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広い歩幅で歩くヴァイスの背を小走りでツバキが追うこと約十分。
救護棟の個室の前で足を止めたヴァイスは、ツバキを背に従えるかたちで、目の前の扉を控えめに拳で叩く。
──と、来訪者が誰であるか、凡そ見当がついていたのだろう。誰何の声もなく、扉の内側から鍵が開けられた。
「御苦労だ、レーベン」
「いえ、団長こそこんなお時間までお疲れ様でございます。……って、貴女もいたのですかツバキさん。……って、えーと、何です? がっちり負傷中ですか? 貴女は私の仕事を更に増やしに来た、と?」
レーベンは制服を紅く染めたツバキが負傷していると踏んだのだろう。
実に呆れた表情で、ツバキを見下ろすレーベン。
「仕事を増やすのは嫌がらせがてら、全然してもいいところなのだけれど…残念ながらご期待に添えず全くの無傷よ、これが」
「……嘘、吐いていないでしょうね? ただでさえこの状況なのです。貴女が阿呆のような矜持や理屈で治せる怪我を黙っていたら、さすがに怒りますよ私」
レーベンは貼り付けたような笑顔でツバキの肩にポン、と手を置く。
勿論ながら貼り付けられた笑顔の、その目は全く笑ってなどいない。
「ほ、本当だから!? 悲しいかな、あれくらいの戦闘で怪我をする程ヤワに出来てはいないんですよーっと」
自分でそうは言いながらも、負傷ひとつない己の可愛げの無さが少し虚しくなったのだろう。ツバキはそんな気を紛らわすように、窓から差し込む月明かりに伸びる己の影をちょいちょいと踏む。
「レーベン、アマラの容態は」
ヴァイスの抑揚のない声音に、問われたレーベンは少しだけ微笑んだ。
「如何せん出血が酷く危険な状態が続いていましたが、なんとか持ち直してくれたみたいです。後はこのまま目覚めるまで休ませてあげれば問題ないかと」
天使達のそんなやり取りを尻目に、ツバキはアマラを気に掛けていると思わたくないのだろう。白々しく後頭部で手を組み、何食わぬ顔でアマラの眠るベッドへと近寄ると、青白い顔で昏々と眠る天使のその首元へと目を遣り──、
「ねえ、白髪男。私、明日から少し有給取っていいかしら?」
それはもう、にこやかな笑みで背後を振り返る。
入団したての彼女ではあるが時の竜騎兵は入団と同時に有給がつくため、任務にしがらみのない一般兵士である彼女は特に周囲を気にすることなく有給が取得できる。のだが。
「ダメに決まってますねー」
「駄目に決まっているだろう」
一瞬でそれを切り捨てられたツバキは納得がいかない、といった表情で上司でもある天使達を睨む。
「それはないんじゃないの!? 有給は権利! あなた達が何と言おうが──」
「何と言っても良いのだな。ではお前は一人で明日から三日ほどかけて、本部の壁の塗装が剥がれかけている場所の修繕にあたれ。緊急性も勿論ながら、高い。気もする。つまり緊急任務だな。故に、遂行が叶わなかった場合は当然、減給となるから精々キリキリ働くことだ」
「は? 減給!? 緊急性の無さが言葉から滲み出ているような任務のくせして、遂行し切れなかったら減給ですって!?」
ツバキは「横暴すぎない!?」と頬を膨らませながら、眠るアマラの蒼白い顔を、苛立ちのような失望のような、理解できない不快な感情と共にじっと見つめる。
静かに目を瞑るアマラの首筋にはくっきりと刃が食い込んだ痕が残っており、傷はかなり深そうであった。
「ねえ、乳牛がこんな状況で、福音の壁の上空は結界的に問題はないの?」
「結界に揺らぎが生じていますので問題がないと言えば嘘になりますが、まあ今のところ、魔物が結界を破ってドレストボルンに侵入したという報せは入っていませんね」
傷付き眠りながらも、尚、アマラは無意識の内にドレストボルンを護るため、結界を張り続ける。
それはきっと戦えない彼女の、七天使としての意地でもあるのだろう。
「結界が破られていないのなら、ますます問題児である私なんて不要でしょう? ねえねえ、悪いことは言わないわ。明日から少し有給ちょうだいったら。私ね、遊びに行きたい所があるの──。お土産に、そうね、乳牛を襲った下手人の首を持って来てあげてもいいわよ──?」
ツバキは冗談混じりの口調ではあるが──どうやら内心かなり激怒していたようで。
「下手人の首を持ってくる」と言い放った刹那、不穏な黒い靄が彼女の足元からゆらりと立ち昇り──、それは黒蛇へと姿を変えながら、主の身体へと這い上がり、絡みつく。
ツバキに絡み付いた黒蛇は鎌首をもたげ、今正に彼女の目の前で眠り続けている天使へ、そして有給を取らせてくれない上司へ、そして──それらの比にならないほどに、眠る天使の首を落とそうとした輩へと、主に代わり、殺気を迸らせた。
「貴方達にとって、とても憎い相手でしょう? 大丈夫よ。散々苦しめてから首は落としてあげるから。何なら方法は選ばせてあげても良──」
「ツバキ、少し落ち着──ん? 待て、今下手人の首と言ったか? お前、まさかアマラを襲撃した者に心当たりがあるのか?」
ツバキを宥めることを中断し、声に僅かに驚きを滲ませるヴァイス。
「……個人は知らないけど。組織だけなら、まあ」
ぶっきらぼうなツバキの返答に、レーベンとヴァイスは視線を一瞬交差させ──互いの言わんとすることがすぐに通じたのだろう。
レーベンは懐からニクスを呼び出すと、
「ニクス、七天使の同胞達に会議室まで来るよう伝達を」
──と、手短に指示を出す。
「えぇぇ、別に皆集めなくてもいいじゃな──」
「煩い。ほら、その物騒な蛇をさっさと仕舞って会議室に行きますよ」
ツバキのボヤきをバッサリ「煩い」の一言で斬り捨てたレーベンは、アマラの首の傷を確認しているのだろう。薄皮が張った傷口を一度指でなぞり──、
「……ああ、ツバキさん。貴女の話がまるっとガセネタだった場合は……勿論、骨折の一つや二つは覚悟しておいて下さいねー」
と、ツバキを黒い笑顔で振り返る。
「あなた、いい加減私にだけ性格悪いのどうにかしなさいよ──!?」
目尻を吊り上げるツバキの姿に、レーベンはクスリと微笑むと、再び眠るアマラを少しだけ見つめ──、
「聞いてるのこの腹黒男! 性悪! 人でなし! 天使──!」
「ハイハイ、言われなくても私は天使ですよ、ツバキさん」
「にこやかに言ってるけど、私の中で天使は最低最悪の存在って意味だか──」
「──病室ではお静かに」
ツバキを一言で黙らせたレーベンは、気持ちを落ち着けるように一度目を伏せ──、
「さあ、参りましょうか。皆が待っていますから──」
と、部屋に留まる二人の背を押し、その場を後にしたのだった。