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「むにゃ? あ、おかえりツバキー」
掛け布団の上で、人間の骨格ではまず難しいであろう、『の』の字を書くように、まるりと丸まった態勢で眠っていたツバキが、帰ってきたツバキへと声をかける。
何やら表現がおかしいようであるが、実際がそうなのだから仕方ない。
「カゲロウご苦労さま。もう戻っていいわよ」
外から帰ってきたツバキの言葉に、カゲロウと呼ばれた、先ほどまで布団で熟睡していたツバキの姿をした少女は「はぁい」と答えるが早いか、ぐにゃりとその姿を黒猫へと変えた。
「ふう、やっぱりこの姿が楽だなぁ。楽だなぁ」
変化の能力を持つ彼は、どうやらツバキが出掛けている間、彼女に変化して留守を守っていたらしい。
本来であれば彼等のような悪魔が、魔王討伐を掲げている時の竜騎兵にいることは大問題でしかない。何故なら悪魔とは、魔王の統治する悪魔の王国に於いて、魔王直属の配下であり、数多の魔物を使役し、従える者だからである。
カゲロウもアスタロトもまたご多分に漏れず、元は配下を持つ強大な悪魔であったのだが、残念なことに紆余曲折な事情の下、今では部下の一匹すらいないというこれまた非常に残念なこととなり、その転落人生改め、転落悪魔生を見兼ねたツバキによって拾われた彼らは、現在、彼女の部屋に居候している。
余談であるが、彼女が入団当初、住んでいた部屋は個室であり、それは本来であれば世帯も持たぬ一般兵士という身分であるツバキにはまず宛てがわれるものではないのだが、常人であれば、悪魔を二匹も連れた者と同室で共同生活を送りたい猛者などまずいるはずもなく。
結果、苦肉の策として講じた上層部の措置が、悪魔諸共にその個室へ隔離することであった。──のだが、やはりそれでも隣室の兵士達にとっては壁一枚隔てた先で二匹もの悪魔が息をしているというのは苦痛でしかなかったようで。
体調を崩す兵士達が現れ始めたのを敏感に察知したツバキは早々に宿舎を飛び出し、中央本部の広大な敷地の片隅にある寂れた修練所に付設された休憩所、兼、物置でもある小屋に勝手に棲み着いた。
本部の敷地には七つ修練所があり、足を運ぶのが不便であるのを理由に放棄された、敷地の端にあるそのだだっ広い修練所付き一軒家は今では快適な彼女の棲み家となっているようだ。
そんなすてきなマイホームにカゲロウの弾む声が響く。
「ツバキ、で、どうだった? どうだった?」
「──えた」
期待にキラキラと輝く黒猫の金眸を直視できないらしく、ツバキは明後日の方角を向きながらぼそりと、早口に呟く。
「へ?」
よく聞き取れなかった主の声に、黒猫がきょとんと首を傾げた。
ツバキはしばらく何やら唸っていたが、黒猫の輝く眸の前に、いつまでも答えを誤魔化し続けることは出来ないと観念したのだろう。それはもう投げやりに、そして端的に、事実のみを述べる。
「だから、増えたのよ! 借金が!」
「何故!?」
カゲロウはパカッと口を開け、理解不能といった体で己が主を見上げる。
ツバキの後から小屋へと入って来たアスタロトは己に飛び火が来ないよう、自己保身の弁明を始めた。
「俺様、これでも先方のカードが見えるようにさりげなく手鏡を配置したり、コインに細工もしてみたり、果てはマジでイカサマまでしてみたんだが、何故か結果は惨敗だった。バアル、この嬢ちゃんはダメだ。とことんギャンブルに向いてねえわ」
アスタロトの言葉にカゲロウは「知ってるよ!」と甲高く喚く。
「知ってるからこそ、ホントはボクが付いて行きたかったところをぐぐっと我慢して、イカサマが服着て歩いてるよーな、アホタロト──お前に一緒に行けって言ったんだよ! 言ったんだよ!」
発言内容は外道そのものだが、そんな外道に手を染めてでも、カゲロウはなんとか借金を減らしたかったのだろう。
叶わなかった借金返済の夢に、──どころかまさかの増えていた借金に、カゲロウはその肩を力なく垂らし、完全に意気消沈してしまっている。
「困るよぉ。ツバキはギャンブルについてはアレ、ほら、アレなんだから。えっと、ヘタのタテズキ?」
「……バアル、それを言うなら下手の横好きだ」
難しい言葉が苦手なカゲロウであるが、彼自身がアホタロトなどという渾名を付けるくらいには阿呆と認定している兄弟分──アスタロトに、さらりと訂正を入れられたことが面白くなかったのだろう。黒猫は、ふんと一度鼻を鳴らすと、次いで、床をピシリと尾で叩いた。
「因みにツバキ、借金いくら増えたのさ」
カゲロウは金の眸を眇めながら、頭の中でせっせと算盤を弾き、──今月の給料から二万マークほど、食費を削って返済に充てて──等々、必死に遣り繰りの算段を立てる。
──が、その立てた算段はツバキの言葉の前に、ガラガラと音を立てて崩れることとなった。
「え……えっとぉ……、軽く見積もって……は、八十万マーク……くらい?」
普段は傍若無人なツバキであるが、増えた金額が金額なだけに、さすがにバツが悪いのだろう。金額を答えながら彼女は、にへら、と己の頭を掻く。
「はちじゅ──!? お、お……おバカ──ぁ!」
涙ぐましい努力では到底返せそうもない、想像を遥かに超えた金額に、深夜の小屋にカゲロウの甲高い怒号が響き渡る。
その声は──恐らく、そこが宿舎と遠く離れた小屋でなければ翌日、騒音被害の始末書案件となったであろうほどの、耳をつん裂かんばかりの怒声だった。