6-4
「師匠…答えてよ。どうして…ここにいるのよ……」
「どうしてもこうしてもねえだろう! 『鮫の巣』にアホみたいな情報が入ったからこうしてわざわざ依頼でもなけりゃあ来たくもねえ地上まで出向いてやったんだ!」
今までヴァイスと話していたらしいガイルはツバキの頭頂へと手を伸ばすと、その濡れ鴉の髪をそれはもう無造作に鷲掴みにし、力の抜けた彼女を吊り上げる。
「てめえ…ヴァイセンベルガー家の令嬢を殺したかったのか?」
底冷えのする眼光に、ツバキは吊り上げられたまま、声を限りに叫ぶ。
「ふざけないで! なんでそんなことを言うの…ッ! 私はただ護りたかった、それだけなのに!」
癇癪を起こしたようなその反応に、ガイルは溜め息と共にパッと髪を掴んでいた手を離す。
再び地面へと崩れ落ちたツバキを見ることもせず、ガイルは「死にたくねえだろ、下がれ」と低く呟き、彼女へと背を向けた。
「何よ…何よ……! 何なのよッ! あなたに…護る者も何もない、あなたに何が分かるっていうのよッッ!」
刹那、鈍い音と共にツバキが宙を舞った。
音の正体は背を向けたまま、ガイルが後ろ足で彼女の顎を蹴り上げた音だった。
「オイ、団長さんよ。いいのか? てめえのとこのヒヨッ子、蹴り上げたワケだが?」
「……」
ヴァイスは何も見なかった、というように目を瞑る。
地面にもろに身体を打ち付けたツバキは、ゆらりと立ち上がり、吠えた。
「この…クソ師匠──!」
日はまだ高く、影法師の力を存分に発揮することはできない。
だが、それがどうした。
「このッッ!」
ツバキが振り抜いた脚は簡単に躱される──どころか、その脚をがっちりと掴まれたツバキは軽々と石畳へと叩きつけられた。
「ツバキさん!?」
群衆から上がった驚愕の声にツバキは顔を歪めながら、天地がひっくり返った状態のまま、そちらを見やる。
人混みを掻き分け色を失った顔で駆けて来るのは、一般兵士でしかない己を勝手に長と仰ぎ、呼んでもないのに付いてくる兵士達の姿──。
「テメェ、髭ダルマ! 俺達の長に何しやがる!」
血気盛んな彼らは無謀にも、ガイルへと正面切って喧嘩を挑もうとし、
「下がりなさい! そこのクソ師匠は私の獲物よ──」
ツバキは咄嗟に起き上がると、兵士達とガイルの間へと割って入った。
「下がるのはてめえもだ、お嬢。今のてめえじゃ、オレには万に一つも勝てねえよ。……悪いこたぁ言わねえから、大人しくそこで這いつくばってろ」
ガイルは最早ツバキに警戒の鱗片すら見せることはなく、くるりと彼女にその大きな背を向け──。刹那、その背を見つめるツバキの瞳孔が鈍くひび割れた。
──大人しく、這いつくばれ?
