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虫の鳴き声が、かまびすしい。夏の、この山にしては珍しく、少し蒸し暑い夜だった。
アコイは、脇に汗を感じた。冷や汗かもしれない。
野伏たちの野営地は、目と鼻の先だ。
ここにいるのは八人の精鋭。革鎧に弓を持つ者が四人。あとの四人は、革に板金を縫いつけた鎧に、曲刀を佩いている。
隣に黒い影が並んだ。
ジイロだ。その目は獲物を狙う猛禽。暗闇のなかでもはっきり見て取れるほど、異様な輝きを放っている。
「早く行こうぜ」
その頼れる戦士は、逸る気持ちを隠そうともしない。
「もう少し落ち着いたらどうだ」
不安になったアコイは、そう忠告せざるを得なかった。冷静さを欠くと、成功するものもしなくなる。
「判ってるけどよ」
さながら、悪戯を仕掛けた子供のようにソワソワしている。
「……そうだな、そろそろ行くか」
アコイはいよいよ腹を決めた。
失敗すると、自分たちの命が危ういどころか、里の皆を窮地に陥れることにもなり兼ねない。誰も口にこそ出さないが、八人とも、そのことは肝に銘じてあるはずだ。
「頼むぞ、ジイロ」
「判ってるって。俺が言いだしっぺなんだ。失敗なんて、させねえよ」
「じゃあ失敗したら、おまえのせいにしていいんだな」
「ふざけんな」
お互い顔を見合わせて、悪童のように笑う。
肩の力が、程よく抜けていくようだった。
「僕にも守りたいものがあるんだ」
「何か言ったか?」
「いや」
野伏たちの野営地が近付いてきた。
生い茂る草木の合間から、焚き火が見え隠れしている。
二人の野伏が、杯を手に談笑していた。こちらに気付いている様子はない。
アコイが三人のイェルフを、ジイロも同様に三人のイェルフを従えて、部隊を二つに分ける。
頃合を見計らって、アコイは傍らの若者に合図を送った。若者が、肩に掛けていた弓を外し、鏑矢を番える。
緊張が頂点に達する。
虫の声がやんだ。
月に向け、矢が放たれた。
ひゅうと甲高い音が、山間に響き渡った。
次の瞬間、アコイは駆けだした。一人のイェルフがそれに続き、残った二人は弓を引き絞る。
反対側から、ジイロともう一人のイェルフも駆けてくる。
焚き火で談笑していた二人の野伏が、異変に気付き、抜刀した。
そこに両側から二本ずつの矢が襲う。
一本の矢が、野伏の足を掠めた。
野伏が、軽い悲鳴をあげて身をかがめた。
「敵襲だ!」
野伏の一人が、叫び声をあげた。
ジイロの曲刀が唸る。
野伏が、太刀でその刃を受け止めた。
その背後から、もう一人のイェルフが斬りかかる。がっ、と鈍い音がして、野伏が仰け反った。
アコイも曲刀を一閃する。
足に矢を受けた野伏が、もんどりうって倒れた。彼が最期に見たものは、月明かりを受けて舞う、銀色の髪だった。
テントのなかで眠っていた野伏たちが、抜き身の太刀を手に跳びだしてきた。
そこへ矢が飛来する。命中こそしなかったが、彼らの行動を怯ませるには充分だった。
「敵は何人だ!?」
「まずい、囲まれたぞ!」
野伏たちは狼狽え、混乱していた。
見たところ、残りの戦力は十か十一。埋められない差ではない。ましてや、相手は突然の襲撃に浮き足立っている。
ジイロが、雄叫びとともに、一人の野伏に斬りかかった。誰かが焚き火を蹴飛ばし、辺りが月明かりのみの闇と化した。
これ以上、矢の援護はない。敵味方が乱戦状態になってしまったからで、もちろん手筈通りである。弓兵の四人も、すぐに駆けつけてくるだろう。
ジイロはひと振りで野伏を斬り捨てると、向かってきた別の野伏の太刀を、力で弾き返した。
虚を衝かれた野伏は、よろめき、思わず尻餅をついた。
その上に影が差した。てっきり仲間の誰かが助けにきたのだと思って、彼は引きつった笑みを浮かべた。
だがその目に映るのは、アコイの白刃だった。
「……!」
あちらこちらで、野伏たちの悲鳴や絶叫があがっていた。
アコイは曲刀に付いた返り血を払いながら、油断なく戦況に目を配った。
戦闘の中心はジイロだ。
その剣技は、むしろ斬るたびに冴え渡っていく。イェルフ族の秘宝を手に、月明かりに照らされて舞う姿は、銀色に輝く鬼神のようですらあった。
「うわっ!」
そのとき、聞き覚えのある悲鳴があがった。
仲間のイェルフが、肩を斬られ、その場にうずくまる。目の前には野伏がいて、太刀を振り上げている。
「危ない!」
アコイが走る。
だがひと足早く、ジイロが二者の間に跳び込んでいた。振り下ろされた刃を受け止め、押し返す。
野伏が、よろける。アコイが、その腹部に刃を突き立てた。
「怪我は?」
ジイロが、イェルフの若者に手を差し延べた。とりあえず致命傷には至ってないようで、安堵する。
他の仲間も手傷を負っている者が多い。
「ここまでか」
とりあえず、野伏たちに被害を与えることはできた。成果は充分だ。アコイは、撤退の合図である呼び子を取りだし、口に当てた。
そのときジイロの背後に、音もなく人影が立ちはだかった。
他の野伏たちより、頭ひとつは大きい。巨漢の男だった。
抜き身の太刀を、その頭上に振り下ろす。
「ジイロ!」
鈍色の鉄線。
男の目は、血の色に笑っている。
アコイは男に向かって踏み込んだ。
間に合う。この一撃を受け止めれば、後はジイロが何とかしてくれる。
そう確信した瞬間、男が身を屈め、太刀の軌道を変えた。
「なに!?」
男は予測していたのだ。アコイが飛び込んでくることを。
鉄の刃が、横からアコイの腹に叩きつけられた。
「ぐッ!」
強烈な衝撃とともに、体が宙に舞った。
視界が浮き上がった。
ジイロの絶叫が聞こえる。
刀と刀が打ちあう音。
怒号。
悲鳴。
妙に長い時間を掛けて、体は宙を舞い、背中から土の上に叩きつけられた。
衝撃が神経を揺さぶったが、不思議と痛みはなかった。
熱い。
この血の匂いは、返り血か、それとも己が命の流れでる証か。
呼び子を落としたことに、アコイは薄れゆく意識のなかで気付いた。