第三話:潮風薫る春に 三部
見ているだけではわからいモノがある。どれだけ美しいモノだって、それは幻かもしれない。どれだけ醜いモノだって、それは埃を被った宝石かもしれない。それに気付かないのは罪ではない。それはただの彷徨い人。
ペンションの裏口には屋根修理などの時にしか使用されないハシゴがある。
屋根の上なら風をよく感じられるし、その上呼び出されても声がよく聞こえる距離であるので、一人になるにはうってつけの場所だ。
「あれ? はしごが掛かってるな」
いつもなら折りたたまれて壁にもたれかかっているはずの茶色に錆びたハシゴが、空に向かって伸びていた。
ペンションの職員達は今忙しいはずなのでそれ以外の一般人かもしれない。
でも、ここの職員以外で俺のお気に入りの場所を知っている奴など『あいつ』しか思い当たらない。
「――――――――まさか、な……」
たぶん職員の誰かが仕舞うのを忘れたに違いない。
そう自分を説得するように心の中で自問自答しながらハシゴにゆっくり一段一段足をかけていく。
登りきる手前の場所でやはり俺は躊躇する。
『あいつ』がいるのを俺は恐れているのだ。
思い出す度に頭の奥がネジを捻じ込まれるような痛みともとれない違和感が襲う。
まるで本能が『あいつ』を恐れているような、そう錯覚してしまうほどの眩暈。
視界が揺らぐほどの眩暈で俺は一瞬バランスを崩す、
「うわっ!」
時が止まったような感覚、一瞬の出来事だった。
「危ねぇ」
間一髪、俺の腕はハシゴの傍を伸びていたパイプを掴んでいた。
「大丈夫ですか?」
つい最近聞いた気がする声が頭上から聞こえた。
見上げると俺が今日ここに来た時に出迎えた少女だった。
気のせいだろうか、眼が潤んでいるよう見えた。
「別に問題ない。それよりここで何してる? 他の職員は忙しそうにしてるってのに」
「私は、ちょっと考えごとを。準さんこそこんなところで何を?」
「俺は風に当たりに来ただけだ。というわけでどいてくれない? そこに居られると登れないんだけど」
「あ、はい、すみません。気がつかなくって」
申し訳なさそうに頭を下げながら身を引く。
屋根の傾斜はそれほど高くないので危なくないが、足を滑らせて転がり落ちれば二階建てとはいえ大怪我は免れない。
それを考慮しながら俺は久しいお気に入りの場所に足を踏み入れる。
塩辛い微かな風が体の奥まで染みていくような、まるで傷口に消毒液で浸したガーゼを当てたような、そんな感じが今でもこの場所では変わらずに根を張っていた。
俺は芸術のセンスなどハッキリ言って皆無だが、ここから見える風景と、その風景が感じさせてくれる感触だけは言葉で言い表せないようなモノを俺は感じていた。
「ここの風気持ちいいですよね?」
「……まあな」
俺は海から顔を出す太陽が見られる絶好の位置に座る。
と言っても太陽など見えるわけもなく、見えるのは街の街路灯が生み出す煌びやかな文化の発展の象徴を示す風景。
俺が座る位置から近すぎず遠すぎずの絶妙の間隔を空けてその少女は腰をおろす。
「好きなんですか? この場所」
「……」
俺はそれに答えなかった。
答えたくなかったわけじゃない、ただ言葉が出なかった。
『好き』なんて薄い言葉で肯定したくはなかった。
もし肯定したらこの場所だけじゃない、自分の全てが否定されるようなそんな気がした。
こんなのただの被害妄想だろうが、俺にはそれでも肯定の言葉を口にしたくはなかった。
もしこの場所に対する俺の感情を表すとしたら、それは――――――、
「―――――――――――――大切」
『好き』に酷似しているようで俺の中では全く違う言葉。
「何か仰いましたか?」
「……別に」
『大切』とは自分と対象を同等と思い慕う感情、『好き』とはただ求めるだけの感情。
そう俺の中では思っていた。
「それじゃあ、そろそろ戻ります。たぶんそろそろ呼ばれると思いますので、ご準備していてくださいね」
尻をはたく音とともに少女は俺に言った。
少女は俺が反応しないのを確認するとハシゴを降りていく音が遠のいていく。
別に準備することもないので、呼ばれるまでここで待つことにしよう。
両腕を頭の上に回して、汚れているのも気にせず体重を預ける。
夜空には星が薄っすらと砂の上に浮かぶ砂鉄のように輝いていた。
それはとても小さいくせに自慢げに金色の光を降らしている。
手をかざして比べてみても、俺の手のほうが大きい。
なのに俺はそれがとても羨ましかった。
そして神々しいその姿に、俺は嫉妬さえ覚えていたんだ。
俺の心の内で這い回る黒いモノ、それさえも寄せ付けないほどに高貴な星たち。
俺は星たちが体現するその『純粋』さに心惹かれているんだろう。
昔の自分を嫌いながらも、求めている俺がいる。
心中で生まれた矛盾に俺は嫌悪し、自分の髪を乱暴にむしり掻く。
こんな気持ちは昔の『あの事件』以来だ。
俺が最も恐れ、最も嫌い、最も大切なあの過去。
今でも思い出そうとすると頭痛が走るくらい、俺はあの日を嫌っている。
だからこそ、今日俺がここにいるのはその苦痛という名の足枷を外すためだ。
それだけのために俺は自ら一生足を踏み入れたくなかったこの町に来たんだ。
そう、それが俺の使命、俺のケジメ。
「さて、そろそろか」
下から聞こえる乱雑な声の行き交いが収まったのを見計らい、俺はこのままここで居眠りしないよう上半身を起こす。
そしてもう一度、夜空を首を上げて見上げる。
胸の奥で締め付けられるような痛みを感じたような気がした。
ご意見ご感想お待ちしてます。




