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翌朝。
右足首は、軽く歩ける程度にまで回復していた。時折痛むが、それも我慢できないほどではない。
頬が自然と緩んでいった。
部屋の戸が開いた。
ポロノシューかと思い、シュイは慌てて仏頂面を作った。正直、どういう態度を取るべきか迷っている。
ところが、戸の陰から姿を見せたのは、まだ十歳ほどの痩せた少年だった。
「子供?」
少年は、おどおどした様子で、部屋のなかを覗き込んでいる。
シュイと目が合うと、慌てて顔を引っ込めた。
「なんなの?」
シュイは少年を追って、部屋を出た。
厨房の陰から、少年がこちらの様子を窺っている。
「まさか、ポロノシューの子供?」
昨夜は姿を見かけなかったし、子供がいるような気配は感じられなかったが。
臆病な小動物を連想させるような、愛らしい少年だった。
「人間でも、子供は可愛いもんね」
元来が子供好きなシュイは、怯えるように自分を見つめる少年に笑いかけた。小生意気なガキは遠慮したいが、この少年は庇護欲を掻き立てるものがある。
「こっちおいでよ」
シュイが手招きすると、少年はびくりと身を竦ませた。その視線は、彼女の銀色の髪と、先の尖った耳を捕らえている。
「この子、イェルフを見たことがないんだ」
自分もこの年になるまで人間を見たことがなかったのだから、お互いさまと言えばお互いさまだろう。
だが彼女と決定的に違うのは、その瞳のなかにあるのは好奇心の輝きでなく、困惑や恐怖ということだ。
そのとき、ポロノシューがひょっこり表から戻ってきた。
少年が柱の陰から飛びだしてきて、ポロノシューの腰にしがみついた。
「どうしたんだ、ヤナン」
ポロノシューは、少年とシュイの顔を交互に見比べる。
「何かあったのか」
「ちょ…別に、なんにもないから」
こちらが加害者扱いされているようで、シュイは慌てて弁解した。
「本当か?」
「あたりまえでしょ」
ポロノシューは同じ質問をヤナンと呼んだ少年にもした。ヤナンが小さく頷いたので、シュイの疑いは一応晴れた。
「お母さんに何かあったのか?」
ポロノシューは、ヤナンの顔を覗き込んだ。
「なんであたしのことは怖がって、あの暗い男の顔は平気な訳?」
二人のやり取りを見ながら、シュイが理不尽な扱いに愚痴をこぼす。
「ねつが出て……」
消え入りそうな声で、ヤナンが答えている。
「そうか。ならとりあえず、解熱剤を出しておこう。後で俺が診にいく」
ヤナンを椅子に座らせると、ポロノシューは薬を取りに奥へ入っていった。
またしても、二人きりになる。
ヤナンは俯いたまま、身じろぎひとつしない。
気まずい空気。
どうしたらいいか判らず、シュイは立ち尽くしていた。
「……なんであたしが、人間の子供に気を遣わなくちゃならないのよ」
だんだん腹が立ってきた。
「イェルフって、そんなに怖い?」
口に出して訊いてみた。口調を柔らかくしたつもりだったが、ヤナンはびくりと体を硬直させた。
それが充分、答えになっている。
シュイは嘆息した。
「所詮、人間は人間ね」
子供からしてこうなのだから、大人は推して知るべしである。イェルフ族がいると知れ渡ったら、何をされることやら。
逃げるなら、今のうちだ。
だが一歩を踏みだそうとした矢先、右足首に強烈な痛みが走った。
「いッ!」
崩折れそうになって、咄嗟に手近な椅子の背もたれにしがみついた。
怪我のことを失念していた。どうやら、力の入れ具合を誤ったらしい。
右足首が、燃えるように痛みだした。
無理に歩こうとすると、また激痛が走った。これでは山を登るどころか、まともに歩くこともできない。
冷や汗混じりに顔を上げると、心配そうに様子を窺っていたヤナンと目が合った。だがすぐに、視線を逸らされた。
「心配してんなら、声くらい掛けなさいよね」
