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イェルフと心臓  作者: チゲン
第二部 イェルフの子供たち
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32/61

18頁

 トリンは、眠れずに館を抜けだした。

 里のなかは、ひっそりと静まり返っている。深夜なのだから当然だが、トリンは物悲しさを覚えずにいられなかった。

 これが最後の夜なのだ。

 明日に備えて休まねばと頭では判っているのだが、昼間の出来事が気になって寝付けなかった。

 アコイとジイロの間に、喧嘩がなかった訳ではない。むしろ殴りあいになったことも再三ある。

 だが昼間のそれは異質だった。まるで、仇敵同士がいがみあうような……憎しみあうような。

 トリンは身震いした。兄弟同然に育ったあの二人に限って、そんなことある訳がない。

「……あたしのせい、なのかな」

 ジイロの放ったひと言が、彼女の胸のなかで、まだ燻(くすぶ)っていた。

 人影が見えた。トリンは思わず足を止めた。

 こんな時間に誰だろう。自分のことは棚に上げて不審がっていると、向こうも彼女の存在に気付いたらしい。

 月明かり。

 互いの姿が、闇のなかに浮かび上がる。

 影の主はアコイだった。

「トリン?」

「アコイ……?」

「何やってるんだ、こんな時間に」

「わ…わたしは、ちょっと散歩してるだけよ。アコイこそ」

「僕も眠れなくて」

 ばつが悪そうに、ちらりと視線を交わし、微笑みあう。

「川に下りてみないか」

「うん」

 アコイに誘われるまま、トリンは後ろをついていった。柵の裏手口で見張りをしていた若者に声を掛け、戸を開けてもらう。

 川原へ続くこの道も、今夜で歩き納めだ。

 子供の頃は、よく三人で川遊びをした。

 初めはカナヅチだったトリンも、アコイの熱心な指導で泳げるようになった。溺れかけたとき、ジイロが真っ先に助けてくれた。

「懐かしいな」

 川原へ座り込むなり、アコイがぽつりと呟いた。

 同じことを考えていたのだろうか。

 せせらぎは、十三年前から、ちっとも変わっていない。

 虫の声も。

 草のそよめきも。

 何もかも昔のままだ。

「わたしたち、これからどうなるのかな」

「判らない」

「……そうよね」

 間抜けな質問だったかもしれない。里の誰もが思っていることだ。

「ジイロ、平気かな」

「平気だよ、きっと」

 そう言うアコイの口調からは、昼間のような憎意は感じられない。

 トリンは少し安堵した。

「ジイロも、みんなのことを考えて、あんなこと言ったんだろうけど……」

 里のなかで孤立した彼の姿を見るのは、トリンにはひどくつらいことだった。

「やっぱり無理よね。イェルフの国なんて」

 すがるように、アコイの顔を仰ぎみる。

「ああ」

 所詮、理想に過ぎない。

 しかし、それだけで片付けてしまっていいのだろうか。

「みんながずっと幸せに暮らせたらな」

 あまりにも平凡だが、困難な願いを、トリンは口にした。

 ジイロもその思いは同じなのだ。

「新しい土地でも、きっと何とかなるさ」

 アコイは柔らかい笑みを浮かべる。

 優しい目をした青年。いつものアコイがここにいる。

「トリン……新しい土地に着いたら、僕と結婚してくれないか」

 唐突に、アコイが言った。

 トリンは一瞬、何を言われたか判らず、きょとんとしてしまった。

 その言葉の意味をようやく理解したとき、みるみる頬が紅潮していった。

「けっこ……え、ちょっと……なに言って……」

 心臓が早鐘を打ちだす。

 だがアコイは、真剣な眼差しで、トリンを見つめている。

「必ず僕が、君を守ってみせる。だから」

「きゅ…急にそんなこと言われても……」

 何と答えていいのか判らない。

 頭がこんがらがって、何も言葉が思い浮かばない。

「トリン」

 不意にアコイが、トリンの体を胸に抱き寄せた。

「……!」

 トリンは抗(あらが)えなかった。

 アコイの肌の温もり。

 鼓動。

 体の芯が熱くなってくる。

「わ…わたし……」

「僕じゃ駄目なのか」

「う…ううん、そんなことない」

 思わずそう答えてしまい、さらに赤面する。

「その……今は、そんなこと言ってるときじゃないわ」

「こんなときだからこそ、生きる意味が欲しいんだ」

「アコイ……」

「僕といっしょになってくれ」

 アコイの腕に力が込められた。

 答えられず、トリンは目を閉じた。目を閉じると、彼の鼓動がはっきりと感じられた。

「アコイ、わたし……」

「!」

 不意にアコイが、トリンの体を引き離した。

「えっ?」

 トリンは、不思議に思って彼の顔に目をやった。そして思わず息を呑んだ。

 厳しい眼光を放つ、戦士の顔があった。

「アコイ……?」

「声を出すな。誰かいる」

 トリンは慌てて口を押さえた。

「里の誰かなら、気配を殺す必要なんてないはずだ」

 まさか、二人に気を遣ってという訳でもあるまい。闇のなかの気配は、明らかにこちらの動向を窺っている。

 丸腰であることを、アコイは後悔した。

「僕が合図したら、里まで全力で走って、見張りに知らせてくれ」

「アコイは?」

「すぐに追いかける」

「でも……」

「やるんだ」

 アコイが、力強くトリンの肩を掴む。

「……判ったわ」

 トリンは腹を決めた。曲がりなりにも、自分は最長老の娘なのだ。

「行くぞ……走れ!」

 アコイが立ち上がって身構えると同時に、トリンが里に向かって駆けだした。

 刺客(しかく)が草むらから跳びだし、アコイに襲いかかった。

 白刃が月光を浴びて、目を射る。

 アコイは咄嗟に身をひねり、斬撃をかわしつつ、刺客の足を払った。刺客は軽い悲鳴をあげ、その場に突っ伏した。

 さらに足音。もう一人の刺客が、トリンを追っている。

「トリン!」

 アコイは駆けだした。

 駆けながら、手頃な大きさの石を拾い上げ、思いきり投げつける。石は見事に、刺客の後頭部へ命中した。

 刺客がつんのめったところに、背後から体当たりを食らわせる。もみくちゃになりながら、草むらのなかを転がった。

 やはり野伏だ。

「人間が!」

 アコイは野伏の額を掴むと、後頭部を石の上へ叩きつけた。

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