4-2
カゲロウにローザを託し、正門前で別れて半刻ほど。
レムベルグの中央通りから少し逸れた小道に建つ、こじんまりとしたレストランに着いた女生徒は、それはもう目をキラキラさせながら、彼女に半ば引き摺られる形でレストランを訪れた、メニュー表を持つツバキをじっと見つめていた。
見つめられると穴が空く、という言葉がなんとなくだが理解できた気がする。そんなことを思いながら、ツバキは己の顔をメニュー表で、女生徒の視線から半分ほど隠した。
「……そんなに見つめられても何も出ないのだけれど。というか今更すぎるけれど、同じ学級だったかしら?」
ツバキはクラスメイトの顔と名前をほとんど覚えておらず、目の前の女生徒がクラスにいたか、記憶を辿るが、脳裡に浮かべる教室の風景は曇りガラスから見える景色のようにぼんやりとしたもので。
つまり、ツバキの記憶の中に彼女は、いた、ような、いなかった、ような、どちらと答えられても「ああ、そうだった」と納得してしまうような存在だった。
「あ! ごうぇ、ごめんなさい、わ、その、わたし、エルマ・バーダーといいます。そ、その、ミツルギさんの隣のクラスで……あの……!」
「わかった、わかったから落ち着いて話して」
頭に浮かぶ言葉に、舌がついて行かないのだろう。女生徒──エルマは何者かに背を追われているかのように途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
「あ、す、すみません! ……え、えっと、ミツルギさんって、怖い人だって聞いてたから、その……、友達のいない、花壇の土を這うダンゴムシみたいに目立たない私なんかに話し掛けてくれる日が来るなんて夢にも思ってなくて……」
独特な喩えで己を自虐するエルマは再び感激したような瞳でツバキを見つめる。
メニュー表を貫通しかねない熱い視線に、ツバキは居心地が悪そうに視線をあちらこちらへと彷徨わせ──、
「何よこの無駄に緊張する時間は……」
──と、小さくボヤく。
「私、落ちこぼれだから……パレードには参加しなかったんですけどね、パレードの翌日、学園の青空教室で、皆が口々にミツルギさんと喋る猫さんが魔物に挑んでいた時の武勇伝を話してて……すごいなって。とても同じ学年とは思えない、それこそ雲の上の人なんだって思ってたんです」
武勇伝とは恐らく学園で、悪魔アスタロトと一戦を交えた時のことだろう。
アスタロトは悪魔であり魔物ではないのだが、時の竜騎兵が事件後、伝説上の災厄である悪魔出現による民衆の余計な混乱を防ぐ為、彼らへの説明ではアスタロトは魔導書に封じられていたものの、悪魔ではなく、遙か昔に封じられた凶悪な魔物だったということで話を落ち着けたらしい。
それでも一時の間、民衆は不穏にざわつき、市場の商品の相場が高騰したかと思えば根も葉もない噂に急に暴落したり、と経済に深刻な影響が生じた。
民には真実だけを語れば良いというものではない、と執務室でヴァイスがシズマを相手に苦々し気にそう零していたのを、始末書を提出しに執務室を訪った際にたまたま耳にしたことをツバキはチラリと思い出す。
「しばらくの間、学園はずっとミツルギさんの武勇伝で沸いていましたから、友達のいない私の耳にも、自然とたくさんミツルギさんの噂が入って来て……」
エルマはそう語りながら、まさかその視線を独り占めできるとは思ってもいなかったのだろう、噂の人──ツバキを、宝石を前にした婦人のような表情でうっとりと眺める。
「ふーん? 私を毛嫌いするあの連中が私の、一体どんな武勇伝を語るって?」
どうせまた、くだらない悪口、虚言の類だろう。
ツバキが冷めた目でボヤいたその瞬間、エルマは顔を引き締めると、目の前のテーブルをバン、と両手で叩きながら立ち上がり、次いで己が両の拳をぐっと握り締めた。
「──音に漏れ聞くは怪力無双! 大岩抱えて投げ飛ばし、空飛ぶ魔物を地に撃ち落とし、落ちた魔物を抱えてバックドロップ!」
──刹那、ツバキは口に流し込んでいた紅茶を盛大に吹き出した。
「はい!? なんなのそれ!?」
何やら、学園(の噂)が、大変なことに、なっている。
噎せ込むツバキ──と、テーブルを挟んだその向かいで、エルマの熱弁は続く。
「周囲に毒吐く魔物に堂々と『所詮はその程度の毒。私が学園で吐く毒は貴様の千倍よ』と告げ、更には逃げ出す魔物に『私こそが魔王だ!』と声高らかに宣告したのだとか!」
どうして、そうなった!
