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ガサガサと音を立てる紙袋に、ツバキはぱっと顔を輝かせ──、
「仕事が早いじゃない。さすが執事!」
──と、珍しく素直にアスタロトを褒めちぎりながら、彼へと──正確にはその手に持つ紙袋へと駆け寄る。
「ふんふんふん……色、艶、香り、全て申し分なし、と……」
そのまま紙袋を覗き込み、ツバキはその中身である色とりどりの果物をじっくりと時間をかけて確認し──、やおら満足そうに彼女は顔を上げた。
「完璧よ。これなら大貴族のお嬢様に贈っても微塵も差し支えないわ」
完璧完璧と何度も口にする、ご機嫌な主の顔を見下ろすアスタロトは、主に喜ばれたことが中々に嬉しかったのだろう。彼は緩む頬を何とか引き締め、目の前の艶やかな濡れ鴉を一度くしゃりと撫でる。
「そりゃあ良かった。じゃあ早いとこ行ってきたらどうだ?」
「ええ、そうするわ。……あ、そうだ。そこな腹黒天使、うちの庭、使いたいのでしょう? 私はもう行くから、好きに使えばいいわ」
ツバキは、アスタロトの言葉に同意するが早いか、くるりと踵を返す──寸前に、レーベンへと修練所を明け渡した。
「おや、いいんですかー?」
「構わないわ。私はこれからローザの見舞いに行くし、それに──これからの時間は私にとっては鬼門だから」
レーベンは修練所からでもハッキリと見える、時の竜騎兵のシンボルである巨大な時計塔へと目を向け──何かを納得したかのような表情を浮かべる。
時刻は十時半を越えた頃であり、それは丁度、正午に向けて徐々に影が短くなっていく、影を扱う影法師である彼女にとっては鬼門の時刻に差し掛かっていた。
「ツバキさん、貴女が素直に従うとは到底思えませんけど──」
悪魔を連れ、立ち去る濡れ鴉の背中に、愛馬の鬣を撫でながら、レーベンが声を掛ける。
「万一ということもあります。あまりお一人で鍛練はなさら──」「──断るわ」
──最後まで聞くこともなく、返ってきたのは即答で。
レーベンは布の上層までじわじわと出血で汚染してきた己の手に巻かれた布をチラリと見やり、その想像通りの返答に小さくため息を吐いた。
そんな彼をもう振り返ることもなく、主従は足早に修練所から立ち去り──その背を見送った後、修練所に一人残されたレーベンは、足元の草を食み始めたアメリの傍に座り込むと、愛馬へと困ったように微笑みかける。
「とりあえず、惨事だけは免れたようですね……」
救護部隊の長という立場上、レーベンは魔物との戦闘に明け暮れ、身も心も磨り減らす兵士達の肉体面だけでなく、精神面のケアもまた仕事の一環としており、そんな職業柄ゆえ、彼は他人の心の機微に人一倍敏感であった。
レーベンは憂いを帯びた顔つきで、吹き抜ける生温い風に、再び小さなため息を乗せる。
「……アメリ、賢い貴女のことです。気付いているとは思いますが……ここに来る口実に貴女を使って、本当にすみませんでした」
どうやら彼が今回この寂れた修練所を訪れたのは偶然でも、愛馬の放牧の為でもなかったようで。
アメリはそんな主の様子を、つぶらな瞳で穏やかに見つめながら「分かっている」と言わんばかりに、ぶるりと一度鼻を鳴らす。
「朝方、彼女を見かけて本当に良かった……」
──朝方、それは本当に偶然だった。本部の正面門で、ヴァイセンベルガー家の令嬢に変化した黒猫を送り出している黒髪の少女をたまたま見かけたのは。
いつもであれば取り立てて気にすることもない。平和な日常を切り取ったかのような、そんな穏やかな光景だった。──のだが。
「あの時、彼女がこちらを視認していたかは知りませんが……」
──黒猫を送り出し自室へと戻ろうとする彼女が、振り向き様に一瞬垣間見せた、愁いとも焦燥ともつかぬ表情に、言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
「職業柄、悲しいかな、自分の予感も中々バカにはできなくて」
レーベンは己の艶やかな藍髪をくしゃりと右手で掻き上げるようにしながら、流れるような動作でそのまま己の額を押さえる。
「予感、というか、言い様のない漠然とした不安という方が近いでしょうか……。例えるなら──」
──そう、例えるなら、戦地で命を落としていった部下達の、出撃前の姿を見た時に覚える、何とも言い表せぬ不安にとてもよく似ていて。
「ですが……」
──戦前ならともかく、平時である以上、そうそう命の危険などないはずだと己に言い聞かせ、結局その場で彼女に声を掛けることはしなかった。
「まあその後、時の竜騎兵切ってのトラブルメーカーである彼女が、午前中どこでも騒ぎを起こしていないと部下から聞いた時には、さすがに肝を冷やしました」
──最悪の事態も想定し、急いで物置小屋を訪なうも彼女はおらず、必死に本部中を探し回るも、やはり探し人の姿は見えず。
