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トリンが診療所を出た頃、すでに日は沈みかけていた。
家々から、煮炊きの匂いが漂ってくる。
これで子供の笑い声でも聞こえたら、どこにでもある夕暮れの風景といった感じになるのだろうが、あいにく里は重苦しい沈黙に包まれていた。
このままで済むはずはない。誰もが感じていた。
連日のように続く同胞の死は、里に動揺と悲観をもたらせていた。
帰り際に、ジイロの家の前を通った。
「あの子なら、井戸に水を汲みにいってるよ」
顔を見るなり、シダが教えてくれた。何を考えているか、すっかりお見通しのようだ。
トリンは頬を赤らめながら、広場の井戸の方へ小走りに駆けた。
いた。
ジイロは井戸から甕に水を汲み上げ、釣瓶を掛けているところだった。
「なんで走ってんだ?」
「……別にいいでしょ」
「アコイの容態は?」
「とりあえず寝たわ。先生も、すぐに動けるようになるだろうって」
「ふうん」
「心配?」
からかうような目で、ジイロの顔を下から覗き込む。結局、一番アコイのことを心配しているのは彼なのだ。
「どうでもいいだろ」
「赤くなってる」
ジイロは照れ臭そうに目を逸らした。
「早く帰れよ」
「何よ、その言い草。誰があんたの傷の手当てをしてやったと思ってんの」
「あれくらい、唾つけときゃ治るっての」
「痛そうな顔してたくせに」
「してねえ」
ムッと顔をしかめるジイロに向かって、トリンは舌を出してみせる。
その顔に、ふと不安の影が落ちた。
「……わたしたちって、これからどうなるのかな」
後どのくらい、こうして、ジイロやアコイとはしゃいでいられるのだろう。
「いつまで、人間と戦ってかなきゃならないのかな」
「俺たちが勝つまでさ」
ジイロは迷いなく言い切った。
「勝つって、どうやって?」
「ちまちま追っ払ってたんじゃ切りがねえ。あいつらは何度だって襲ってくる。害虫と同じで、まとめて始末しなきゃならねえんだ」
「そんな……戦でもする気なの? 人間とまともに戦って、勝てる訳ないじゃない」
「おまえも、アコイみたいなことを言うんだな」
「じゃ…じゃあ、あんたなら勝てるっていうの?」
「勝てるさ」
この自信がどこから湧いてくるのか、トリンは不思議でならない。
「……何でそこまでして、戦わなきゃいけないんだろう」
イェルフ族と人間の争いの歴史は、あまりに長い。それこそ気が遠くなるほど昔から、両者はいがみあい、殺しあってきた。
「人間を好きになるイェルフだっているのに」
「おまえ、まだそんなこと言ってんのかよ」
「だって……」
「そんなこと、ある訳ないだろ。人間なんてのは、所詮、劣等種なんだよ」
「でも、あの人はそう言ってたんだもん」
十三年前、命懸けで危機を知らせてくれたイェルフ族の娘は、まだ幼かったトリンにそう言い残した。
顔も名前も覚えていないが、なぜかその言葉だけは鮮明に覚えている。
「おい」
俯くトリンの額を、ジイロが人差し指で突っついた。
「いいから、今日はもう帰れ」
「……うん」
顔を上げたとき、ジイロはすでに背を向けていた。
彼が思い詰めた表情を浮かべていたことには気付かなかった。




