呪いの教育
呪いの言葉だ――「勉強をしなさい」という言葉は!
俺は頭が悪い。なぜなら勉強が嫌いだからだ! なぜ、昔に起こったことを覚えたり、今は使わない昔の言葉を勉強したりする必要があるのか? 見ず知らずの日本人とさえ話さないのに、なぜ英語なんて覚える必要がある? シダ植物の「前葉体」に……人はどれほど重要な問題を抱えている?
学校の授業では、勉強を教える前にその必要性を教えて欲しい。「受験のためだ」っていうのは抜きだ。
耳にタコができるぐらい聞き飽きた――。
中学二年の俺は、自分の正しさを覆す意見を欲していた。勉強もロクにせず、かといって他にやりたい事も見つからないまま、毎日をゲーム、ネット動画、テレビに明け暮れていた。
部活動をやっていない俺は、夏休みに学校へ行く必要なんてなかったのだが……。一学期の成績があまりにも酷かったので、成績底辺者が受けさせられる中学校での夏期補習に強制参加させられたのだ。
親からも言われた。「高校へ行く気がないのなら、中学を卒業したら家を出ろ。一人で働け」……と。
一つ年上の成績優秀な兄と比べられ、親にとって俺は邪魔な存在なのだろう。
夏期補習には、俺と同じようにどこの高校へも行けない成績底辺の奴だけが集められて補習を受ける……と思っていた。夏休み初日、普段と同じ時刻のバスに乗り、バス停からさらに坂道をひたすら上った小高い所にある校舎に辿り着いた時には、半袖の開襟シャツは汗でベトベトになっていた。
外より涼しい校舎内の下駄箱で靴を履き替え、シャツの一番上のボタンを外しながら夏期補習が行われる二年一組の教室へと入った。
見慣れない女子が一人……教室の中央に座っていた――。
色白の肌としっとりとした肩にかかる黒髪。どことなく都会を思わせるような整った顔立ち。際立つ鼻筋――。
まるで教室にいないような透明感……。開け放たれた窓から涼しい風が吹き込み、僅かに髪を揺らしている。
一学期中……いや、入学してから一度も見た覚えがない女子だ。ひょっとして、一年か三年か……階と教室を間違ってしまったかと、一八〇度クルッと向きを変えて教室を出て、「2の1」と書かれた札を再度確認する。
間違っていない……よな。そんな俺の不審な行動をチラ見していたかもしれない。
――この中学校に、こんな女子がいて……俺と一緒で成績底辺だなんて――。
視線を小説から……俺の方へと……ゆっくり移す。
「なに?」
透き通ったような、それでいてしっかりした声――。
「いや、あの、君は何組の……誰?」
とっさに口から出たのがその言葉だった。初めて女子の名前を知りたいと思った。
「二組……和木合……」
「わきあい……さん?」
苗字が「わきあい」なのか? それとも、苗字が「わき」で、名前が「あい」なのだろうか……。
「じゃあ、名前は?」
「……人の名前聞く前に、自分の名前くらい言ったらどうなの?」
ちょっと眉間にシワを寄せて怒り口調だ。
「え、ああ。俺は椎名匠。同じ二組だ」
同じ二組だ……。
でも、一度も教室で会ったことがない。ってことは、転校生か……?
それとも……まさか霊的な……あやかし? 冷たい汗が背筋を伝う……。
――いやいや、夏休みの補習なんかに、そんな「非日常的、誤褒美」なんてありえない。そんなご褒美があるのだとすれば、補習を受けたがる奴が続出してしまう――。
ご褒美の定義ってやつがいったい何なんだかは分からないが……、そういえば二年の一学期初日に、都会から……「第三附属中学」って名前の中学から転校生が二組に入るって噂が女子の間に広まっていたことがあった。
教室にしばらく机と椅子が準備されていたが、一週間も経たない間に片付けられていて……アレは女子が言いふらしたガセネタだった。
「匠って……女の子みたいな名前ね」
「……」
たぶん初対面で名前のことをどうのこうの言われて腹立たない奴はいないだろう。少し顔が笑顔……というより、不敵な笑みを浮かべているように見えるのがさらに腹立たしい。
「じゃあ、お前の名前は何なんだよ」
少し怒り口調で聞いてしまった。
「……あい」
目を背ける。もうこちらを向こうともしない。
「じゃあ、苗字が「わき」で名前が「あい」なんだな?」
「……どうでもいいでしょ。名前なんて」
もう話しかけてこないでと言っているかのように、読んでいた小説に目を落とす。
なんなんだこの女子。話しにくい――。第一印象はそれだった。
仕方なく窓際の一番後ろの席に座ると、ナップサックを机の横に掛けた。
二組の俺は、どこに座って補習を受けても構わないはずだ。
二人だけの気まずい教室に入って来てくれたのは、一組の藤林隆だった。
「よう、匠!」
教室に入るのと同時に気軽に挨拶したのはいいが、教室中央に見たことがない女子が座っているのに驚き、席を大きく避けるようにして俺の前の机へと座った。
「匠は二年になっても、相変わらず落ちこぼれなんだなあ」
「……隆、お前と一緒にするなよ。俺はやったら出来るんだ。お前みたいにやっても出来ない訳じゃねーんだよ」
「はっはっは。一緒じゃないか」
断じて違う――と言いたい。
