第1話 森村柚希
「お疲れさまです」
部室に入ると、主将の守くんとマネージャーの菜実が興奮した様子で話していた。きっと、来週の新入部員の顔合わせ会のことだろう。
私に気づいた菜実が、満面の笑みを浮かべて叫ぶ。
「柚希、大ニュースよ!義経が入部するって!」
菜実と私は剣道部のマネージャー四年目。残念なことに、うちの剣道部は弱小だ。強いのは守くんだけ。だから新入部員に期待するしかない状況なのだ。
そんな剣道部に義経が入部だなんて、こんな心強いことがあるのだろうか。いや、そんなできすぎた話があるわけがない。何かの間違いだろう。
「あの東条和哉が、この大学だったとはな。さっき、学食でスカウトしてきたところだ」
守くんが得意気に鼻を鳴らし、耳を疑うようなことを言い出した。
東条和哉というのは、去年の関東大会で話題になった高校生。
文句の付けどころのない完璧な試合で勝ち進み、全国大会での優勝も期待されていた。それが、大会の直後に怪我をしてしまい、まさかの全国大会欠場。あの頃はかなり騒がれたものだった。
そんな有名人が、本当に入部するのだろうか。
「で、義経ってなんだ?」
守くんが不思議そうに聞く。
義経というのは、私がつけたあだ名だ。去年の関東大会で私は東条和哉の試合を見た。菜実の弟が出場するというので、二人で応援に行ってきたのだ。
身軽で無駄のない動き、そして素早い身のこなし。それを見て私は、鳥肌が立った。その姿は、源義経が重なって見えるほどの衝撃だった。
一通り菜実が説明し終わると、守くんはうんうんと頷きながら言う。
「柚希は相変わらず武将オタクだなー。俺も、源義経は知ってるぞ」
「当たり前よ。小学校で習ったんだから。何をした人だか、もちろん知ってるわよね」
菜実が呆れた様子で聞くと、守くんは自信満々に答える。
「義経と言えば弁慶だろ。それぐらい知ってるに決まってるだろ」
「それだけ?あんた、今まで何を勉強してきたのよ」
「なんだと!史学科だからって偉そうに言うなよ」
「史学科じゃなくたって、誰だって知ってるわよ。守って、ほんとバカね」
「バカとはなんだ!」
守くんと菜実がいつものように言い合いをしているのを見ながら、私は心ここにあらず状態だ。
本当に入部するんだ……。
心臓がバクバクしていて苦しい。
「義経ってかっこいいからモテモテだろうねー。彼女いるのかな?いなかったら、私、立候補しちゃう!」
また始まった。菜実は気に入った人を見つけると一直線だ。これはまた一騒動起こるかもしれない。
溜息をついていたら、部室のドアをノックする音が聞こえた。
「あのー、すみません。この前見学に来た白河百合華です」
開いたドアの脇から、女の子が顔を出した。色白で綺麗な子。まるでフランス人形のようだ。
「マネージャー、やっぱりやってみようと思いまして……」
守くんが話していたマネージャー希望の子だろう。
うちの剣道部のマネージャーは、私と菜実の二人だけ。しかも二人とも四年生なので、卒業してしまったらマネージャー不在となってしまう。だから逃すわけにはいかないと話していたのだった。
百合華ちゃんは、高校でも剣道部のマネージャーをしていたらしい。こんな可愛らしい子がむさ苦しい剣道部のマネージャーになってくれるなんて不思議な気もするが、そういうことなら納得できる。
私がマネージャーの仕事内容のを説明しようとすると、菜実がそれを遮って話し始めた。
「そうそう、知ってる? 来週、すごい人が剣道部に来るのよ」
「えっ、誰ですか?」
一瞬ピクッと反応したような見えたが、不思議そうな顔をしているので気のせいだったのだろう。
「去年の高校生の関東大会で話題になった人よ。知らない?」
「もしかして、怪我しちゃって全国大会に出られなかった人ですか?」
「そうそう、あの、東条和哉が入部するのよ!」
菜実は自分のことのように得意気だ。このまま放置しているといつまでも仕事に取りかかれないので、そろそろ終わりにさせないと。
「ちょっと菜実!無駄話はそろそろおしまいにして」
いつもこのパターンだ。菜実はすぐに脱線する。それを制するのが私の役目。
肩をすくめてペロッと舌を出している菜実を横目に、私は溜息をついた。
