呪いの名前
一時間も経てば、集中力なんてものはどこ吹く風だ。
俺は窓から遠くに見える女子ソフトテニス部をぼんやり眺めていた。この暑い中、毎日練習とは、ご苦労なことだ。ポッコーン、ポッコーンとリズミカルな打ち合う音が窓を開けた教室の中まで聞こえてくる。
隆はプリントにヨダレを垂らして寝ている。健ちゃんは黙々と教科書を見ながらプリントに解答を書き込んでいる。
女子はまだ真面目にやっていた……岡村以外は……。
岡村沙苗は俺と似ているんだと思う。
勉強だってやれば出来るのだろうが……やらない。だからできない。成績のことに関心がないのだろう。ソフトテニスだけは上手く、次期キャプテンと言われていたが、岡村の親友の夏川奈緒が二学期からキャプテンになるらしい。
……夏期補習を受けなくてはいけない女子を……その地位に付ける訳にはいかないのだろう……。
岡村は女子なのに字が汚いし、男子よりも声が大きい。友達といつもベタベタしていて、男子の事を敵視している。一言いうと、必ず二言は返ってくる……いつも一言多い女子だ。
それに比べると、坂本、和木合、武内の三人は、静かだ。……静か過ぎる。スラスラとプリントに回答を書き込んでいる。
この三人はお互い名前を知っていたみたいだ。少しだけ話もしていた。ひょっとすると、教室に来たことはないが、保健室や教育指導室で普段から一緒に勉強をしていたのかもしれない。
あの口の軽い岡村が和木合のことを知っていて、クラスで言いふらさなかった理由も、少し考えると分かった。……あんな都会感溢れる転校生が保健室に来ていることが男子の耳にでも入ったら、……仮病使う男子が続出してしまう――。
学校に来て勉強していたとすれば……この女子三人は、俺達なんかよりずっと賢いのかもしれない――。
だとすると、学校って……なんだ? 俺は自慢じゃないが、皆勤賞を狙っている。唯一できる……自慢だ。なのに、学校に来ていない生徒に成績で劣るというのか?
ふと加藤玲子先生を見ると……教壇の横で椅子を窓の方へ向けて座り、ずっと小さな小説を読んで……ニヤニヤしている。……だめだこりゃ。
夏休みの補習中とはいえ、他の先生に見つかったら、また叱られるのではないだろうかと心配になってしまう……。というか、夏期補習の目的って……何? みんなの暇つぶしなのだろうか。
プリントに突っ伏してウトウトしていると、声が聞こえてきた……。
「第一次世界大戦の前、文部科学省が人口の増加と軍隊の強化を図るために、学校教育を大きく見直しました。これが現在でも尾を引き、戦争が終わった今でも、中学生はそれを「呪い」と気付きもせず、憑りつかれたように毎日、毎晩、暗くなるとコッソリ……」
ああ、プリントの答え合わせをしているのか……。体を起こして黒板を見るが、なにも書かれておらず、先生がノートを見ながら喋っている。
黒縁眼鏡の加藤先生は、大人のくせに大人の魅力にどこか欠けている。中学生をそのまま大きくしたような先生だ。顔もスタイルも、どこか幼さが残っている。
俺以外の生徒からもからかわれているのが……可哀想になる。
先生同士の虐めとかを……逆に心配してしまう。からかっておいてなんだが、先生には先生を辞めないで欲しい。
つーか、これ、なんの授業だ? 眠っていてたせいで、どの問題の解説をしているのかすら分からない~! ……が、まあ、どうでもいいか。
教室の窓からまた外を眺めると、女子ソフトテニス部がまだ練習していた。可愛い女子が揃って入部する女子ソフトテニス部。目の保養になって少し嬉しい。
その中でもひと際目を引くのが、同じクラスの……夏川奈緒だ。真夏の炎天下で汗を流して声を出し練習している姿は、まさに夏の向日葵を彷彿させる。一番好きな花だ。
で、普段からその夏川に付きまとう口やかましい……岡村。ソフトテニスの腕前だけは、岡村の方が上らしい……。花で言えば、紫色の花をした棘のある「アザミ」かな。別に嫌いじゃないが、棘のあるイメージとぴったりだ。
夏川奈緒が向日葵。岡村沙苗がアザミだとすると……和木合は床の間に飾られた一輪挿しの百合の花のようだ。真っ白で繊細で、おしとやかなイメージだ。真新しい夏服の白い半袖セーラー服がこんなに似合う女子は、そういないかもしれない。
