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もうどれくらい、山のなかをさ迷っているだろう。
イェルフ族の娘ウタイは、銀色の髪を振り乱しながら考えた。
少し尖った耳をそばだてる。
追っ手の足音。
一人。いや、二人。
「人間め……!」
木々の間を走り抜けながら、絞りだすように吐き捨てた。それだけ言うのがやっとだった。
「うっ……」
痛みに顔をしかめる。
まだ真新しい刀傷や打撲、転んだ際に負った擦り傷に切り傷……まさに満身創痍だった。傷口から流れた血を吸い、衣服は赤黒く変色していた。
体力も底を尽きかけている。
特に左の腿がじくじくと痛んだ。刺さった矢を、強引に抜いたのがいけなかったのかもしれない。
それでも、左足を引きずりながらでも、走るしかなかった。
三日間。無我夢中で逃げてきたのだ。
元々ウタイたちは、北の山中にある隠れ里でひっそりと暮らしていた。彼女はその里長の娘だった。
ところが三日前、何の前触れもなく人間……賊徒と化した野伏の集団が里を襲った。
抵抗らしい抵抗もできず、里はあっという間に焼かれ、同胞も女子供の見境なく虐殺された。
ウタイの家族も殺された。
目的は恐らく、イェルフの秘宝。
彼女の里に伝わる秘宝は、一撃で山をも吹き飛ばすという伝説の杖。しかし、その使い方を知る者はなく、もはやただの古ぼけた骨董品だった。
人間は、なぜあんな無用の長物を欲しがるのだろう。共に逃げていた仲間の青年は、そう呟いて首を傾げた。呟いた直後、傾げた首を矢で射られた。
「この山を越えれば……」
何度もバランスを崩し、よろけながら、それでもウタイは走った。
野伏の気配が二つ、背後に迫っている。
すぐ後ろにいる。
「この山を越えれば。この山を越えれば……」
うわ言のように、繰り返し呟く。
この山を越えても目指す場所はまだ遠い。それでもウタイは呟いた。
野伏たちの息遣い。
ぐじゅぐじゅとした黒い恐怖が、頭のなかでダンスをする。くだらない旋律に、ウタイの顔が歪む。
殺すつもりなら、とっくにやっている。こいつらは傷付いた獲物を弄んでいるだけだ。
「狂ってる!」
ウタイは腹の底から叫んだ。
左の脇腹を矢が掠めた。
「あうっ!」
山肌に倒れ込んだ。
そこを二人の野伏に組み伏せられた。
土を掻き、地面を這った。爪の間に土が食い込んだ。
「女だ」
「女だ」
二人の野伏が、喜々とした笑みを浮かべる。狂気の笑みだとウタイは思った。
「イェルフの女は、どんなんだろう」
「どんなんだろうなあ」
生温い吐息が、首筋を撫でた。
悪寒が頭の先から脊髄を駆け抜けた。
「助けて、誰か助けて。わたしを殺して。はやく、はやく!」
その言葉は、虚しい魂の叫び。絶望の導手たる野伏たちにさえ届かない。
「誰か!」
一陣の風が唸った。
トサリ。
何か黒い物体が、ウタイの顔の間近に落ちた。
野伏の首だった。
「!」
ウタイは息を呑んだ。
「な……!」
ズボンを脱ごうとしていたもう片方の野伏が、慌てて立ち上がり、太刀の柄に手を掛けた。
再び風が唸る。
野伏の首が飛び、宙を舞い、顎の先から土の上に落ちた。落ちた拍子に、自らの舌を噛みちぎった。
その返り血を顔面に受け……ウタイは、ゆっくりと気を失った。
薄れゆく視界に、血刀を手にした男の姿を映しながら。