「まったく……。それじゃ、説明を始めるわね」
仕事内容を話そうとしている私を見て、百合華ちゃんは少しつまらなそうな表情をする。
もしかしたら、東条和哉の話をもっと聞きたかったのだろうか。
マネージャーの仕事の流れを一通り説明し、最後に剣道部のTシャツを百合華ちゃんに渡した。
「今日は初日なので、説明だけで終わりにするね。明日から本格的に仕事をしてもらうから、これを着るように」
百合華ちゃんはTシャツを見て、一瞬嫌そうな顔をする。
でもすぐに笑顔に戻り、挨拶をして帰っていった。
百合華ちゃんが部室を出ると、菜実が囁く。
「ねえ、あの子どう思う?ちゃんとマネージャーできると思う?なんかチャラチャラしてそうだし。まさか、義経狙いとかじゃないよね」
実は私も、少し疑っていた。義経の話になったときも反応していたし。
でも、きっかけはどうであれ、真面目に仕事をしてくれれば問題ない。
「まあ、ちょっと派手な感じではあるけど、話も真面目に聞いてたしやる気はあるんじゃないかな」
菜実は不満そうな顔をしていたが、急に体のラインを強調するようなポーズを取り聞いてきた。
「ねえ、あの子と私、どっちが魅力的?」
正直、菜実は美人だ。スタイルもよく、男ウケするタイプ。性格は明るく活発で、はっきり物を言う。姉御肌って感じかな。
百合華ちゃんは華奢で可愛らしく、守ってあげたくなるような典型的な女子って感じ。
二人に比べて私は……。顔もスタイルも特に特徴がなく、真面目で面白みのない人間だ。親に厳しく育てられた影響だろうか。
「柚希ってさ、男に興味ないの?」
黙っている私に対して、菜実が突拍子もないことを言い出す。どの流れでそうなるのだろう。
一瞬固まった私を見て、菜実が真剣な表情で私の顔を覗き込んだ。
「前の彼氏のこと、まだ忘れられない?」
前の彼氏というのは、高校三年生の夏休みから付き合い始めた人だ。
お互い違う大学に進学したが、最初は定期的に会うようにしていた。そのうちマネージャーの仕事が大変で毎日疲れてしまい、だんだん会う回数が減っていった。
それでも相手は一生懸命歩み寄ろうとしてくれたが、マネージャーの仕事に慣れることで精一杯だった私には鬱陶しく感じてしまったのだ。
私だって会いたかった。でも、心も体も余裕がなかった。それをわかってくれない相手を、腹立たしく思うこともあった。
それである日、「会いたい会いたいって、子供みたいに我儘言わないでよ!」とひどい言葉を浴びせてしまったのだ。
それがきっかけでだんだん疎遠になってしまい、全く連絡を取らない日が続いた。そんな状況になって初めて、相手の存在が自分にとって大切だったと気付いたのだ。
でも、素直になれなかった。
私はいつも自分中心で、相手を傷つけてきた。もしやり直したとしても、きっとまた同じことを繰り返してしまうだろう。
それで、自分から別れを切り出したのだった。
「そうじゃない。ただ、私って恋愛に向いてない気がして。だから、次に踏み出す勇気が出なくて」
「勇気か……。恋愛するのが怖いの?」
「そうかもしれない。私ね、どうしても本音を言えなくなっちゃって、結局は自分から終わりにしちゃうの。ほんと、バカよね」
なんだか重苦しい雰囲気になってしまった。
それを察したのか、菜実が私を茶化し始める。
「だから武将に恋する乙女になっちゃったのね。二次元より三次元に目を向けなきゃダメよ、私みたいにね!」
菜実は恋多き女だ。大学に入ってから、半年に一度は彼氏が変わる。そのせいで揉め事も多く、他の女子からの評判はあまり良くない。でもここ数ヶ月は珍しく彼氏がいないので、平和な日々が続いていたのだが。
もしかしたら菜実は、義経を狙うつもりなのだろうか。
だから百合華ちゃんのことを気にしているのだろう。確かに百合華ちゃんは可愛いらしいし、強敵になるかもしれない。
そんなことを考えながら、私は義経の試合を思い出していた。
義経が入部したら、あの動きを間近で見ることができる。
想像したら幸せすぎて、頬がゆるむ。
「柚希、ニヤニヤして気持ち悪い〜」
「失礼ね!」
そのときの私は、これから自分に起こる出来事を全く予想もしていなかった。