表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イェルフと心臓  作者: チゲン
第一部 イェルフと心臓
13/61

13頁

 ウタイは、周囲を警戒しながら、慎重に老木のうろから這いでた。

 押し潰したような静けさが漂っている。

「終わったの?」

 鳥も虫も動物も、全ての生命が動けずにいた。そのなかで動いているのは、風になびくウタイの銀色の髪だけだった。

「う……」

 突然、胸に激痛が走った。

 ウタイは左胸を押さえつけた。

 喉の奥から、熱い液体がせり上がってくる。

 苦しい。

 息ができない。

「がっ!」

 吐血した。

 大量の血が地面に飛び散った。

「があッ!」

 痛みのあまり、地面の上を、のたうちまわった。

「うああ……」

 心臓が、ねじ切れそうだ。

 視界が白濁に染まっていく。

 急激な速度で、死が迫ってくる。

「……死んでたまるか……」

 喉から声を搾りだす。言葉は途切れ途切れで、音にならない。

「たまる…か……」

 まだ、死ぬ訳にはいかない。

 ウタイは歯を食い縛った。唇が切れ、血が流れた。

「たす…けてよ……」

 こんなところで死んでたまるか。

 こんなところで……。

 こんなところで!

「うう……」

 どのくらい続いただろう。

 やがて徐々に痛みが引いていった。

 仰向けになって、ウタイは大きく深呼吸をした。肺のなかが新鮮な空気に満たされ、初めて彼女は、空気の美味さを知った。

「死ぬかと思った……」

 まだ胸が、しくしくと痛む。

 土を踏みしだいて足音が近付いてくる。ゆるい、しかし力強いこの足音は、ポロノシューのものだろう。

「遅かったわね」

 ウタイは無理して上半身を起こすと、呼吸を整え、平静を装いつつ戦士を迎えた。だが彼の姿を目にした途端、思わず息を詰まらせてしまった。

 ポロノシューは全身血まみれだった。

 返り血だけではない。自身から流れでる血で、染料をぶちまけたように赤黒く染め上がっていた。

 もはや掛ける言葉さえない。

「……さすがは不老不死の男ね」

 ややあって、ようやくそれだけ言えた。

「俺が不老不死だと?」

「そうよ」

 ウタイは軽く吐息する。

「それだけの大怪我……普通ならとっくに死んでるわ」

 ここまで証拠を突きつけられたら、もう認めるしかない。ウタイは確信した。

「俺は、不老不死でも何でもない」

「もう隠さなくたっていいわよ」

 ウタイは肩を竦めた。認めてしまったら気持ちが楽になった。むしろ、なぜ今までかたくなに拒絶していたのか、不思議にさえ思えてきた。

 それでもポロノシューは表情を崩さない。

 彼のただでさえ暗い目の輝きが、いつもよりさらに闇を濃くしているような気がした。

 にわかに不安になってくる。

「俺もおまえも不老不死なんかじゃない」

 一瞬、彼の言葉を理解できなかった。

「……なんで、わたし? どういう意味?」

「薄々感づいているんだろう」

「何を?」

「おまえの体は、もう長くない」

「…………」

 ウタイは、たいして驚かなかった。

 常識外れなことばかりで、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。

 いや、彼の言う通り、すでに予感していた。自らの死が近いということを。

「やっぱり、わたし……もう助からないんだ」

「最初に助けたときには、すでに手遅れだった」

「そっか……」

 声に力がない。

 しっかりしろ。ウタイは叫ぶ。

 胸が痛む。この痛みは、確実に彼女を死へと誘っている。

「でも、その割りには、しぶとく頑張ってるって……」

 おどけて見せようとして、言葉を詰まらせた。

 無理に笑おうとして、涙がにじんだ。

