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結局酒瓶を十本空けたガイルは、酒豪なのだろう、顔色ひとつ変えることなく、
「ん? なんだ、もう戻ってきやがったのか…もうちょい飲んでいたかったんだがなあ」
──と、残念そうにボヤきながら部屋へと至る通路を見やる。
そんなガイルから遅れること三秒ほどでツバキの耳も、彼の言わんとするところである何者かの駆ける足音を捉え、あまり隠密慣れしていないシズマは、ツバキよりも更に数秒遅れでその足音に気付いた。
「ひひっ! 頭ぁ。ドンピシャですぜ! やっぱり隣の奴等、一枚噛んでるみたいでぇ」
転がるように部屋に入ってきたのは猫背の小柄な男だった。
見るからに狡猾そうな、大きな目玉をギョロつかせる四十半ばくらいのその男は、ふいに視界に飛び込んだ、かなり前から何か思うところがあったらしくじっと通路の方を見つめていたレーベンの姿に眼球が飛び出すのではという程に目を剥いた。
「ひいっ!? な、なんでここに時の竜騎兵の連中が!?」
「……あなたは変わらず小心者ね。……久しぶり、烏」
クレアと呼ばれた男は「なんだ、てめえ」とツバキを胡乱気に見やり──、
「あ、ああ──っ!? テメェまさか、殺戮人形か!?」
ツバキをびっと指差し、耳障りなまでにやたらと高い掠れた声で叫ぶ。
「るせえぞクレア。んなことより報告の続き、とっとと寄越しやがれってんだ」
面倒くさいと言わんばかりのガイルの声に、クレアと呼ばれた男は「あ、ああ」と当初の目的を思い出す。
「隣だけじゃねえ。色んな小規模連中が今、妙に浮き足立ってやがる」
ガイルは「やっぱりか」とボヤくように呟くと、よっこらせ、と掛け声と共に椅子から立ち上がる。
「あら、言葉の端々まで本当におじいちゃんね。師匠」
「てめえもうるせえぞ、マリア。…おい、マリア?」
「ふぇ?」
二度呼ばれたツバキは間抜けな声と共に首を傾げる。
そんなツバキをたっぷり五秒はじっと見つめたガイルは──、
「おいおいおい…これはまさか本当に“そう”だったりするのか…? オラ、ちょっと来いマリア!」
ひょい、とツバキを肩に担ぎ上げると、のしのしと大股で部屋から出ていくガイル。
そんな彼の姿に、椅子の周りで侍っていた女達はキョトンと顔を見合わせ、首を傾げた。
「え、ちょっと待っ、し、師匠…そんな、まさかとは思うけど……ってその顔はやっぱりそうよね!? や、やだ──っ! こーろーさーれーるーッッ!」
只今絶賛、拉致被害に遭っているツバキは、その肩の上でジタバタと暴れながら、普段であればまず口にしないであろう、切羽詰まった甲高い悲鳴を上げる。
「ま、待って下さい! 彼女相当嫌がっているじゃないですか! 下ろしてあげたらどうなのですか!」
堂々と立ち去ろうとする人拐いを追うシズマとレーベンに、ツバキが「早く助けてええ」と恥も外聞もかなぐり捨て、騒ぐ。
「あ。本部ですかー? 今、変態がツバキさんを拉致しましたー。早く助けろと騒いでいますー、以上」
「報告とか後からでいいから!? この性悪天使──!」
やいのやいのと騒ぐツバキを丸無視し、ガイルが彼女を連行してきたのは、薄暗く何もない、がらんどうの部屋だった。
それはもう無造作に石床に打ち捨てられたツバキは咄嗟に受け身を取る。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ってくるシズマとレーベンを、ツバキは半ば目を回しながら見やり、
「今はね……」
──と絶望したかのように呟く。
「本当にどうされたのですか。貴女らしくもない……」
怪我がないか手早く確認しながら眉を顰めるレーベンに、ツバキは「だってぇ」とチラチラとその視線をガイルへと向ける。
「これ、絶対──手合わせさせられるわ私……」
手合わせ、即ち、対人訓練。
天使達は顔を見合せ「だから?」といった風情である。
「あのガイルという者からは微塵の魔力も感じられませんから、別段能力者というわけでもないはずですがー?」
