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第二話:潮風薫る春に 二部

他人をいじめる人はいじめられた経験がある人である。同じように他人を嫌う人は嫌われた経験がある。人は表面上の事実しか把握できないためそれに気付かず,むやみやたらにそういう人を敬遠する。それがその人にとってどれだけの苦痛であるかも知らず。

「久しぶりだね。随分大きくなったじゃないか。ちょうど頼もしい男手が欲しかったんだよ」


俺が挨拶に来るなり嬉しそうに俺と握手を交わす大きな体格の男性、岸辺弥太郎さん。


「そうね。これだけ体格もガッチリしてるなら遠慮なく力仕事も任せられるわ」


その妻、岸辺美佐子さんも俺の体をベタベタと触りながらそう言う。


「あの、それで仕事は今日早速するんですか?」


「何を言っているんだい? 今日は準君の歓迎会やるんだから、準君はゆっくり休んでいてくれてかまわない」


「そうよ、いくらなんでも来て初日に仕事を頼むほど私たちは悪魔じゃないわよ」


弥太郎さんの言葉に念を押すように美佐子さんは言う。


俺としてもあの坂を上って足が棒になってるこんな状態で手伝いなどする気はなかったが、一応念のために尋ねたまでである。


「じゃあ部屋に戻ります」


「ああ、ゆっくり休んでおくんだよ。明日からはビシバシ仕事を頼むつもりだから」


小学校の頃からスポーツが得意だった俺には少々の体力の自信くらいはあったが、やはり足、特に太もも辺りの疲労が激しかったのかまだ少し震えている足を引きずるように部屋へと戻る。


何度見ても質素だがこればかりは文句を言っていられない。


一度改装されたこのペンションの名残でたった一つの改装前の部屋がここである。


ここは見晴らしもよく、さきほどの岸辺夫妻の人の良さから泊まり客は毎日出入りを繰り返している。


満員になることもしばしばなので俺は仕方なくこの部屋にいるしかないのだ。


「とりあえず、荷物の整理だけでもしとくか」


荷物か、そういやずっと疑問に思っていたのだが俺が荷造りした時よりも若干重くなっていたような気がする。


気のせいだろう、そう思ってカバンの中身を見てみると、


「―――――――――これは何だ?」


ご開帳そうそうに身に覚えのない代物が目に飛び込んできた。


「貯金箱と理解していいんだよな?」


傍から見るとそれは堅固な金庫にしか見えない。


文字の刻まれたダイヤル、どこにあるのかわからない鍵を差し込むはずの鍵穴。


しかし、上には小さく小銭を入れるための穴が入っている。


これを満タンにするとしたら一体いくらかかるのか想像を絶する。


「とりあえず、押入れに入れとくか」


こんな使い道が泥棒の目をくらませるためのカモフラージュくらいにしか使えないような貯金箱、珍しいかもしれないがこれだけ狭い部屋に置いておくなど邪魔以外の何物でもない。


見た目通りの重さをしたそれを全身を強張らせながら部屋の押入れに叩き込む。


うちの両親は俺を何だと思っているんだろうか。


俺が律儀にあんな目標額が中古テレビ一台買えるように設定されている貯金箱など使うわけもない。


再びダンボールの前に腰を下ろし、再度中身をチェックする。


「さすがにもうないよな」


次に魔術の儀式のための呪具なぞ出てきた日には海の藻屑とさせてもらうつもりだった。


残念だが、本気で俺はそう思っていた。


「さっさと片付けて、いつもの日課しとこうかな」





いつもの日課、俺が『あの日』から毎日欠かさずに実行してきた行為。


別に人気のないところで呪いのわら人形を釘で打ちつけたりしているわけではない。


それに近いようでもあるが、俺から言わせれば全く違う。


バッグの奥から取り出される茶色の汚れが水玉模様のように付着した薄汚れの大学ノート。


表紙には番号が添付され、これまでの我が歴史を言わずと物語る。


『十三』。勿論これで十三冊目という意味である。


中を開くと、自分で言うのもなんだが整頓された文字の羅列が並び、内容は普通に何事なく過ごしてきた平穏な日々を綴ったもの、そう日記である。


毎日気がついたこと、むかついたこと―――――――嬉しかったことはない。


自分が得をしたことを書けばもしその後に嫌なことがあった時に過去の幸せな自分を妬んでしまいそうだったからである。


今の俺には過去の自分さえ信用できないほどひねくれているらしい。


もしかしたらその内俺は今の自分さえ信用できなくなるかもしれない。


もしそうなれば、もう俺は生きている存在価値さえ失った廃人だ。


その先に待つのは地獄なんて言葉さえ釣り合わないくらい、暗く、冷たく、そして苦しい世界だ。


俺がこの町に引っ越してきたのは親父の転勤などというのは建前で、本当は断ろうと思えば断ることもできた。


親父は隣町の桜ヶ丘町で印刷業の仕事にあたり、母親は実家で祖父母と暮らしている。


親父が突発に「ちょうど三年前に世話になった海夜町の近くに転勤が決まったんだが、おまえももういい年だ。一人暮らししてみる気はないか?」


などと常人なら泥酔寸前になるような酒量を飲んでいる酒臭い親父の口からそう言われ、俺はそれに喰らいついた。


酒に酔うと思いついたことを何でも喋る親父のことだからどうせそれも酒に酔った勢いで言った言葉だろうが、一度約束してしまえばこっちのものだ。


このペンションのご主人である岸辺さんは親父と同級生の仲なので、俺の引越しを快く承諾してくれた。


俺がこの町にどうしても引っ越したかった理由は語れば長いが、もし一言で表すとしたらそれは、


『薄汚れた過去の清算』とでも言うのか。


そのための第一歩はやはり『あいつ』に会わなくてはいけない。


あらかじめ岸辺さんから貰っておいたみかん箱の上でノートを開き、持ちなれた鉛筆の感触を味わうように強く握りしめる。


静まった畳から発せられる独特の匂いが充満する部屋に鉛筆が紙を擦る音だけが虚しく聞こえる。


腕の筋肉が疲れ始めたころ、いつものように考え込むことなく思ったままの事を書き連ね、


「よし、今日の日課終了」


本日のやるべき事を終え、これからどうしようか考える。


まだ時刻はゴールデンタイムを迎えたばかりで一眠りするには早過ぎる。


「とりあえず外の風にでもあたってくるか」


食前の腹馴らしに気分転換も兼ねて、一石二鳥である。


脱ぎ捨てられた赤色の線が入ったスニーカーをつま先を地面で小突いて調えるように履く。


(念のため鍵を閉めておこう)


閉めた鍵をジーンズの小さいポケットに乱暴に突っ込み、廊下を見渡してみると一定の間隔を保って並ぶ客室がずらりと壮観に並ぶ。


どう見ても俺の部屋の扉とその扉の色合いから質感まで全て違う扉の間を通り抜け、玄関ロビーに辿り着く。


奥の方から騒がしい声が聞こえるのを考えると俺の歓迎会の準備であることはわかる。


気にも留めず俺は玄関の自動ドアを通り抜け、眩しいほどのネオンで照らされた都会と違いほとんど闇に包まれた外へと足を踏み入れる。


周辺には本当にペンション以外の明かりはなく、一メートル先も確かに視認できないほどである。


ペンションが見えなくなるほどに離れすぎず、だからと言って人目につかないところで休みたいと思う俺には一つの場所しか思いつかない。


(たしかここには……あれがあったな)


俺は体の向きを九十度左に回転させ、昔の記憶を辿りながらペンションの裏へと向かった。


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