ガイルのその言葉に──ツバキの頭から雑音の一切がふつりと消える。
ガイルが気付かずして土足で踏んだのは、影法師という生業に対する、彼女と神具女の里の民の矜恃。
そこに思い至った瞬間、彼女の思考は殺意一色に塗り潰された。
「──ろす、ころす、ころす……殺す!」
ただ、殺意に駆られるままに地を蹴り、対象に肉薄する。
躊躇いはない。考える必要もない。ただ、最短距離を脳内で算出し、その通りに動くだけ。
「っと──ぉ!?」
突如として身のこなしの軽くなったツバキに、背後から飛び掛かられたガイルは、その細身の四肢を咄嗟に背負い、前方へとぶん投げた。──が、投げられるその刹那に彼女の拳が彼の顔面へと飛来し、頬ギリギリのところでそれは空を切った。
無言のまま、地面に叩きつけられる寸前で猫のように素早く受け身を取ったツバキは、体勢を低くし、ガイルを硝子のように平淡な瞳で見据える。
「……なんだ、もうなまくらかとばかり思っていたが、まだ残滓があったか。殺戮人形」
ガイルは懐かしさと切なさが入り交じったような表情で目を細めると、ヴァイスを見やる。
「ああ、さっきの件だが、ちょい待ってもらっても良いか? 何、もうちょい研けば、まだギリギリ使えてしまいそうな刃があるんでね──」
刹那、滑り込むように距離を詰めてきたツバキに、その背を狙ってガイルは左肘鉄を叩き付け、地に打ち伏せる。と、その肘は彼の狙いを僅かに外した、彼女の左肩甲へとめり込んでいた。
腕の骨を垂直になるように地に立て、肘鉄の衝撃を地へと逃がしたツバキは、すぐに右拳でガイルの顎を打ち上げる。──が、彼にもまだ右手が残っていた。パシリ、と捉えられた己が拳をすぐにツバキは戦闘の邪魔になると判断したのだろう。ゴキリと鈍い音と共に、彼女は己の肩関節を力任せに捻って外すと、あり得ない方向へと回ったその腕を餌に、思い切りガイルの左頬を左拳でぶん殴った。
「こんにゃろ……!! 師匠殴るたぁどういうことだゴルァ!」
ガイルは殴られた左頬を擦りながら、掴んでいたツバキの右手を解放し、彼女の右頬を殴りつける。
加減されたその拳が致命傷になり得ることはないと一瞬の内に判断したツバキは避けることもなく、それを頬に受け──お返しだと言わんばかりに、殴られた顔を正面に戻すと同時に、己を殴るその拳を齧り、犬歯でその皮膚を横に引き裂いた。が──、
「温い! 昔のてめえなら今のでオレの手ぇ噛み砕いてたぞ!」
ガイルは己の拳へと齧りつく弟子の口から手を引き抜くことはなく、そのまま上顎を掬うようにしてツバキを上方へとかち上げる。
どしゃり、と石畳に血飛沫を散らせながら落ちたツバキは、再会して初めてガイルに怪我を負わせたことに驚いたように、目を見開いていた。そしてその驚愕は彼女が意図せず凍結させていた感情を溶かしたのだろう──その頬に一条だけ、透明の雫が伝う。
「何よぉ…全部師匠が……師匠が悪いんじゃない……!」
初めて目の当たりにする弟子の涙に、ガイルはうっかり思考を停止させてしまったらしい。ツバキは顔を歪ませながら、そんなガイルを突き飛ばし、その身体に馬乗りになると、彼の左頬を更に殴る。
「私……私にどうしろって言うのよ! お手洗いの中まで付いていけって言うの!?」
「馬鹿か! んなこたぁウチに来た時、真っ先に教えたろが! 目標がトイレに籠ったなら、万一を考えて第二第三の手を先に打っておく。これが鉄則だ!」
ガイルの怒声と共にツバキの右頬が鳴る。
「師匠が…師匠が私の判断力を落としたんじゃない! なによ、お嬢さんって! そんな生き方、教えてくれなかったくせに!」
ツバキの振り上げた拳はガイルの左頬──ではなく、その胸へとどかりと落ちた。
「分かる!? 憎まれているに違いないと思っていた師匠が呼んでくれて……殺されるかも、とは思ったけれど、それでも嬉しくて! それで、会いに行ったらお嬢さんには依頼なんてないから帰れって言われて! ねえ、私がどれだけ苦しい思いしたか、あなたに分かる!?」
ドンドン、とガイルの胸板を左拳で叩きまくるツバキ。
と、己を殴りつけるその拳をガイルはため息と共に、パシリと掴む──が、その拳を掴んだ無骨な手には、既に戦意はなく、ただ温もりがあった。
「馬鹿野郎。てめえこそ分かるか? 手塩に掛けた愛弟子が何やら厄介事に巻き込まれている情報を得て、いざ呼び出してみれば、ぬるま湯に慣れきって、色んな表情をするようになっていた。……オレが教えてやれなかったことを、そのヴァイセンベルガーの令嬢からかは知らんが、しっかり教えてもらって。手合わせをしてみりゃ、街娘のように隙だらけで。漸く平穏に慣れた愛弟子を誰がまた……殺戮人形なんかに戻したいと思うよ?」
確かに彼女が心を得るきっかけは与えた、とガイルは思う。
「あれはいつだったか……」