クラスの中で和木合と話した男子は、俺が最初なのかもしれない……。
なんか緊張してしまうじゃないか。ひょっとして、俺の責任って重大なのか? 二組男子の印象や、和木合の二学期の出席率は、俺に懸かってる? なんてな。
「じゃあ、今日の補習はこれで終わります。補習以外の夏休みの宿題もちゃんと進めておくようにね。補習のプリントが早くできて、時間が余るようなら補習中にやってもいいですから」
そう言い残し、足早に加藤先生は教室から去って行った。こんなにたくさんプリントを配っておいて、時間が余るわけねーだろと言いたかった。
俺もさっさと帰りたいところだが、バスの時間までかなりある。バス停は炎天下だから、教室で時間を潰した方がましだ。バスを待っていて熱中症になんかなったら、笑い話にもならない。
クーラーの利いたバス停近くのコンビニは、一年の時に時間潰しで大勢が何も買わずにたむろしていて……先生に怒られた。……上級生が万引きしていたのが見つかったという噂もある……。
だが、隆と健ちゃんがすぐに部活動に行ってしまうと、俺だけ教室に残っている訳にもいかなくなる。仕方なくナップサックにペンケースだけを放り込む。女子はまだみんな残ってダラダラ話をしていた。
「ああー、くだらない補習だった」
百合の花のような和木合が、誰に言うでもなくそのすさんだ言葉を発したことにギョッとした。イメージがガタっと音を立てて崩れた。
――だったらちゃんと教室に来て授業を受けろよと呆れてしまう。
和木合が座る席の前をちょうど横切ろうとしていた俺は、何か言ってやりたくなった。
「お前さあ、苗字が和木合なら、名前は「あい」じゃないだろ。嘘つきやがって」
嘘つきは男子でも女子でも嫌われるぞ。
「嘘なんてついていないわ」
切れ長の瞳にキツク睨みつけられた。なんか、第一印象が悪すぎ……じゃなくて、上げといてダ―ンと下げる~――だな。
「だったら名前、何なんだよ」
何がなんでも、和木合の下の名前を知っておきたかった。他の男子が知らない情報をいち早く入手したい……好奇心ってやつだ。
「……藍よ」
藍か……。なんだ、いい名前じゃないか……。
「じゃあ、和木合……藍か。わきあい……あい? ――わきあいあい」
プッと笑ってしまった。
「お前、「和気あいあい」なわけ? すっげーいい名前じゃないか。ハッハッハ」
急にキツク睨んでいた目が――潤みだし――頬を一筋の涙が零れると、俺の背中を誰かが強い力でパーンと引っぱたいた!
「痛えー!」
先生かと思って振り向くと、岡村沙苗だった。
「バカ! 人の名前聞いて笑う奴って最低!」
岡村がそっと和木合の肩をさする。
「大丈夫? ここに来ている男子はみんなバカだから気にしないで。行こ」
「……」
二人で肩を揃えて教室から出ていってしまった。
和木合の潤んだ表情は……なんていうか……今まで感じたことがない特別な表情に見えて……、
なんか……府に落ちない変な気分だった。
だって、あいつは俺の名前を聞いて笑ったんだぜ? 「女みたいな名前だ」って馬鹿にした! 俺が付けた名前じゃない。親が勝手に決めた名前をだ。――それなのに、あいつは自分の名前をバカにされたら泣きだして、俺は背中を叩かれて……なんだろう、この複雑な今の気分は……。
――けっ! やってられない気分だ。
――はっ! これってもしかして、
――やるせない気分だ――!
帰りのバスの中、流れる田舎の風景を目で追いながらぼ~っと想像していた。明日から和木合が補習に来なくなったら、それは俺のせいだろう。
今までにも和木合は、その名前のせいで虐められてきたのかもしれない。転校初日にバカにされるのが嫌だから……教室に来れなかったのかもしれない。
俺も自分の名前が嫌いだ。バカにされる度に、女みたいな名前を付けた親を恨んだ。
テレビに出てくる有名な「タクミお姉さん」を恨んだ。
和木合も親を恨んでいるのかもしれない……か。
明日、和木合が来ていたら謝った方がいいかなあ……。岡村沙苗もキャンキャン煩そうだし……。