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イェルフと心臓  作者: チゲン
第三部 人間とイェルフ
43/61

4頁

 翌朝。

 右足首は、軽く歩ける程度にまで回復していた。時折痛むが、それも我慢できないほどではない。

 頬が自然とゆるんでいった。

 部屋の戸が開いた。

 ポロノシューかと思い、シュイは慌てて仏頂面を作った。正直、どういう態度を取るべきか迷っている。

 ところが、戸の陰から姿を見せたのは、まだ十歳ほどの痩せた少年だった。

「子供?」

 少年は、おどおどした様子で、部屋のなかを覗き込んでいる。

 シュイと目が合うと、慌てて顔を引っ込めた。

「なんなの?」

 シュイは少年を追って、部屋を出た。

 厨房ちゅうぼうの陰から、少年がこちらの様子を窺っている。

「まさか、ポロノシューの子供?」

 昨夜は姿を見かけなかったし、子供がいるような気配は感じられなかったが。

 臆病おくびょうな小動物を連想させるような、愛らしい少年だった。

「人間でも、子供は可愛いもんね」

 元来が子供好きなシュイは、怯えるように自分を見つめる少年に笑いかけた。小生意気なガキは遠慮したいが、この少年は庇護ひご欲を掻き立てるものがある。

「こっちおいでよ」

 シュイが手招きすると、少年はびくりと身を竦ませた。その視線は、彼女の銀色の髪と、先の尖った耳を捕らえている。

「この子、イェルフを見たことがないんだ」

 自分もこの年になるまで人間を見たことがなかったのだから、お互いさまと言えばお互いさまだろう。

 だが彼女と決定的に違うのは、その瞳のなかにあるのは好奇心の輝きでなく、困惑や恐怖ということだ。

 そのとき、ポロノシューがひょっこり表から戻ってきた。

 少年が柱の陰から飛びだしてきて、ポロノシューの腰にしがみついた。

「どうしたんだ、ヤナン」

 ポロノシューは、少年とシュイの顔を交互に見比べる。

「何かあったのか」

「ちょ…別に、なんにもないから」

 こちらが加害者扱いされているようで、シュイは慌てて弁解した。

「本当か?」

「あたりまえでしょ」

 ポロノシューは同じ質問をヤナンと呼んだ少年にもした。ヤナンが小さく頷いたので、シュイの疑いは一応晴れた。

「お母さんに何かあったのか?」

 ポロノシューは、ヤナンの顔を覗き込んだ。

「なんであたしのことは怖がって、あの暗い男の顔は平気な訳?」

 二人のやり取りを見ながら、シュイが理不尽な扱いに愚痴をこぼす。

「ねつが出て……」

 消え入りそうな声で、ヤナンが答えている。

「そうか。ならとりあえず、解熱剤を出しておこう。後で俺が診にいく」

 ヤナンを椅子に座らせると、ポロノシューは薬を取りに奥へ入っていった。

 またしても、二人きりになる。

 ヤナンはうつむいたまま、身じろぎひとつしない。

 気まずい空気。

 どうしたらいいか判らず、シュイは立ち尽くしていた。

「……なんであたしが、人間の子供に気を遣わなくちゃならないのよ」

 だんだん腹が立ってきた。

「イェルフって、そんなに怖い?」

 口に出して訊いてみた。口調を柔らかくしたつもりだったが、ヤナンはびくりと体を硬直させた。

 それが充分、答えになっている。

 シュイは嘆息した。

「所詮、人間は人間ね」

 子供からしてこうなのだから、大人はして知るべしである。イェルフ族がいると知れ渡ったら、何をされることやら。

 逃げるなら、今のうちだ。

 だが一歩を踏みだそうとした矢先、右足首に強烈な痛みが走った。

「いッ!」

 崩折くずおれそうになって、咄嗟に手近な椅子の背もたれにしがみついた。

 怪我のことを失念していた。どうやら、力の入れ具合を誤ったらしい。

 右足首が、燃えるように痛みだした。

 無理に歩こうとすると、また激痛が走った。これでは山を登るどころか、まともに歩くこともできない。

 冷や汗混じりに顔を上げると、心配そうに様子を窺っていたヤナンと目が合った。だがすぐに、視線を逸らされた。

「心配してんなら、声くらい掛けなさいよね」

 そう言いかけたところへ、ポロノシューが戻ってきたので、口をつぐむ。