「おまえが毎日飲んでいたあのスープには、どんな怪我や病をも治すと言われる秘薬が入っていたからな」

「えっ?」

 ウタイの表情が強張った。

「おまえは、本来ならとっくに死んでいた。それをその秘薬で、無理に延命していたんだ」

「そんな……」

 気が遠くなった。

 死については、ある程度、覚悟ができていた。だがこの事実は、矢よりも鋭くウタイの胸をえぐった。

「じゃあ、わたしの体は……」

「痛むか」

 ポロノシューは、ウタイの側にしゃがみ込むと、彼女の左胸にそっと手を当てた。

 なぜか安心した。

 痛みが和らいでいく気がした。

「この薬は、心臓に大きな負担を掛ける。もっとも、さすがの秘薬でも、消えゆく命までは救いきれなかったようだ…が……」

 突然、ポロノシューが口元を押さえて、激しく咳き込んだ。

「どうしたの?」

「ぐふッ!」

 怪訝けげんそうなウタイの前で、彼は突然吐血した。

「!」

 指の間から、おびただしい量の黒血が溢れ、大地を濡らす。

 あまりに唐突な出来事に、ウタイは目を逸らすことさえできなかった。

 ポロノシューは、しばらく血を吐いた。血の気の薄い顔からは想像もできないほど、大量の血だった。ウタイが吐いた量の比ではない。

「俺の体も、そろそろ限界のようだ」

 荒い呼吸の下から、ポロノシューは喘ぐように言った。

「どういうこと!?」

「長い間秘薬を飲み続けたせいで、もう体がボロボロなのさ。薬の効果が及ばなくなっているんだ」

「不老不死の薬なんでしょ。だったらなんで……」

「そんな都合のいいものは存在しない。肉体をちょっと強靭にするだけだ」

 ポロノシューは深く嘆息した。その顔は氷のように白かった。

「むしろ、よく今まで体がもったと言うべきだな」

「うそ。怪我のせいよ。わたしを守るために……」

「何もしなくても、時間の問題だったさ」

「まだ判んないじゃない。今からでも薬を飲めば……」

「今朝ので最後だ」

「だったら、何でわたしなんかに飲ませたのよ!」

 ウタイは叫んだ。

「何で自分で飲まなかったのよ……」

 その他人事のように落ち着き払った顔を見ていると、心が張り裂けそうだった。

「イェルフにこの薬が効くかどうか、試してみたかったのさ」

 ポロノシューは自嘲気味に呟いた。

「何よそれ……」

 彼女は思いだしていた。イェルフ族の娘とある男の、悲しい物語を。

「あなたは……」

「何だ?」

「……ううん。あなたが前に話してた男の人って、イェルフの娘のこと、ほんとに愛してたの?」

「…………」

 二人は、食い入るように見つめあった。ウタイはやっと、その瞳の奥に生命の光が宿っていたことに気付いた。

「愛していたんだろうな」

 遠い誰かに語りかけるように、ポロノシューは言った。

「だから自分も薬を飲んで死のうとしたの?」

「さあな」

「…………」

「俺に判るのは、その男が異形の体になったとき、生き続けようと決心したことだけだ」

「どうして?」

「見ていくためさ。人間とイェルフを」

「人間とイェルフ……」

 そうして長い年月を、彼は費やしてきたのだろう。

 二百年。

 三百年。

 ずっと。

「それで、何が見えたの?」

 イェルフは訊いた。

 人間は答えた。

「同じだ。人間もイェルフも、同じだということが見えた」

「聞き捨てならないわね」

 ポロノシューは目を細めた。

 穏やかな顔をしているとウタイは思った。

「秘宝さえなければ」

「えっ?」

「イェルフの秘宝さえなければ、何か変わるんじゃないか?」

「…………」

 不意に涙がこぼれた。

 自分が死ぬと判っても堪えることができたのに。なんで今、こんな簡単にこぼれてしまったんだろう。

 ウタイはポロノシューの手を取った。

 冷たく、白かった。

