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ウタイは、周囲を警戒しながら、慎重に老木のうろから這いでた。
押し潰したような静けさが漂っている。
「終わったの?」
鳥も虫も動物も、全ての生命が動けずにいた。そのなかで動いているのは、風になびくウタイの銀色の髪だけだった。
「う……」
突然、胸に激痛が走った。
ウタイは左胸を押さえつけた。
喉の奥から、熱い液体がせり上がってくる。
苦しい。
息ができない。
「がっ!」
吐血した。
大量の血が地面に飛び散った。
「があッ!」
痛みのあまり、地面の上を、のたうちまわった。
「うああ……」
心臓が、ねじ切れそうだ。
視界が白濁に染まっていく。
急激な速度で、死が迫ってくる。
「……死んでたまるか……」
喉から声を搾りだす。言葉は途切れ途切れで、音にならない。
「たまる…か……」
まだ、死ぬ訳にはいかない。
ウタイは歯を食い縛った。唇が切れ、血が流れた。
「たす…けてよ……」
こんなところで死んでたまるか。
こんなところで……。
こんなところで!
「うう……」
どのくらい続いただろう。
やがて徐々に痛みが引いていった。
仰向けになって、ウタイは大きく深呼吸をした。肺のなかが新鮮な空気に満たされ、初めて彼女は、空気の美味さを知った。
「死ぬかと思った……」
まだ胸が、しくしくと痛む。
土を踏みしだいて足音が近付いてくる。ゆるい、しかし力強いこの足音は、ポロノシューのものだろう。
「遅かったわね」
ウタイは無理して上半身を起こすと、呼吸を整え、平静を装いつつ戦士を迎えた。だが彼の姿を目にした途端、思わず息を詰まらせてしまった。
ポロノシューは全身血まみれだった。
返り血だけではない。自身から流れでる血で、染料をぶちまけたように赤黒く染め上がっていた。
もはや掛ける言葉さえない。
「……さすがは不老不死の男ね」
ややあって、ようやくそれだけ言えた。
「俺が不老不死だと?」
「そうよ」
ウタイは軽く吐息する。
「それだけの大怪我……普通ならとっくに死んでるわ」
ここまで証拠を突きつけられたら、もう認めるしかない。ウタイは確信した。
「俺は、不老不死でも何でもない」
「もう隠さなくたっていいわよ」
ウタイは肩を竦めた。認めてしまったら気持ちが楽になった。むしろ、なぜ今まで頑なに拒絶していたのか、不思議にさえ思えてきた。
それでもポロノシューは表情を崩さない。
彼のただでさえ暗い目の輝きが、いつもよりさらに闇を濃くしているような気がした。
にわかに不安になってくる。
「俺もおまえも不老不死なんかじゃない」
一瞬、彼の言葉を理解できなかった。
「……なんで、わたし? どういう意味?」
「薄々感づいているんだろう」
「何を?」
「おまえの体は、もう長くない」
「…………」
ウタイは、たいして驚かなかった。
常識外れなことばかりで、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
いや、彼の言う通り、すでに予感していた。自らの死が近いということを。
「やっぱり、わたし……もう助からないんだ」
「最初に助けたときには、すでに手遅れだった」
「そっか……」
声に力がない。
しっかりしろ。ウタイは叫ぶ。
胸が痛む。この痛みは、確実に彼女を死へと誘っている。
「でも、その割りには、しぶとく頑張ってるって……」
おどけて見せようとして、言葉を詰まらせた。
無理に笑おうとして、涙が滲んだ。
「おまえが毎日飲んでいたあのスープには、どんな怪我や病をも治すと言われる秘薬が入っていたからな」
「えっ?」
ウタイの表情が強張った。
「おまえは、本来ならとっくに死んでいた。それをその秘薬で、無理に延命していたんだ」
「そんな……」
気が遠くなった。
死については、ある程度、覚悟ができていた。だがこの事実は、矢よりも鋭くウタイの胸をえぐった。
「じゃあ、わたしの体は……」
「痛むか」
ポロノシューは、ウタイの側にしゃがみ込むと、彼女の左胸にそっと手を当てた。
なぜか安心した。
痛みが和らいでいく気がした。
「この薬は、心臓に大きな負担を掛ける。もっとも、さすがの秘薬でも、消えゆく命までは救いきれなかったようだ…が……」
突然、ポロノシューが口元を押さえて、激しく咳き込んだ。
「どうしたの?」
「ぐふッ!」
怪訝そうなウタイの前で、彼は突然吐血した。
「!」
指の間から、おびただしい量の黒血が溢れ、大地を濡らす。
あまりに唐突な出来事に、ウタイは目を逸らすことさえできなかった。
ポロノシューは、しばらく血を吐いた。血の気の薄い顔からは想像もできないほど、大量の血だった。ウタイが吐いた量の比ではない。
「俺の体も、そろそろ限界のようだ」
荒い呼吸の下から、ポロノシューは喘ぐように言った。
「どういうこと!?」
「長い間秘薬を飲み続けたせいで、もう体がボロボロなのさ。薬の効果が及ばなくなっているんだ」
「不老不死の薬なんでしょ。だったらなんで……」
「そんな都合のいいものは存在しない。肉体をちょっと強靭にするだけだ」
ポロノシューは深く嘆息した。その顔は氷のように白かった。
「むしろ、よく今まで体がもったと言うべきだな」
「うそ。怪我のせいよ。わたしを守るために……」
「何もしなくても、時間の問題だったさ」