そう言いかけたところへ、ポロノシューが戻ってきたので、口を噤む。
「痛むのか?」
「たいしたことないわ」
平静を装いつつ椅子に座る。本当はまだ痛む。
ポロノシューはヤナンに、小さな器に入った粉薬を手渡した。
「いつものように、水に溶かして飲むんだぞ」
ヤナンは神妙に頷くと、器を受け取るなり、表へ駆けだしていった。
「お礼も言わないで帰るなんて、ずいぶん躾がなった子供ね」
「俺もまだ、おまえに礼を言ってもらってないがな」
「う……」
皮肉でやり込めたつもりが、返す刀で見事に切り返され、シュイは言葉に詰まった。
「……なに、お礼言ってほしいの?」
「そういう訳じゃないが」
開き直った態度に、ポロノシューが苦笑する。
その余裕がやはり鼻についた。
「あたし帰る」
「帰るって、どこへ」
「里に決まってんでしょ」
「その足じゃ、さすがにまだ無理だ」
「平気よ」
「駄目だ」
「あたしが平気って言ってんだから平気なの」
人間の指図など受けない。
「イェルフというのは、皆そんなに頑固なのか」
「大きなお世話よ」
椅子から立ち上がると、わざとらしいほど力強い足取りで、戸口まで歩いてみせた。もちろん平気なことを証明するためだったが、内心は必死で激痛に耐えていた。
ポロノシューは何も言わない。
「止めない気かしら」
だんだん不安になってきた。
自分でも、この足で里までの険しい山道を登っていく自信はなかった。
だが人間の世話になったことが里に知れたら、それこそ笑い者だ。里長たる父の面目も立たない。
「歩いてみせるわよ」
半ば自棄になって、シュイは戸に手を掛けた。
「一応、お礼は言っとくわ。でも勘違いしないで。あたしをこんな目に遇わせたのも、あんたたちの仲間なんだからね」
「待て」
「なによ」
「まだ治療費を貰っていない」
「はあ!?」
思わず振り返って、ポロノシューの顔を凝視する。彼は至って真面目な顔をしている。
「話聞いてた? あんたの仲間のせいで、あたしは怪我したのよ?」
「それとこれとは、話が別だ」
「あんたねえ……どんだけ浅ましいのよ、人間って!」
「おまえのために使った薬や包帯も、ただじゃないんだ」
「ぐ……」
それを言われるとつらい。
「補充するにも、大きな町まで行かないといけない。それに、決して安くはないしな」
「うう、ずるい……」
急速に怒りが萎えていく。
「……ていうか、あたし、お金なんて持ってないわよ」
それは本当だ。
里は基本的に物々交換なので、シュイが貨幣に触れることは滅多にない。
「そうなのか」
「う……」
そんなふうに淡々と受け止められると、余計にどうしたらいいか判らなくなる。
「もう、なんなのよ、こいつ」
この男の相手をしていると、どうも調子が狂う。
もっと怒るなり何なり、はっきりと感情を表に出せばいいのに。里の同胞にも、こんなすっきりしない奴はいなかった。
「で、なにが欲しい訳?」
どうしてもと言うなら、里に戻って金目の物を失敬してくるしかない。
「今日だけでいいから、俺の仕事を手伝え」
「はっ?」
信じがたい代案が飛び込んできた。
「手伝うって……あたしが?」
「そうだ」
「嫌よ」
シュイは即座に拒否した。
「冗談じゃないわ。なんであたしが、あんたの手伝いなんかしなくちゃならないのよ!」
「簡単な作業だけでいい。こう見えても、けっこう忙しいんだ」
「知らないわよ」
「なら、今すぐ金を払え」
「う……」
再び痛いところを突かれた。まさに伝家の宝刀である。
「……里に戻って取ってくるわ」
「信用できんな。何しろ俺は、浅ましい人間だ」
「この……ああ言えばこう言いやがってえ……」
もはや、ぐうの音も出ない。
確かに逆の立場なら、シュイも彼の言葉を信用しなかっただろう。
「……判ったわよ、手伝えばいいんでしょ。手伝えば!」
「それと」
「まだあるの!?」
「名を聞いておこう」
「……シュイよ」
小声で言ったのは、せめてもの抵抗だった。




