭い声が上がった。
「ちょっと! あたくし、パンケーキを注文しましたのよ。なのに何でサラダが届いてるのよ! しかもなんかこのサラダ……なんというか、雑なのだけど?」
パンケーキとサラダ、聞き間違える要素はまず見当たらず、おまけに届いたサラダはキャベツを雑にむしっただけ、何かブヨブヨとしたトマトを載せただけ、という杜撰な出来栄えである。
「あれは……その……」
──と、急に歯切れの悪くなったツバキの口許に、黒子の如く付着しているのは、茶色の何か粘着質なソース──。
「待って、その口許の黒いの、チョコレートソースじゃないの……!? まさかアナタ、あたくしが注文したパンケ──」「──あーあー! 知らない! 絶対知らない!」
──食べた。コイツ、絶対パンケーキ食べた。
アマラの言葉を遮るツバキの姿に、食堂に集う誰もがそう確信した。
まさかの給仕係が客の注文したものを食すという前代未聞の不祥事。それを引き起こした張本人であるツバキは、冷たい視線からつい、と顔を逸らすとソースの付着した口許を、子供のように袖でごしごしと拭く。──と、厨房の裏でパンケーキを鷲掴みにして急いで食べた時に付いたのだろう、指先のチョコソースがその目に止まったらしく、彼女は迷わず服の裾でそれも拭き取った。
「その服、洗うの俺様なんだけど……」
アスタロトは服にチョコレートソースを擦り付ける幼児さながらの彼女の行動に、うげ、と顔をしかめる。
「アナタ……もしかしなくてもこのサラダ……」
「し、知らないわ! パンケーキがなくなったから、誤魔化そうとして厨房にあったキャベツむしって皿に置いたとか、少し痛んだだけのトマトがゴミ箱に捨てられていたから拾い出してそれも皿に載せてみたとか、そんなのじゃないから!」
「……待って。アナタ今ゴミ箱って言った?」
誤魔化す云々以前に、ゴミ箱産の洗ってもいない生野菜を人に食べさせようとしたウェイトレスは「洗う気はあったのよ」とか「ゴミ箱だと気付かなかった」とか、罪状が増えるような嘘の見え透いた弁明をアマラへと連発し──。
「アレ? のう、ワシ気付いたのだが、ツバキは料理を運ぶだけで、調理自体は調理人の仕事のはずじゃ。……なのに、ワシの杏仁豆腐はミルクの状態でやって来た。……つまり、ワシの杏仁豆腐も……もしかしなくても……」
イェンロンの言葉に、既に冷え込んでいた皆の視線が更に二、三度ほど、輪をかけて冷たくる。まあ余罪まで発覚してしまった以上、仕方のないことではあるが。
「ほら、これで分かったろ、嬢ちゃんアンタにはウェイトレスは──」
「──無理なのだわ」
食堂にふいに響いた声はローザのものだった。
「もう、心配して来てみたらやっぱりこんなコトになってるのだから。……ツバキ、アンタにはウェイトレスは無理だわ」
扉の前で、レーベンに肩を支えられながら立つローザは「でもね」と続ける。
「でも、アンタが一生懸命アタシのために頑張ってくれているのは充分伝わったわ。ありがとうツバキ」
──と、まだ少し熱があるのだろう、赤い顔で礼を述べるローザ。
ツバキはお盆を手近な机の上にコトリと置くと、目に見えて気を落とした。
「一生懸命やったからって、結果が出なければ意味がないのよ。気持ちなんて伝わらなくても、成果さえ上げられれば──」
「そんなコト言わないの。アタシはウェイトレスを完璧にこなしたかったんじゃなくて、楽しみたかったのだわ。そして、それはアンタが今叶えてくれた。そうでしょう?」
ローザの言葉に、ツバキは少しだけ考える素振りを見せ──やがて小さく頷いた。
「……とっても腹が立ったけれど、まあ確かに(味は)楽しめたわ」
何やら余計な真意が込められている発言なのだが、純粋なローザは、言葉を額面通りに受け取り、
「でしょう? だからもういいのだわ」
──と、柔らかに微笑む。
ローザに諭されたツバキはようやくウェイトレスを辞める気になったようで──。
「そうね、甘いものも食べられたから、うん、もういいわ」
つまみ食いに満足したのだろうツバキは悪魔二匹を引き連れ、ローザと並んで、食堂から仲良く立ち去っていく。
──そんな二人の少女の背を見送りながら、イェンロンがポツリと疑問を口にした。
「のう、ワシは思うんじゃが……、何やら深いコトを言っておったようじゃが、早いが話、注文通りに食べずに運べば良いだけではないのか?」
至って正論──どころか、ウェイトレスの基本中の基本である。
「まあアタシもそうだとは思いますけど、何か良い感じに落ち着いたみたいだから、これはこれで良いんじゃなくて?」
アマラは「それよりも」と眇めた目を、つい、と己の前へと向けた。
「アタシ、今晩の食事はただの生野菜決定なのね……」
彼女の前ではキャベツをむしっただけ、傷んだトマトを丸ごと乗っけただけのサラダが下げられることなく置かれており──、
「まだマシだろ。俺なんてメシがムシに変わったんだからな……」
何の救いにもなりはしないが、その隣には、更に上の被害者がいた──。