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シュイの部族は、三十年ほど前にこの山に流れ着いた。
同じ頃、麓には人間の集落もでき始めていた。
両者は互いの存在を知りつつも、山の中腹と麓とに別れ、接触を避けて暮らしていた。
互いに干渉しないという不文律が、いつの間にかできあがっていたのだ。二種族の対立の歴史のなかでは、稀有なパターンと言えるだろう。
「人間はみんな野蛮だって聞いてたけど、この男は、そういう感じには見えないわね。すっごい暗いけど」
目の前で黙々とスープを啜っている男を、シュイは上目遣いに盗み見した。
もう日はすっかり暮れている。
ポロノシューと名乗った男が持ってきた食事は、ぱさぱさのパンと、貧相な芋のスープだった。
「毒なんか入ってないでしょうね」
匂いを嗅ぎ、顔をしかめる。
「こんなの、あたしたちの里だったら犬も食べないわ」
「贅沢を言うな」
感想が口から出ていたらしい。シュイは、さっと顔を赤らめた。
「……ほんとのこと言っただけじゃないの」
「これでも奮発した方なんだが」
「肉は?」
「ない」
「魚は?」
「干物ならあるが」
「……遠慮しとくわ」
シュイは項垂れる。
どうやらこの男は、相当に貧しいようだ。医者という触れ込みだったが、怪しいものである。
結局、空腹には勝てず、スープを口に運んだ。腹に入れば同じだろう。
「……うすい」
「そうか」
「このパンも、全然味がしないんだけど」
「スープに浸して食うといい」
シュイは喉の奥で唸った。
美味い不味い以前に、これを料理と認めたくなかった。
「よく、こんなの平気で食べられるわね。味覚がおかしいんじゃないの?」
「食べないと治らないぞ」
「判ってるわよ」
渋々、シュイは手を動かした。
「お母様のスープを食べたら、腰抜かしちゃうんじゃないかしら」
いつもなら、一家で食卓を囲んでいる時間なのだ。シュイの里は恵み豊かで、冬でも食糧に困ることはない。
「この芋、スカスカなんだけど」
「いちいちうるさい奴だな。贅沢を言うなと言っただろう」
「む……」
子供扱いされているような気がして、シュイは憮然とした。
「土地が痩せているから、こんなものしか育たないんだ」
「あっそ」
シュイはスカスカの芋をフォークに刺し、まじまじと見つめる。
いちいち味わっても甲斐がないので、一気に食べてしまおう。そう思い立って、パンとスープを一気に口のなかへ掻き込んだ。
「ごふっ」
思わず咳き込む。さすがに詰め込みすぎた。
「落ち着いて、ゆっくり噛め」
「ふうふぁい」
うるさい、と言ったつもりだ。
何とか咀嚼して飲み込むと、軽く息を吐いた。
ポロノシューと目が合った。
「……なに見てんのよ」
「イェルフの娘は、みんな、おまえみたいなのか」
「どういう意味よ!」
ガン、と食卓を掌で叩く。
「別に他意はないが」
「ふん」
腹立ちまぎれに、真ん中の皿からおかわりのパンを取り上げ、乱暴に齧りついた。
「気に入ったんなら、まだあるぞ」
「いらないわよ」
袖で口元のパン屑を拭う。
ふと右足首の包帯が目に入った。動かすと、まだ少し痛む。
もっとも、沢から落ちてこの程度の怪我で済んだのだから、幸運と言わざるを得ない。打ち所によっては、生死に関わったかもしれないのだ。
それだけではない。
もし、彼女を追っていた猟師たちに見つかっていたら。
そう思うと背筋が寒くなる。
「……なんであたしを助けてくれたの?」
食事も済み、ひと心地ついたところで、シュイは切りだした。
「俺は、あの辺りで薬草を採っていただけだ。よく生えているからな」
「じゃあ、なんで連れてきたりしたのよ。あたしはイェルフ……あんたたちの敵なのよ」
敵という単語を、殊更に強調して言う。
「ヤブだが、俺も一応医者なんでね。怪我人を放っておく訳にはいかない」
ポロノシューは淡々と言った。
のらりくらりと言いくるめられているようで、シュイは少し苛立った。
「村の連中にばれたら、どうすんのよ。あんただって、ただじゃ済まないかもよ」
もしシュイの里で、誰かが人間を家に匿おうものなら、たちまち大騒ぎになるだろう。村ならぬ里八分にされてしまうか、最悪追放されてもおかしくない。
「心配してくれるのか?」
ポロノシューが、真顔で訊いてきた。
「そ…そんな訳ないでしょ!」
慌てて弁解するが、声がうわずってしまった。取り繕うように咳きをする。
「なんか、他人事みたいね。ひょっとして、村の連中と仲悪いの?」
「それはないな。少なくとも、この家にいる限りは安全だ」
「んなこと言って、油断したところを後ろからブスッとやる気じゃないでしょうね」
「だったら、とっくにやっている」
「う……」
何とかぼろを出させ、会話の主導権を握ろうとするが、またしても軽くいなされた。
「じゃあ、あたしの体が目当て、とか……?」
言ってから、自分がとんでもないことを口走ったことに気付く。
「……なんてね」
冗談っぽくごまかそうとしたが、語尾が情けないほど震えていた。
だがそれならば、全ての説明がつくのだ。
恐る恐る、ポロノシューの様子を窺う。目論見が露見した獣は、開き直ったように獲物に襲いかかる……ことはなかった。
ポカンとした顔で、シュイの顔を見つめている。彼女が口にした妄想など、これっぽっちも考えていなかったふうだ。
皮肉にも、初めて感情らしいものを見ることができた。
「……うう……」
もっとも、そんなことを感じる余裕もなく、シュイは顔を真っ赤にして項垂れていた。
言うに事欠いて、乙女にあるまじきことを……。
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「気分でも悪いのか? また熱でも……」
ポロノシューが、押し黙ったシュイの額に手を伸ばしてきた。
「さ…触らないでってば!」
シュイは、咄嗟にその手を払った。
「あ……」
食卓に気まずい沈黙が降りた。
「あ…あの……」
シュイは言葉に詰まる。
「それだけ元気なら、もう心配なさそうだな」
ポロノシューが席を立ち、何事もなかったように食器を片付けだした。
「…………」
むしろ、怒ってくれた方が気が楽だったかもしれない。
口のなかに、芋の味も忘れてしまうほどの、後味の悪さが残った。




