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かつてイェルフ族は、強大な魔術を駆使して世界の頂点に君臨していた。
しかし世代を重ねるに連れ、優秀な術師は減り、魔術や魔力そのものが衰退していった。長い寿命も高度な技術も失われた。
すると、それまで虐げられてきた人間たちが牙を剥いた。
数百年。
血で血を洗うような、激しい戦いが続いた。
だが、魔術に頼りきっていた代償か。数で勝る人間たちの勢いに圧され、イェルフ族はしだいに追い詰められていった。
住み処を逐われ、数多の命を奪われ、栄華を失った。
今やいくつかの小さな部族が、人里離れた奥地で細々と命脈を繋ぐのみ。
「ん……」
火の粉が爆ぜる音と、薬草の少しきつい香りで、ウタイは意識を取り戻した。
暖かい。
薄目を開ける。
焚き火の側で眠っていたらしい。
呆然と、その炎を見つめた。
夜。
脳裏に今までの出来事が順を追って蘇ってくる。それはまるで、ああ、そんなこともあったなという、子供の頃の思い出のように淡かった。
「……!」
ウタイは飛び起きた。
その瞬間、電流のような激痛に襲われた。
「うッ!」
咄嗟に両腕で上半身を掻き抱く。
全身の神経が捻じ切られるような、凄まじい痛みだった。
「く…あ……」
得体の知れない何かが、骨を噛み砕き、肉を食い荒らしていく。
ぎゅっと目を閉じ、歯を食い縛る。
「ぐうう……うう……」
必死で耐えていると、その甲斐あってか、徐々に痛みが引いていった。
「うう……」
助かった、のか……?
どうやら体はバラバラにならずに済んだらしい。もっとも、精神の方が先に崩壊していたかもしれないが。
「……ふう……」
少し様子を見て、痛みが完全に去ったことを確信すると、安堵の息を吐く。
「死ぬかと思った」
今まで経験したことのない痛みだった。
ようやく落ち着きを取り戻したウタイは、自らの状態を確認した。
「これは……」
怪我をしていた箇所に、丁寧に包帯が巻かれている。
「無理に動くと、傷口が開くぞ」
「!」
横あいから男の声がした。
「誰っ!?」
ウタイは思わず身構えたが、
「いッ……!」
再び、悶絶するほどの激痛に見舞われた。
「くぅ……」
「動くなと言っているだろう」
男が呆れたように言う。
焚き火に枝を投げ入れる。
「……あなた誰? あいつらの仲間?」
痛みが引くのを待ってから、ウタイはその人間の男を睨みつけ、問い質した。
「あんな連中といっしょにするな」
男は火にかけていた小さな鍋から、湯気の立っているスープを椀にそそぎ、彼女に差しだした。
「食え」
短く言う。陰にこもった声だった。
薬草スープの香りが、鼻孔をくすぐった。
「誰が人間の作ったものなんか」
ウタイは顔を背けた。
腹が鳴った。
「…………」
「うう……」
空腹には勝てない。
ウタイは、男から椀を受け取ると、中身をひと口含んだ。
「あつっ」
「焦らなくても、スープは逃げたりしない」
笑うでもからかうでもなく、男は淡々と言う。嫌味な言い回しだ。
「大きなお世話よ」
少し冷ましてから、ウタイは一気に中身を飲み干した。
香りの割りに、味は薄かったように思う。吟味する余裕などなかったが。
「おかわりは?」
「…………」
無言で椀を突きだすと、男は二杯目をよそった。
四杯目を飲み終えるまで、二人はひと言も言葉を交わさなかった。ようやくウタイがひと心地つくと、男は椀を受け取り、スープをよそって自らの口に運んだ。
「ちょっと、それ、私が口付けた……」
男は聞いていない。
ウタイは不快げに眉をひそめた。所詮、粗野な人間か。
「……あなたが手当てしてくれたの?」
「成り行きでな」
ウタイは改めて男を観察した。
三十歳くらいだろうか。痩せぎすで細面だが、目は鋭く落ち窪んでいて、陰気な印象を受ける。
肌は血を抜いたように青白い。唇には艶がなく、かさかさに乾いている。
さながら、死人の如き男だった。
出で立ちも、随分くたびれている。野伏というより、放浪者の類いかもしれない。
もっとも出で立ちという点では、ウタイも負けず劣らずひどい有り様だ。自慢の銀髪には枝や葉が絡みつき、服はボロボロに破れ、方々に血痕がこびりついている。
慎重に怪我の具合を確かめる。やはりあちこちが痛んだ。特に左足を動かそうとすると、とてつもない激痛が走った。
ウタイがもがいていると、男は冥府からの使者のような声で言った。
「無闇に傷口に触って悪化させるなよ。骨は折れてないが、下手をすると切り落とすことになるぞ」
「……!」
ウタイは、カッとなって男を睨みつけた。
「大きなお世話だって言ってんでしょ!」
ショックよりも、男の気遣いのない言い方に腹が立った。
この男は悪くない、とは思わない。こいつも忌まわしい人間の一人なのだから。
男はスープを飲み干すと、椀を置いた。
「おまえの名は?」
「…………」
「俺はポロノシューだ」
訊いてもいないのに、男は自ら名乗った。どこかで聞いた名だと思いながら、だからといって、自分の名を名乗る気にはなれなかった。
「わたしをどうするつもり?」
ウタイは胸の辺りを腕で庇いつつ、周囲に目を配った。
隙を突いて、このポロノシューと名乗った男の曲刀を奪って、殺してやる。そういう心構えの目である。
「イェルフというのは、どいつもこいつも礼儀知らずだな」
ポロノシューがそう言って、微かに笑った。
「人間のくせに、知ったふうなことを言うな!」
ウタイは手元の石を掴むと、思い切り腕を振り上げた。
「いっ……」
しかしまた何度目かの激痛が走り、拾った石を落としてしまう。
「懲りない奴だ」
「うるさ……う……」
今度は、吐き気を催した。
胃の内容物を戻しそうになったが、この男の前で不様な姿は見せたくない。口と腹を押さえ、ウタイは必死に堪えた。
しばらく耐えていたら、徐々に吐き気は治まっていった。
ほっとして顔を上げると、すでにポロノシューは横になり、背を向けて眠っていた。
「こいつ、バカにして……」
今すぐこの場で天誅を下してやろうか。
だが現状では不可能だ。少し体に力を込めるだけで、激痛がぶり返してくる。
とりあえず様子を見るしかないだろう。この男も、今のところ、こちらに危害を加える素振りはなさそうだし。もちろん、信用するつもりなど微塵もないが。
「ふん」
ウタイは慎重な動作で毛布の上に横たわり、その上からさらに毛布を被った。思った以上に暖かい。
ちなみにポロノシューは、土の上に寝転がっているだけだ。
その背中を見ていると、また感情が昂ってきそうなので、痛みを堪えつつ寝返りを打った。
全ては明日だ。明日になれば、きっと左足も治っているに違いない。
ウタイは夜空を見上げた。
満天の星空。
故郷で見ていた空。
殺された母が、口癖のように、人間など信用するなと言っていたのを思いだす。
不意に涙が込み上げてきた。
ウタイは、乱暴に目を擦った。