結局、ペガサスに乗り上空から広範囲を捜索し、ようやく見つけた彼女がいた場所、それは──最初に彼女を探しに来たはずのこの修練所。一人鍛練に励むその姿を見つけた時は文句の一つ、嫌味の一つも言いたくなったのだが、すぐに己の予感は遠からずも近からず、といったところに的中することとなった。
「無理からぬことではありますが、やはり彼女でも思い詰めたり、焦りを覚えたりするのですね……」
俯きがちに呟くレーベン。──と、彼が自身の額に当てた指の隙間から艶やかな藍髪がはらりと零れ落ち、陽光にキラキラと煌めく。
その直後、零れた藍髪の隙間から覗く形の良い唇が一瞬、戦慄くように震えた。
「……アメリ、私は平静を保っていられているでしょうか? 七天使らしく、そして救護部隊長らしく在れているでしょうか?」
焦る者、思い詰める者。──それはツバキに限ったことではない。
魔王の存在が隊内に知れ渡ってからというもの、兵士達が精神的に不調を訴えることが多くなってきており、いつ再び悪魔が現れるのか、皆、口にしないだけで相当の緊張と不安を抱えて日々を過ごしていることは明らかで。
時の竜騎兵の幹部格である七天使達は、そこは天使の筆頭ということもあり、兵士達の不安を少しでも煽らないよう、悪魔が現れる前と何ら変わりないように振る舞ってはいるが──。
「魔王の存在が認知されてからというもの、皆、一般兵に気取られぬよう、気遣ってはいるようですが、元から多い修練時間が輪をかけて増えています。それに、七天使の同胞同士の前では、表情を曇らせることも多くなっていますし……」
レーベンは七天使の同胞達の心労を案じているのだろう。その心労を我がことのように思い、曇らせた顔に、アメリがそっと鼻先を寄せる。
「我々ですら、そんな状況なのです。魔王ルシファーに物理的に心臓を握られているツバキさんの精神的疲労と焦燥がどれ程のものか……私には推し量ることもできません」
もしかしたら明日にでも、魔物を従えた悪魔がドレストボルンへと侵攻してくるかもしれない。悪魔を従えた魔王が侵攻してくるかもしれない。
明日の運命が分からないというのは、ドレストボルンに住まう人は皆同じなのだ──が、ツバキはかつて魔王に挑み、敗北した際に、己の核たり得る心臓を魔王に奪われており、その『もしかしたら』が起こった際には知らず知らずのうちに魔王の傀儡と化し、魔王の侵攻に加担してしまうかもしれないという、人類にとっての敵になり得る可能性を持ってしまっていた。
自身の核を魔王に握られている以上、ツバキは今持っている己の意思が本当に己のものなのか、はたまた魔王のものなのか判別がつかないのだ。
自分の皮を被った魔王が、己の顔で、己の手で、そして『己の意思』で大切なものを全て壊すかもしれない。己の護り続けて来た全てを無に帰すかもしれない。
彼女がその恐怖と不安から永遠に決別するためには魔王を討伐するより他はなく。
「全く……。鍛錬をするなとは言いませんけど、せめて人目に付く場所でやってもらいたいものですねー」
ゆっくりと顔を上げたレーベンは目の前の愛馬の脚に付いていた、抜けた愛馬の芦色の羽根をつまむと、指でくるくるとそれを回す。
しばらくそうして羽根を回していたレーベンだったが、ふいに回していた羽根に息を吹き掛け、それを宙へと飛ばすと──己の懐からひょっこり顔を出した妖精ニクスへと視線を落とした。
雄の妖精をニクス、雌の妖精をニクシー。彼等は雌雄ともに、緑色のとんがり帽子を被り、赤く吊り上がった大きな目を持つ、土着の妖精である。
彼等のその、特殊な音波を発し、声や音を分解、構築することが出来るという、本来は遠く離れた仲間の妖精達と意志疎通を図るために使用していた能力を、時の竜騎兵では兵士達の伝令に利用しているのだ。
レーベンの隊服の懐から顔を出したニクスはパサついた金髪の小さな頭を何度か横に振り、周囲に目を遣ると、その背に生えた虫のような羽を羽ばたかせながら懐から飛び出し──、
『レーベン。至急、第二都市オスナブガルトへ向かえ。支部が壁外で何か妙なものを見つけたらしい──』
──と、仲間の妖精から音波として送られてきたヴァイスの声を音波から再び人語へと構築し直し、レーベンへと伝達した。
「第二支部、ですか。……ニクス、団長へ了解しましたと伝えて下さい」
少しだけ何かを考える素振りを見せたレーベンだったが、すぐに立ち上がり、ヴァイスへと返事をすると、愛馬の背を何度か軽く叩く。
「アメリ、休憩は終わりのようです。……第二都市オスナブガルトへ急ぎ向かいましょう」
レーベンの言葉の意味を利口なペガサスは何とはなしに理解したのだろう、草を食むのを止め、アメリは一度嘶くと、すぐに主をその背に乗せ空へと舞い上がる。
芦毛のペガサスに乗った天使が立ち去った修練所では、ペガサスに半分食まれた、まだ葉の残る草花の茎がそよそよと風に揺らいでいた。