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大海を往く鮫に智慧は要らぬ。ただ腸さえあればよい。
頽廃を往く人形にも知恵は要らぬ。ただ綿さえあれば──それでよい。
一 初夏来たる
広大な平野の一角に、古びた時計塔を中心とした、円状に広がる城塞都市がひとつ。
その城塞都市をぐるりと円環状に囲む、福音の壁と呼ばれる七層の壁は、人に害成す魔物と人間の生活圏を隔て分けるものである。
都市の中央から最外壁まで、波紋のように聳える七層の壁の内側は、それぞれの円環内ごとに気候風土が異なっており、人々に様々な恵みや試練をもたらしている。そんな七層の壁の最も中央。第一都市レムベルグは全都市の人類存亡を懸けた、怒濤の春を乗り越え、初夏を迎え始めていた。
夜風には夏の熱気が微かに混じりながらも、未だ春宵の、仄かに花の香が舞う、暑くもなければ、肌寒くもない。──そんな、夜間の散歩に最適な、とある夜。
夜と一口に言っても、それは夜もとっぷり更けた、深夜の二時も過ぎた頃のことだ。夜風に巻かれながら一組の男女が、レンガで路が舗装されている、レムベルグの中央通りから少し脇に逸れた小路の路地裏を歩いていた。
女は白のブラウスに膝丈程の黒いプリーツスカート、と季節に応じた街娘の服装であるのに対し、男は白いカッターシャツの上に、質の良さげな黒いベストを重ね、黒いズボンの下にはぴかぴかの黒い革靴を履いているという、どこからどう見ても絵に描いた『執事』の装いそのものである。
そんな珍妙な組み合わせの男女二人の足取りは、ともすればこれから屠殺場へと連れて行かれる家畜かのように、ただただ重い。
その摺り足気味な足取りからだけでも、彼らが優雅な夜の散歩を決め込んでいる訳ではないことは、どう傍目に見ても明白だった。
しばらく沈黙したまま足を進めていた二人であったが、路地裏も出る頃になって、ようやく執事姿の男が苦々し気に口を開く。
「……見事に、ダメだったな」
「ええそうね。ダメだったわね──じゃないわよ!?」
ため息混じりに、男の言葉に同意した──かに思われたその女は、その顔に浮かぶ苛立ちを隠そうともせず、灰掛かった藍色の癖のあるボブショートに真紅の双眸、そして浅黒い肌を持つ、隣の男の胸ぐらを片手で掴み、己の方へと引き寄せると、ガクガクと激しく、その手を揺さぶる。
「ちょっと!? あなたのせいでとんでもない被害被ったのだけれど!? どうしてくれるのよ!」
「どうもこうもねえって! 最初に言っただろ! 俺様は今やただのイケメンパンピー男でしかないんだって!」
自称イケメンパンピー男こと、悪魔アスタロトは己の胸ぐらを憤然と掴む、濡れ鴉の黒髪に黒曜の瞳。そして白磁の肌を持つ、名工の手掛けた人形のような美貌の少女──ツバキ・ミツルギへと両手を挙げ、降参のポーズを取った──が、彼女の怒りが収まる気配は微塵もなく。
「黙りなさい、この黒焦げ詐欺師! 私、ちょっとの下心があってあなたを助けたっていうのに、これじゃあ話が違うわよ!」
騙された、と言わんばかりに轟々と吠えるツバキと、その怒りの矛先にいる彼──アスタロトは、かつては互いに命を狙う敵同士であったが、最終的には敗北した彼の助命をツバキが嘆願し、それが公に認められたことにより、彼はなんとか死を免れた。──という少しばかり特殊な経緯を持つ。
「過去と未来を視通せる。それだけが唯一の取り柄だったくせに、今や未来も過去も、両方まとめて全く視られません、ですって!? 変化能力を掠め取られたカゲロウといい、あなたといい、何を考えてるのよ本当に!」
かつては悪魔として未来と過去を視通す能力を持っていたアスタロトであったが、死の間際に人間の体に転生してしまった彼は、どうやらその能力をまるっと失ってしまったらしい。
──因みに、そんな彼と名を並べられたカゲロウもまた、アスタロトと同じく悪魔であり、その真名はバアル。かつては魔物の軍団を六十六率いる、悪魔の王国の東方を治める大王だった──彼なのだが。
こちらの悪魔もなんとまた、やんごとなき理由により、己の固有能力である変化能力を一部行使できなくなっていた。
カゲロウという名は悪魔バアルにツバキがつけた愛称である。
「バアルと一緒にしないでくれよー。俺様はただ休養期間ってだけだ。能力を魔王ルシファーに、文字通り掠め取られたバアルと違って、俺様はなに、ざっと三百年もありゃ元の能力をバッチリ行使できるようになるからよ」
悪魔は総じて長命のため、アスタロトは何でもないことのようにそうサラリと言ってのけるが、真っ当な人間にはそんな期間を待っていられるはずもなく。
「ほんっっと、使えない! ああもう、ようやく魔王討伐の一路が見えたと思ったのに……」
ツバキは全身全霊の力を込めた声でそう吐き捨てたかと思うと、掴んだベストに縋り、よよよ、と泣き崩れんばかりの体に様変わりする。
「大体嬢ちゃん、アンタも大概だかんな!?」
「なによ!? 私の何が悪いっていうのよ!」
夜間の路地裏で、近隣の迷惑を顧みず、ギャンギャンと吠えるツバキ。