噂に謎の尾ひれが。更には尾ひれの上に、これでもかというほどの豪奢な羽ひれが付き、一人歩きする噂はとんでもないことになっていた。まあ英雄譚とはそうしたものなのかもしれないが。
しかしながら英雄譚にするには噂の一部に教師や生徒の悲哀が混じってしまっており、己の学園での素行を少しだけ反省するツバキ。
「更には口から黒い鎌を射出し──」「もういい! もういい! 充分よ!」
ツバキの制止に、えー、と口を尖らせるエルマ。
「目を輝かせているところ悪いけれど、それ九割九分九厘、事実無根だから。……あの一戦においてはシグレや白髪男がいなければ、毒から皆を護ることなんて到底できなかった。私は戦いこそはしたけれど、例えアレにその場で勝っていたとしても、天使どもがいなければ皆、今頃生きてはいなかった。だから武勇伝なんかにできるようなことは何もしていないのよ、私は」
ツバキは先の戦い以来も、自信家であるところは微塵も変わってはいないのだが、天使達に対する態度は、最初に比べればであるが、少しだけ丸くなっていた。
その僅かな心境の変化は、先の戦いに於いて民間人を護り抜いた彼らの強さを認めたが故であり、また、少しだけではあるが、彼らの人となりが理解出来始めたが故でもある。
「ま、だからといって──」
刹那、ツバキの口がはたと止まった。
彼女は周囲に一瞬で視線を走らせ──一つの確信を得る。
「狙われているわ、ね──」
「え?」
それは瞬く間の出来事だった。
ツバキは己の背後の席へと何食わぬ顔で座ろうとした男の頭へと、近場を歩いていたウェイトレスの盆の上から失敬したビーフシチューをぶっ掛けたのだ。
「うぎゃああぁぁ!」
服の裾に熱々のビーフシチューが流れ込んできた男から野太い悲鳴が上がる。
大火傷間違いなしの絶叫する男に周囲の注意が一瞬向いたのを、ツバキは見逃さなかった。
「こっち!」
一瞬の出来事に、ぽかん、としているエルマの手を掴むと、ツバキは通路を塞ごうと現れた、別の男の腹へと爪先をめり込ませ、蹲らせると、その横をすり抜け建物の外へと猛然と駆け出す。
レストランの外は至って普通の往来だった。
「はいはい。レストランの外は至って普通の往来──なわけがないでしょう! この低能暗殺者風情が!」
ひたり、と明らかに足音を消し、雑多に紛れて近づいてくる男の頬に回し蹴りをお見舞いし、ツバキはエルマの手を引きながら、路地裏へと駆け込む。
「悪かったわね! 巻き込んで!」
路地を駆けながら、掴んだ手の先にいるエルマを見返るツバキ。
暗殺者に追われているのだ。命の保証などどこにもなく、怖くない筈がないのだ。が──、
「ま……間違いないわ……エルマの、王子様……!」
「は?」
エルマは己の手を引くツバキを、白馬に乗った王子に向ける街娘の目でそれはもうキラキラと見つめていた。
恐ろしいことに、恋する乙女の前には恐怖など──なかった。
「ミツルギさ……様ー! 私、こわいですー!」
明らかに恐れの微塵も浮いていない、ただうっとりとした表情で背に飛び付い──否、組み付いてくるエルマに、
「いや、暗殺者なんかよりあなたの方がよっぽど怖いわよ!?」
──と、ツバキは進行方向に置いてあった廃材の影から飛び出してきた男の横っ面へと、近場に立ててあった細長いツボを足に引っ掛け、遠心力を利用して叩き付ける。