はて、と首を傾げるレーベン。
「……自分で言ってて、理解できないし、理由もさっぱりなのだけど……私、能力者ですらない師匠に、一度たりとも勝ったことがないのよ……」
真っ青な顔でカタカタと震えるツバキ。
どうやらガイルとの手合わせは彼女にとってトラウマでしかないらしい。
「師匠との手合わせは……かつてを思い返すだけで絶望しか湧いてこないわ」
彼に対する感情はルシファーやレーベンに覚えた恐怖とはまた違うもので。
恐れることもなければ、身が竦むこともない。
だけれど──負けず嫌いと自負している己が再戦の望みすら持たなくなる。ちっぽけな人間が漠然とした死を前にしているのに近い感覚。
なのだが──。
「……いえ、さすがにそれはないかと」
「悪魔にすら無謀にも突撃する貴女の方がよっぽど危険人物ですねー」
彼女の能力を間近で見たことのある天使達は全く取り合おうとすらしなかった。
「あなた達ねえ──!」
「……トラウマは、挑まないと乗り越えられませんよ」
ポツリと呟かれたレーベンの言葉に、ツバキは己の掌に目を落とした。
──確かにトラウマではある。
だが、己は今までずっと腕を磨き続けてきたはずだ。
ならば、この手の内にある刃が──、
「……錆びているはずなどない、か」
迷いを断ち切り、立ち上がるツバキ。
己を見据える弟子の姿に、ガイルは歯を見せながら凶悪な顔で笑う。
「おっしゃあ! どこからでも来やがれ、マリア!」
ツバキは己の足へと法力を叩き込み、瞬発力を生かすために体勢を低くすると、ガイルの腹の下に潜り込むように肉薄する。
辺りが薄暗いというのは影を扱う彼女にとっては利点でしかないのだ。
風を切る音と共にツバキは一瞬でガイルへと距離を詰めるが──、
「ほらよっと」
「──ぐふッッ!?」
上体を起こしながら攻勢に転じようとした彼女は、顔を上げた瞬間に頬へと裏拳を叩き込まれ、見事に横一直線に吹き飛んだ。
距離を詰める際の惰性などなんのその。圧倒的な膂力の前に、綺麗に吹き飛んだツバキは受け身を取ることすら叶わず、石床へと身を何度も打ち付ける。
「アレ、生きてますかね!?」
生存すら危ぶまれる一撃に、咄嗟にレーベンが救護へと向かおうとするが、
「邪魔だ! 回復なんざまだまだ必要ねえ!」
ガイルの剣幕に、その足をぴたりと止める。
「安心しろ。死なない程度に加減はしてある。本当にヤバくなったら知らせてやるから、それまでピヨピヨ観戦してやがれ、ケツに殻くっつけたヒヨッ子ども」
天使の筆頭を前に、ヒヨッ子と宣うガイルは、ツバキへと「とっとと立て!」と怒鳴る。
「この…よくもッ……!」
鼻と口端から垂れた血を袖で拭いながら、ツバキがゆらりと立ち上がる。
怒り心頭でガイルへと回り込むように距離を詰めたツバキは、躊躇うことなく地面に両手を突き影刃を喚び出す──前に、両手を突いている彼女はその顎へと蹴り上げを受け、紙風船の如く軽々と宙を舞った。
「遅ぇ! 能力なんざ、使えなければただの隙だって教えたろが!」
てめえ、実戦なら今で二回死んでんだぞ! と吠えるガイル。
そんな彼の実力に、シズマとレーベンはただただ驚愕するしかなかった。
「もう終いか? 七年前のてめえはもうちょい強かったが──な!」
襤褸雑巾の如く床に転がるツバキは倒れていると見せ掛けながら指で石床をなぞり、手早く鳥居紋を書き上げると、影刃による奇襲を試みる。だが、伸びたその刃はガイルへと届く前にその剛腕に振り払われ、花弁のように砕け、霧散した。
「くっ……」
肘を突きながら身を起こし、奇襲にも失敗したツバキは口から朱を垂らしながら思考を巡らせる。
──影武者は時間稼ぎにすらならないだろう。まず、喚び出すまでにまた宙を舞う羽目になるはずだ。
ならば影に沈めれば、と言いたいところではあるが、彼の化け物じみた洞察力、危険察知能力の高さの前ではそれも中々に至難の業だ。恐らくその足元を融解させるより前に、思いっきり殴り飛ばされ、そう、例えば背後の壁などに全身を打ち付ける羽目になるだろ──いや、なった。
下手に思考を巡らせるのすら愚策だったということか。