光秀と蘭丸 〜 魔性の小姓は首を持って逃げた 〜
天正十年、六月一日。
月のきれいな夜でした。織田信長の同盟者である徳川家康は堺の町を見物中でしたが、連れてきた家臣をひとりそばへ招き、酌をさせていました。
「月が……」
「なんでございましょう」
主君がつぶやくと、家臣が先を促します。この家臣というのは、おそらくは家康の重臣、本多忠勝か、あるいは家康の友ともいわれた策略家、本多正信か……そんなところでしょう。
「月があまりにもきれいすぎる」
「殿、ついこのあいだもそのようなことを」
「いや。これほどに美しく、また妖しげな月を、わしはいまだかつて見たことがない」
そう言われて、家臣はあらためて、夜空の月を眺めます。
「よい夜ですなあ……」
家臣がその顔を空から戻すと、どういうわけか、主君はふてくされたように口先をとがらせておりました。
「殿、どうかなさいましたか」
「万千代はおらぬか。お前は好かん」
万千代というのは、先の武田攻めで武功を挙げた期待の若武者、井伊直政のことです。家康はたいそうこの若武者をかわいがり、贔屓にしていたのでありました。
「殿、ここに」
「おお、ちょうどよい。酌を代われ」
期待の若武者と入れ替わりに、本多忠勝もしくは本多正信……ことによると榊原康政だったかもしれない彼は、つい先ほど主君がやってみせたのと同じように口先をとがらせて、その場を後にしました。
さて、その後。
「万千代、あの月をどう思う。なにかぞわぞわするようなものを感じはせぬか」
「ああ、たしかに」
期待の若武者は、天性の聡明さを思わせる風貌のまま、主君のことばに答えます。
「明智さまが殿へお出しになったお魚料理に添えてあった、あの食べるのももったいないように思われた、立派なお漬物に似ていますね」
***
家康のお気に入りが井伊直政ならば、信長のお気に入りは、森蘭丸という近習でした。森蘭丸……ほんとうは「乱」という字を使うのですが、派手好きの信長はこの美青年にたいそう惚れこみ、「蘭丸じゃ」と、あえて「蘭」の字をあてて呼んでいました。でもまあ、じっさいに呼ぶときにはどちらの文字を使おうが、「おい、らんまるぅ」となるわけで、たいした違いはないのですけど。
しかしこの蘭丸、じつは信長以上に好いている人物がいました。それは、明智光秀 —— 通称、キンカン ——。
明智光秀といえば信長の重臣のうちひとりで、その忠勤ぶりは織田家家臣のうちでも随一のものでしたが、そんな彼の主君への唯一の裏切りが、この美青年との密通だったのでした。
「上様はね、繊細すぎるんですよ。扱いに苦慮しますね」
蘭丸は主君への愚痴を光秀に漏らし、
「その点、キンカンはいいね。怒鳴ることもないし、柔らかいし。かといってなよなよしていなくて、男らしいとこもあんだから」
そう言って、彼を惑わせます。
「絶対に、見つからないようにしてくださいね。じゃないと、私はともかくとして、大好きなあなたの命がなくなっちゃうんですから」
光秀はもとより真面目で真っ直ぐな性格ですから、蘭丸のこの甘い誘惑にも、やはり真っ直ぐに堕ちていくのでした。
ところが、信長の天下統一の事業が進むと、光秀は主君から中国地方の毛利攻めに加わるよう命じられて、信長や蘭丸のいる畿内を発って遠征に行かなくてはいけなくなりました。
蘭丸はこれがおもしろくありません。彼には、信長が光秀を軽んじて畿内から遠ざけようとしているように思えてならないのでした。その上この美青年の心を悩ませたのは、光秀がこの信長の命令を受けて、栄誉ある仕事を任されたのだと自負しているように見受けられることでした。
「かわいそうなキンカン、なんておおらかでお人好しなんだ。あなたはめいっぱい上様に尽くしてるけど……、私はあの人が理不尽なことを知っているし、人をまるっきり信じないことも知っている。大きく構えているように見えて、あの人は、そのじつとても繊細な人なんだ。—— そう、あの人は繊細すぎるからキンカンの良さがわからない。そして、キンカンは人が好すぎるから、あの人の理不尽さがわからないんだ」
ある夜、——
「おい、らんまるぅ」
光秀は、蘭丸に言います。
「七つの扇子を用意した。これを使って踊ってくれい」
このとき、遠征を控えた光秀は、蘭丸との別れ寂しさにめいっぱい酒を飲んで酔っ払っていたのですが、蘭丸は彼の気持ちに気がつきません。—— ふだんならば、目敏く光秀の思考を見破ってしまうのですが、このときはそうはいきませんでした。なぜならば、蘭丸はこの昼間に信長の大事にしていた花瓶を落っことして割ってしまって、お小言を食らったせいで機嫌が悪かったのです。—— そういった事情もあり、蘭丸は苛々しながら、愛する光秀の変に陽気なようすを見ていたのでした。