「嬢ちゃん、悪いこたぁ言わねぇ。もうギャンブルは金輪際、やめた方が身のためだわ。なんたってアンタ、壊滅的にギャンブルに向いてねぇもん」
アスタロトの言葉に、賭け事大好き『借金あるなら賭博で稼いで返そう』系の、ダメ人間ツバキは敵意も顕に、己を諌める彼をその黒曜の瞳で睨む。
「賭博を二度とするな……つまり、それは私から腕を捥ぐということね?」
「いやいや、落ち着け。誰もそんなコトは微塵も言ってねえだろ!?」
「いい? アスタロト、賭博ってのは詰まるところ、誰かが得をし損をする。言ってしまえば誰にでも勝ちの目のある──そう、確率の問題なのよ! この白服、つまりレムベルグ第一学園の首席である私の頭脳にかかれば、その確率を上げることくらい造作も──」
ツバキが言い切るより前に、アスタロトは己の胸ぐらを掴む彼女の両腕を掴み、ベストから引っ剥がすと「コレ」と、己のポケットから銀貨を五枚取り出した。
「ん? 何よ五枚も十マークなんか出して」
マークとはドレストボルン共通の通貨の単位である。
アスタロトは無言で銀貨を五枚全て、親指で宙に弾き──そのまま重力に引かれ、くるくると回転しながら落ちてきたそれらをパシリ、とその手で握り込む。
「ほら。この五枚の銀貨。選択肢一は全てが表、もしくは全てが裏。選択肢二は、表と裏が入り交じっている。……当てられたらこの銀貨、全部やるよ」
ずい、と突き出された拳に、ツバキはニンマリと勝ち誇った笑みを浮かべる。
「そんなだから、あなたはカゲロウにアホタロトなんて呼ばれるのよ。一応説明しておいてあげるけれど……硬貨が五枚ということはそもそも、出目は三十二通りもあるのよ? その全てが表か裏で出る確率はその内の二通りしかないの。この状況で選ぶ答えなんて、一つしかないでしょう?」
「さいざんすか。はい、じゃあオープン、と」
ばっと開いたアスタロトの掌には、全て裏模様の銀貨が五枚。
その結果に、ツバキが一瞬目に見えて固まった。──が、しばらくするとその肩と拳がじわじわと震えだす。
「な、なんでよ!? い、イカサマしてるんじゃないの!? この焦げ炭詐欺師!」
インチキ紛いのことなど何もしていないというのに、アスタロトは理不尽にも、彼女の中で、黒焦げ詐欺師から焦げ炭詐欺師に格下げされた。
「アホか。なんで俺様が五十マーク程度の金額で、こんなチンケなイカサマしなきゃなんねえんだよ。己が不運の星巡りを人の所為にしてないで素直に認めろ」
「いや、そんなこと認めろって言われても……」
素直に受け入れられないことだって、世の中には多々ある。
それが万人に平等であってしかるべきことならば、尚更であろう。
「言っとくけどな、嬢ちゃん、アンタは絶望的なまでに運がねえぞ。俺達悪魔を二匹も背負い込むハメになった時点で己の運の悪さに気付くべきだったな。……まあある意味? 考え様によっては一周まわって幸運かもしれんが……」
──と、気付かなくても良いことに気付いたらしく、一人納得したように手槌を打つアスタロト。
ツバキは「私が一体何をしたっていうのよ……」と地を這うような声でボヤくも、残念なことにその言葉はアスタロトによって一刀両断された。
「何したって……そりゃあアレコレやらかしてるだろ? 主に過去とか往年とか昔とかに」
『過去』をやたらと強調するアスタロトの言葉に、悲しいかな、心当たりしかないツバキ。というのも、彼女はその昔、故郷を己の能力で滅ぼすという途方もない事件を引き起こした身なのだ。故に、彼の言葉にぐうの音も出ない彼女はただただ口をパクパクと開閉させるしかなく──。
「ほら、酸欠の魚みてえに口動かしてないで帰るぞ。バアルも首を長くして待ってるだろうしな」
アスタロトに腕を引かれ、不承不承ながら止めていた足を動かし始めるツバキ。
彼女達が現在住まうのは、城塞都市ドレストボルンを魔物の脅威から守護するために結成された、第一都市レムベルグに拠点本部を置く組織、時の竜騎兵の中央本部である。
相棒カゲロウが待っているであろう本部へと戻るべく、重い足を進めるツバキは、満天の星々が煌めく夜空に、光翼の軌跡を描きながら翔けてゆく天使をふとその視界に収めた。
天使とは、時の竜騎兵に所属する兵士達を纏める幹部であり、彼ら天使の上には更に、組織の筆頭幹部である七天使なる者達が存在する。
「夜間巡回かしら。ご苦労なことねぇ」
既に空の彼方へと消えた天使の、夜空の闇へと溶けゆく光の軌跡を見上げたまま、視線を戻さないツバキの腕を少しだけ強くアスタロトが引く。
「はいはい、そんな催促されなくても分かっているわよ。カゲロウが待っているから早く帰れって言うのでしょう?」
「そうだ。分かってんなら立ち止まってないでとっとと行くぞ」
留守番をしているカゲロウを慮り、少しだけ帰路を急ぐアスタロトとツバキだったが、二人の心配は杞憂だったようで、彼等の心配の源はツバキが寝室と定めている部屋の、彼女の布団の上で、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。