暗殺者に襲われた際に路地裏に逃げ込むのは愚策──早いが話、袋の鼠なのだが、それは裏を返せば相手が襲って来られる場所も粗方限られている、ということでもあるのだ。
路地裏を駆けずり回る内に、袋小路へと飛び込んでしまったツバキは行き止まりの壁を背に、その壁と己の背との間にエルマを押し込んだ。
すると、彼女を追い込んだと確信したのだろう。物陰からわらわらと黒いローブに身を包んだ暗殺者達が次々にその姿を現す。
ツバキはそれを酷薄に見やり、次いで口端だけを吊り上げた。
「言っておくけれど、追い込まれたのは私じゃなくて、あなた達よ。……夕暮れ時に影法師を襲おうなんて、百一年早いのよ!」
声もなく、一斉にツバキに飛び掛かる暗殺者達だったが、如何せん相手が悪かった。
狭い路地裏で、彼らの影は地と壁の境で折れ曲がり、くねるように壁へと映り──。
トン、と白磁の指先で、レンガの壁に交差する男達の影を叩くツバキ。
刹那、縦横無尽に伸びる影から、数多の漆黒の刃がずぶりと突き出すようにその形を顕にし──ツバキへと襲い掛かる男達の腕や腿を軽々と貫いた。
「ぐあッッ!」
「あがぁァ!?」
あちこちから負傷した男達の絶叫と血臭が上がる。が、誰一人としてその刃にて命を落とす者はおらず。
彼等の負った傷はすべからく致命傷ではなく、重傷の括りには収まる程度のものであり、それは幸運でもまぐれでもなく、一般人であるエルマが見ているため、ツバキが彼等を殺めることはしなかったという、ただそれだけのことであった。
だが、重傷である以上、その負わせた傷は非常に深く、これから彼等が後遺症に苦しむことになるのはまず間違いない。
殺めこそしないものの、彼等が二度と暗殺業界に戻れないよう──ひいては自らの敵として二度と立ち塞がることのできないよう画策するツバキの、峰打ちと呼ぶには些か物騒すぎる一撃に、辺りは地を染める斑朱と苦痛の呻きのみが景色を織り成す、簡易的な地獄と化した。
しかし、単純かつ現在脳内がお花畑なエルマには、
「ステキ……! カッコいい……!」
襲われたにも関わらず、その命を奪うことはない。それだけでツバキは心優しい物語の王子様なのであり、正義なのだった。
そんなお花畑を尻目に、ツバキは奥歯を噛み締めながら、独り心の中で迷っていた。
彼女──エルマの見ている手前、血生臭いものを一般人である彼女に見せるのが何となく躊躇われ、彼らを殺すことはしなかった。だが、この状態で生かされる。それが彼らにとって良いことでは決してなく。
暗殺業界に戻れない暗殺者には死あるのみ。今ここで重傷を負った彼らを生かしておくのは、彼らの苦しみと恐怖を長引かせるだけのことでしかない。
それをよく理解しているからだろう。逡巡するツバキの指が何度かピクリと、影刃を喚び出そうか迷っているのだろう、宙と壁に伸びる影の間で揺れた。
「あなた達! 心優しいミツルギ様に感謝して、これからは真っ当に生きることね!」
ツバキの迷いなど知るはずもなく、暗殺者達がこれからどうなるかなども、勿論ながら知るはずもないエルマはただ嬉々としている。
「エルマ……行くわよ」
結局ツバキは彼らにとどめを刺すことなく、窮鼠である彼らの動向に細心の注意を払いつつ、倒れ伏した刺客の間を、エルマを連れ、歩き出す。
──万一上手く生き延びたところで真っ当な職に就ける可能性は限りなく低い。