「成り行きとか言ってたけど、あなた本当は、初めからわたしを助けてくれるつもりだったんじゃないの?」

「…………」

「ねえ、最後なんだから……ちゃんと答えてよ」

「人間とイェルフは共存できると思うか?」

 答える代わりに、彼はいつぞやと同じことを尋ねてきた。

 ウタイは、うつむいて、少し考えてから顔を上げた。

「判んないわ。あなたはどうなの?」

「俺も判らない」

「何それ」

「できるかできないかは、俺が決めることじゃない」

「…………」

 絶望している訳ではない。ポロノシューは、希望に満ちた目をしていた。

 だからウタイは、意を決することができた。

「わたし、絶対に南の里まで辿り着いてみせる」

 イェルフ族を助けるために。

 そのために今日まで生き長らえてきたのだから。

「ここからは、おまえ一人だ。夜通し歩けば明日には着く。さすがにもう追っ手も来ないだろう」

「わたしの体は、そこまでもつの?」

「もたないだろうな」

「ちょっと、無責任なこと言わないでよ」

「だから、今から俺が言うことをよく聞け」

 ポロノシューは腰の曲刀を差しだした。

「俺が死んだら、これで俺の心臓を取りだせ」

「えっ?」

 思わず耳を疑った。

「今、何て言ったの?」

「心臓を取りだせと言ったんだ」

「ば…ばか言わないでよ!」

 だが口にした当人の顔は、至って真面目だ。

「この薬は、心臓に大きな負担を掛けると言っただろう。それを長年飲み続けてきたんだ。俺の心臓には、薬の成分がたっぷり染み込んでいる。だから、それを食え」

「な……」

「俺の心臓を食えば、明日の朝くらいまではいけるはずだ」

「そ…そんなこと、できる訳ないじゃない!」

「やるんだ。でないと、南の里に着くまで体がもたない」

 頭の芯に鈍痛が走った。

 確かに、ウタイ自身、この体がいつ終わりを迎えてもおかしくないことは感じていた。

 だが。

「心臓を食べろだなんて」

 正気の沙汰じゃない。

「嫌よ」

「だったら、ここで俺といっしょに死ぬんだな。そしてきっと、南の里も人間に滅ぼされる。おまえの里と同じように」

「……!」

 ウタイはポロノシューの手から曲刀を奪い取ると、その切っ先を彼の眼前に突きつけた。

 ポロノシューは、その澄んだ刃でなく、ウタイの目をじっと見つめている。

「ふざけないで……」

 ウタイの目から、また涙がこぼれ落ちた。

 曲刀の切っ先が揺れた。

 ゆらゆら。

 ゆらゆらと。

「ふざけないでよ……」

 涙はひと粒、またひと粒と落ち、大地に冷たい跡を残す。

「他に方法はないの?」

「ない」

「最後までついてきてくれないの?」

「……悪いな」

「契約違反じゃない」

「ああ、そうだ」

 ポロノシューの輪郭りんかくが、ぼやけていた。

 だから彼が微笑んだように見えたのは、気のせいだったかもしれない。

「けっこう、楽しみにしていたんだがな」

 その声は優しかった。ずっと昔から、彼女を見守ってくれていたかのように。

「……何を?」

「報酬をさ。しくじったな。やはり前払いで貰っておくべきだった」

「秘宝? それとも、わたしの体?」

「両方だ」

「欲張りすぎでしょ」

「それが人間ってもんさ」

「ばか」

 泣きながら、ウタイは笑った。

「ためらうなよ。俺の体が暖かいうちにやれ」

 それが彼の最期の言葉だった。

 ポロノシューの生命が、音を立てて崩れ落ちた。彼が死んだ瞬間、ウタイはそんな錯覚に捕らわれた。

「か弱い女を残して、勝手に死なないでよね」

 男の死に顔は無表情だった。

 ウタイは身をかがめ、その唇に、そっと唇を重ねた。

 そして曲刀を逆手に構えると、高々と振り上げた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