「まだ判んないじゃない。今からでも薬を飲めば……」
「今朝ので最後だ」
「だったら、何でわたしなんかに飲ませたのよ!」
ウタイは叫んだ。
「何で自分で飲まなかったのよ……」
その他人事のように落ち着き払った顔を見ていると、心が張り裂けそうだった。
「イェルフにこの薬が効くかどうか、試してみたかったのさ」
ポロノシューは自嘲気味に呟いた。
「何よそれ……」
彼女は思いだしていた。イェルフ族の娘とある男の、悲しい物語を。
「あなたは……」
「何だ?」
「……ううん。あなたが前に話してた男の人って、イェルフの娘のこと、ほんとに愛してたの?」
「…………」
二人は、食い入るように見つめあった。ウタイはやっと、その瞳の奥に生命の光が宿っていたことに気付いた。
「愛していたんだろうな」
遠い誰かに語りかけるように、ポロノシューは言った。
「だから自分も薬を飲んで死のうとしたの?」
「さあな」
「…………」
「俺に判るのは、その男が異形の体になったとき、生き続けようと決心したことだけだ」
「どうして?」
「見ていくためさ。人間とイェルフを」
「人間とイェルフ……」
そうして長い年月を、彼は費やしてきたのだろう。
二百年。
三百年。
ずっと。
「それで、何が見えたの?」
イェルフは訊いた。
人間は答えた。
「同じだ。人間もイェルフも、同じだということが見えた」
「聞き捨てならないわね」
ポロノシューは目を細めた。
穏やかな顔をしているとウタイは思った。
「秘宝さえなければ」
「えっ?」
「イェルフの秘宝さえなければ、何か変わるんじゃないか?」
「…………」
不意に涙がこぼれた。
自分が死ぬと判っても堪えることができたのに。なんで今、こんな簡単にこぼれてしまったんだろう。
ウタイはポロノシューの手を取った。
冷たく、白かった。
「成り行きとか言ってたけど、あなた本当は、初めからわたしを助けてくれるつもりだったんじゃないの?」
「…………」
「ねえ、最後なんだから……ちゃんと答えてよ」
「人間とイェルフは共存できると思うか?」
答える代わりに、彼はいつぞやと同じことを尋ねてきた。
ウタイは、俯いて、少し考えてから顔を上げた。
「判んないわ。あなたはどうなの?」
「俺も判らない」
「何それ」
「できるかできないかは、俺が決めることじゃない」
「…………」
絶望している訳ではない。ポロノシューは、希望に満ちた目をしていた。
だからウタイは、意を決することができた。
「わたし、絶対に南の里まで辿り着いてみせる」
イェルフ族を助けるために。
そのために今日まで生き長らえてきたのだから。
「ここからは、おまえ一人だ。夜通し歩けば明日には着く。さすがにもう追っ手も来ないだろう」
「わたしの体は、そこまでもつの?」
「もたないだろうな」
「ちょっと、無責任なこと言わないでよ」
「だから、今から俺が言うことをよく聞け」
ポロノシューは腰の曲刀を差しだした。
「俺が死んだら、これで俺の心臓を取りだせ」
「えっ?」
思わず耳を疑った。
「今、何て言ったの?」
「心臓を取りだせと言ったんだ」
「ば…ばか言わないでよ!」
だが口にした当人の顔は、至って真面目だ。
「この薬は、心臓に大きな負担を掛けると言っただろう。それを長年飲み続けてきたんだ。俺の心臓には、薬の成分がたっぷり染み込んでいる。だから、それを食え」
「な……」
「俺の心臓を食えば、明日の朝くらいまではいけるはずだ」
「そ…そんなこと、できる訳ないじゃない!」
「やるんだ。でないと、南の里に着くまで体がもたない」
頭の芯に鈍痛が走った。
確かに、ウタイ自身、この体がいつ終わりを迎えてもおかしくないことは感じていた。
だが。
「心臓を食べろだなんて」
正気の沙汰じゃない。
「嫌よ」
「だったら、ここで俺といっしょに死ぬんだな。そしてきっと、南の里も人間に滅ぼされる。おまえの里と同じように」
「……!」
ウタイはポロノシューの手から曲刀を奪い取ると、その切っ先を彼の眼前に突きつけた。
ポロノシューは、その澄んだ刃でなく、ウタイの目をじっと見つめている。
「ふざけないで……」
ウタイの目から、また涙がこぼれ落ちた。
曲刀の切っ先が揺れた。
ゆらゆら。
ゆらゆらと。
「ふざけないでよ……」
涙はひと粒、またひと粒と落ち、大地に冷たい跡を残す。
「他に方法はないの?」
「ない」
「最後までついてきてくれないの?」
「……悪いな」
「契約違反じゃない」
「ああ、そうだ」
ポロノシューの輪郭が、ぼやけていた。
だから彼が微笑んだように見えたのは、気のせいだったかもしれない。
「けっこう、楽しみにしていたんだがな」
その声は優しかった。ずっと昔から、彼女を見守ってくれていたかのように。
「……何を?」
「報酬をさ。しくじったな。やはり前払いで貰っておくべきだった」
「秘宝? それとも、わたしの体?」
「両方だ」
「欲張りすぎでしょ」
「それが人間ってもんさ」
「ばか」
泣きながら、ウタイは笑った。
「ためらうなよ。俺の体が暖かいうちにやれ」
それが彼の最期の言葉だった。
ポロノシューの生命が、音を立てて崩れ落ちた。彼が死んだ瞬間、ウタイはそんな錯覚に捕らわれた。
「か弱い女を残して、勝手に死なないでよね」
男の死に顔は無表情だった。
ウタイは身をかがめ、その唇に、そっと唇を重ねた。
そして曲刀を逆手に構えると、高々と振り上げた。