真っ当な職に就けぬ、もしくは就く機会を奪われたからこそ、彼らは生きる為に暗殺者などに成り下がったのだから。
ツバキはその事実に唇を噛む。
「生き残って一人……普通に考えたら……全滅ね」
「え? ミツルギ様、何か言いましたか!?」
ツバキは「何も」と短く答え、血塗れの路地を後にした。
きっと、彼らは色々な業界情報を持っている為、この後、違う暗殺者達に始末されるだろう。
本当に運良く生き延びたとしても、次に待つのは、いつ次の刺客が来るのかと怯えながら、餓えと闘う日々だ。
商売や農耕などの知識は殆ど持たず、暗殺に関する技術しか持っていない。そんな、一般人としては無能な彼ら。ただでさえ眉を顰められる存在であるというのに、人を襲おうとして返り討ちに遭った、自業自得の果てに傷付いた彼らを世間が受け入れるはずもなく。
「あの場でにおいては、殺すが情け……だけど──」
ツバキはチラリと背後の少女を見やる。
人間として破綻した道を突き進んだ彼らと、まだ未来の分からぬ少女。
彼女が選んだのは、数多の苦痛よりも、ただ一人の、まだ何色にも染まることのできる可能性だった。
しばらく歩き、ようやく大通りに出たツバキは、緊張を解すように大きく息を吐いた。が、肩の力を抜いたのは彼女だけで、返り血を浴びて頬や白服を紅く染めるツバキを目の当たりにした街行く人々は、警戒を解いた彼女とは逆に危険を察知し、警戒の色をその顔に貼り付けながら彼女からそそくさと離れ、距離を取る。
「理解されない王子様……それを温かく受け入れ、信じ続けるたった一人の街娘……」
「ん? 何か言ったかしら?」
一人、物語の中に突入しているエルマのぶっ飛んだ言葉が、耳に言語として入らなかったのだろう。ツバキは首を傾げている。
「まあいいわ。ほら、今回の件は多分間違いなく私のせいだろうし、万一のことがあってもいけないから今日は家まで送って行くわよ。……ま、紅茶一杯踏み倒せたと思えば、悪くない食事だったわ」
どうやら彼女はレストランでの紅茶代をちゃっかり踏み倒す気のようだ。彼女の本音を言えば、暗殺者達の血涙を搾ったような形になってしまった紅茶など、泥水にも劣る味なのだが、そこは彼女なりの、不器用な気遣いというやつだろう。
差し出されたツバキの掌をぎゅっと握り締めながら、エルマは胸を高鳴らせ、己に言い聞かせるように小さく呟く。
「紳士的なエスコート……身分違いの恋………! 最後はきっと雪降る夜に二人で寄り添いながら、教会の神様の前で愛の誓いを果たすのよ……!」
「え? 身分違いの鯉? 最後は雪降る夜に鏡海のカニミソの前で互い違いの果たし合い?」
喧騒の中、耳に拾えた単語のみで、脳内で話の流れをなんとなく構築するツバキだが、残念なことに微塵も掠ってすらいない。
「えーと、身分違いの鯉の果し合い……ってことはつまり、下剋上……?」
ツバキは頭の中で、戦う似鯉と錦鯉の構図を浮かべ「なんか、大変そうね」と呟いた。
結局、エルマを自宅まで送り届け──たが最後。夕飯を共にするまで帰らせない、と気迫からも伝わる一家に気圧されるように彼女の家で夕食を摂るハメになったツバキ。
食事中は何故かずっと一日のタイムスケジュールを事細かにエルマに聞かれ、そのまま流れで「ぜひお泊まりを」となり、全力で縋り付いてくるエルマをなんとか振り切った彼女が、時の竜騎兵へと逃げ帰った時には、時計は既に二十三時を回っていた。