(まったく、やんなっちゃう。あの意地悪なじじいのために遠くへ行かなくちゃならないっていうのに……そのためには、しばらく私と別れなくちゃならないっていうのに……、この人はなんで、こんなに穏やかなんだろうか。この人にとって、私はいったい……)
「おいおい、しけた顔してんなあ、らんまるぅ。踊ってくれよう、踊ってくれたらなあ、なあんでも欲しいものをやるからよぉう」
(もうキンカン、その笑顔をやめてくれ。穏やかで、だれにでも優しいってのがあなたの取り柄なんだけどさ……、たまには私のために、真剣に顔を歪めてくれたっていいでしょう……)
そこで、蘭丸はひらめきました。
「……なんでも、くれるの」
愛する人の歪んだ顔が見たい。そして、愛を、感じたい……。
「お、おう。なんでも欲しいものをやろうぞよ」
「では……」
蘭丸は踊った。
七つの扇子を代わる代わる手にして、
受けて押さえて、かなめがえし、
片目のぞかせ微笑して……
……柱から柱へ、軽やかに翔んで、
挑発するかのように、隠れては現れて……
——。
やがて、踊りを終えた蘭丸は、少し荒い呼吸をしながら、目の前の愛する人に言いました。
「上様の首を所望いたします」
「……え」
「私たちの主君・織田信長の首を、この扇子の上へ載っけて、持ってきてくださいまし」
「……は、えっ?」
「織田信長の首を、所望いたします」
***
そして、ついにあの夜を迎えます。—— そう、徳川家康が、堺の町で「月があまりにもきれいすぎる」とつぶやいた、あの夜です。
妖しく光る月に照らされて愛宕山へ登った光秀の片手には、「凶」のおみくじがありました。そして、もう一方の手には、「吉」……。
「やはり、義務か。天は悪事をゆるしはせぬ……」
光秀は、「凶」のおみくじを握り潰そうとします。しかし、——
「いや、できぬ。甘い花のほころぶような、あの女子のような若者の笑顔を、握り潰すことなどできぬわっ!」
反対のおみくじを、光秀はくしゃくしゃと握りつぶしました。
「敵は、本能寺にありっ……」
***
六月二日、未明。
京、本能寺にて。——
「どうした蘭丸」
「上様、明智が謀反ですっ。裏口から逃げましょうっ」
蘭丸は主君をうながしますが、信長はさっと身をひるがえし、
「おい、誰かある! 女子供を逃してやれ!」
よく通る声で、そう叫びました。
「上様……」
信長はふりかえると、
「いくぞ、蘭丸」
「ははっ」
燃え盛る炎を背に、信長は裏口へと急ぎます。その後ろを、護衛といった形で後ろを見つつ、蘭丸がついて行きます。
「蘭丸」
「はっ」
「……先月の……」
「……なにかおっしゃいましたか?」
「先月の花瓶の件だが……、悪かった。つい感情的になってしもうた」
「いまさらなにを」
「蘭丸」
「はい?」
「……死ぬときは、一緒だ」
「……」
蘭丸の心には迷いが生じました。
(右を選ぶか、左を選ぶか……。約束の「裏口」は右。でも、いっそこのまま……)
しかし、迷える小姓に選択肢はありませんでした。
光秀が、—— 蘭丸と約束した「裏口」ではなく、「裏口」へとつづく最後の分岐点で、待ち構えていたのです。
「……光秀」
「上様、お命ちょうだいっ!」
太刀を抜いた光秀は、主君の首めがけて襲いかかりました。—— 信長はそれをかわします。
「是非におよばず」
信長も刀を抜き、応戦します。
ふたりの男が戦うようすに、宿命の美青年は目を奪われていました。
「あっ……!」—— 愛する人の血が宙を舞い、若くきれいな掌へとふりかかります。—— 蘭丸はその掌を、ぎゅっと自分の鎖骨のあたりへ押しつけました。
「とらぁっ!」
これまで聞いたこともないような男らしい声をあげて、信長は全力で光秀を押し倒します。
「この、謀反人めがぁっ!」
「そりゃああっ!」—— 斬られるより先に、光秀は、主君の胸元へ太刀を突き刺しました。
「ぐおおおおおっ!」
そのまま形勢は逆転。光秀は信長の身体へのしかかり、小刀を抜いて首を取ろうとします。
が、しかし、——
「うぐっ!」
蘭丸の小刀が、光秀の右の肩を突き刺しました。
「とりゃっ!」
蘭丸は全力で光秀を押し除け、力を失いかけた主君・信長の頬へ手をかけます。
「らん……、逃げ……」
「もちろん、逃げますよ」
目を潤ませて、蘭丸は答えます。
「でも、ひとりじゃ嫌だ。嫌なんだ」
そう言って、蘭丸は主君の腰の小刀を抜き取ると、
「死ぬときまで、そばにいてください」
みずから主君の首を切り取って、大事そうに抱えて、裏口から出ていきました。
「らん、ま……」—— 残された男は呆然として、肩の痛みよりも、裏切られた衝撃よりも、—— ただただ、さりゆく美青年の美しくかがやく涙の影に縛られて、彼が完全に姿を消すまで、身動きひとつままならなかったのでした。
いかがでしたでしょうか。
ちょっと荒削りかなーという気もしますが、とりあえず企画に間に合ってよかったです^^;
さあ、みなさんも……レッツ・デカダンっ♪