「痛むのか?」

「たいしたことないわ」

 平静を装いつつ椅子に座る。本当はまだ痛む。

 ポロノシューはヤナンに、小さな器に入った粉薬を手渡した。

「いつものように、水に溶かして飲むんだぞ」

 ヤナンは神妙しんみょうに頷くと、器を受け取るなり、表へ駆けだしていった。

「お礼も言わないで帰るなんて、ずいぶんしつけがなった子供ね」

「俺もまだ、おまえに礼を言ってもらってないがな」

「う……」

 皮肉でやり込めたつもりが、返す刀で見事に切り返され、シュイは言葉に詰まった。

「……なに、お礼言ってほしいの?」

「そういう訳じゃないが」

 開き直った態度に、ポロノシューが苦笑する。

 その余裕がやはり鼻についた。

「あたし帰る」

「帰るって、どこへ」

「里に決まってんでしょ」

「その足じゃ、さすがにまだ無理だ」

「平気よ」

「駄目だ」

「あたしが平気って言ってんだから平気なの」

 人間の指図など受けない。

「イェルフというのは、皆そんなに頑固なのか」

「大きなお世話よ」

 椅子から立ち上がると、わざとらしいほど力強い足取りで、戸口まで歩いてみせた。もちろん平気なことを証明するためだったが、内心は必死で激痛に耐えていた。

 ポロノシューは何も言わない。

「止めない気かしら」

 だんだん不安になってきた。

 自分でも、この足で里までの険しい山道を登っていく自信はなかった。

 だが人間の世話になったことが里に知れたら、それこそ笑い者だ。里長たる父の面目めんもくも立たない。

「歩いてみせるわよ」

 半ば自棄やけになって、シュイは戸に手を掛けた。

「一応、お礼は言っとくわ。でも勘違いしないで。あたしをこんな目に遇わせたのも、あんたたちの仲間なんだからね」

「待て」

「なによ」

「まだ治療費を貰っていない」

「はあ!?」

 思わず振り返って、ポロノシューの顔を凝視する。彼は至って真面目な顔をしている。

「話聞いてた? あんたの仲間のせいで、あたしは怪我したのよ?」

「それとこれとは、話が別だ」

「あんたねえ……どんだけ浅ましいのよ、人間って!」

「おまえのために使った薬や包帯も、ただじゃないんだ」

「ぐ……」

 それを言われるとつらい。

「補充するにも、大きな町まで行かないといけない。それに、決して安くはないしな」

「うう、ずるい……」

 急速に怒りがえていく。

「……ていうか、あたし、お金なんて持ってないわよ」

 それは本当だ。

 里は基本的に物々交換なので、シュイが貨幣かへいに触れることは滅多にない。

「そうなのか」

「う……」

 そんなふうに淡々と受け止められると、余計にどうしたらいいか判らなくなる。

「もう、なんなのよ、こいつ」

 この男の相手をしていると、どうも調子が狂う。

 もっと怒るなり何なり、はっきりと感情を表に出せばいいのに。里の同胞にも、こんなすっきりしない奴はいなかった。

「で、なにが欲しい訳?」

 どうしてもと言うなら、里に戻って金目の物を失敬してくるしかない。

「今日だけでいいから、俺の仕事を手伝え」

「はっ?」

 信じがたい代案が飛び込んできた。

「手伝うって……あたしが?」

「そうだ」

「嫌よ」

 シュイは即座に拒否した。

「冗談じゃないわ。なんであたしが、あんたの手伝いなんかしなくちゃならないのよ!」

「簡単な作業だけでいい。こう見えても、けっこう忙しいんだ」

「知らないわよ」

「なら、今すぐ金を払え」

「う……」

 再び痛いところを突かれた。まさに伝家の宝刀である。

「……里に戻って取ってくるわ」

「信用できんな。何しろ俺は、浅ましい人間だ」

「この……ああ言えばこう言いやがってえ……」

 もはや、ぐうの音も出ない。

 確かに逆の立場なら、シュイも彼の言葉を信用しなかっただろう。

「……判ったわよ、手伝えばいいんでしょ。手伝えば!」

「それと」

「まだあるの!?」

「名を聞いておこう」

「……シュイよ」

 小声で言ったのは、せめてもの抵抗だった。

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