隆と俺ともう一人……もうすぐ来るであろう仲井健一の三人は、一年の時は同じクラスで成績最下位争いをしていた。俺は勉強するのが面倒くさいからテスト勉強もやらず、授業中はずっと居眠りをしていたのだが……他の二人は違う。真面目に授業を聞いてノートもとり、テスト勉強をしても俺より点数は低かった……。だったら勉強なんかしなければいいのに……俺みたいな発想には繋がらないようで、それが見ていて切なくて……。担任に、どうか二人の成績だけは上げてやって欲しいとお願いをしたら、逆に怒られた。「お前も同じだ!」……だそうだ。
「おはようございます」
仲井健一は、律儀に教室に入るときにしっかり挨拶をする。中央に座る女子に気付いていないかのようユラユラ揺れながらこちらに歩いてきて、俺と隆の二人に声を掛けてくる。
「おはよう。教室、暑いねえ」
ズボンの後ろポケットから丸まったハンカチを出すと、額の汗を拭く。
「おはよう健ちゃん。健ちゃんも補習か」
「うん。授業が全然分からなくて」
白い鞄から教科書を出して、机へと移し替える。健ちゃんは真面目だ。俺は教科書やノートすら持って来ていない。
「相変わらず早いわねえ、三バカス!」
俺と隆と健ちゃんを、「三バカス」と罵りながら教室に入って来たのは、口の悪い女子、ソフトテニス部の岡村沙苗だった。
「三バカスって言うなよ!」
「お前こそ女子で成績ビリのクセに!」
「フン! 三バカスって呼ばれて嬉しいくせに!」
憎まれ口を叩きながら、岡村は中央に一人座っていた女子の方へと近づいていく。
「おはよう和木合さん」
「……おはよう」
岡村のことは知っているようで、普通に挨拶をして隣の席に座った。
ちょっと安心した。
もしかしたら幽霊かもしれないと思っていたのが……恥ずかしい。
「誰? あの女子」
「初めて見たけれど、転校生?」
隆と健ちゃんが小さな声で俺に聞く。
「ああ、二組の……転校生らしい。俺も今日、初めて見た」
でも岡村が名前を知っていたってことは、今日から転校してきたわけではないのだろう。
夏休みの……今日から登校……か?
教室にはその後、一組の坂本由美と三組の武内百合子が入ってきて謎が解けた。この二人の女子は、一学期中に一度も顔を合わせたことがない。学校に来ていなかったはずだ。
一年の時も殆ど出席していなかった。もちろん一度も話したことなどない。
だったら、成績は俺達と同じで悪いはずだ。……学校に来ていないんだから。
「おはよう、みんな揃ってるかしら?」
少しギスギスした雰囲気の教室に一組の担任が入って来た。
一組の担任、加藤玲子先生は新人教師で、夏休みだからか上下揃いのジャージ姿に黒縁眼鏡のラフな格好だ。
若くて眼鏡で男子生徒からは少しだけ人気があるが、新任でおっちょこちょいで、よく教頭先生や年上の女の先生に怒られている。……先生が学校に遅刻すると……生徒よりもキツク教頭先生に叱られることを知った。落ちこぼれの俺達は、どことなくそんな加藤玲子先生が好きだった。共感できる部分がある。
持ってきたノートを見ながら、加藤先生は一人一人の顔を確認して名前を呼び始めた。
「それじゃあ、一組からいくね。藤林」
「はい!」
なんだこれ、夏休みの補習でも出欠をとるのか?
「坂本」
「……はい」
聞き取れないような小さな声だ。蝉の鳴き声に負けている。
「じゃあ二組。椎名」
返事しないわけには、いかないよなあ。
「……はい」
黒縁眼鏡がこっちを見るので、思わず目を背けてしまう。
「岡村」
「はい」
「和木合」
「はい」
……和木合? あれって、苗字だったのか……?
「次は三組、仲井」
「はい」
「武内」
「はい」
男子の返事は聞こえるが、女子は岡村沙苗以外、殆ど聞こえないような声だ。和木合なんて、さっき俺と話していた時の声の方がよほど大きかった。
「じゃあ初日の今日は国語のプリントをしてもらいます。一度全部解いたら先生のところに持って来て下さい。分からないところは空けておいてね。後で解説をしながら答え合わせをしますから」
そう言いながら配るワラ半紙の数が、ハンパじゃない。十枚くらいホッチキスで止めてある……。夏休みの宿題もたくさんあるというのに、学校でこんなにたくさんのプリントを渡されると、ゾッと寒気がする。
配られたプリントから一枚だけ抜き取り、素早く紙飛行機を折ると、ゴミ箱へ向けて飛ばした。
弧を描いて飛んだ紙飛行機はゴミ箱には入らず、少しだけ横に外れた。
「ああ、惜しい、ハーズレー!」
声をあげたのは隆だ。ハハハっと笑う。
「コラ椎名! 真面目にやりなさい」
加藤先生をからかうのは面白い。他の先生がいる時には絶対にできないし、やらない。怒られるだけだからだ。加藤先生は怒らない。怒っても怖くない。
ご丁寧に俺の紙飛行機を拾い上げて、広げずにそのまま俺の席まで持って来てくれる。
「え? もう一回飛ばしていいんですか?」
「そんなわけないでしょ」
慌てて紙飛行機を取り上げると、広げて机の上に置き直す。
「ああ、俺のワラ半紙「初号機」が~!」
「ハッハッハ!」
――バンッ!
突然、机を叩く音が教室に響き渡った――。
「ちょっと男子! うるさくて集中できないでしょ!」
岡村は……女子の中で一人だけ大声を出す。他の女子が大きな音と声に、「ビクッ」としたじゃないか~。
普段の教室でも岡村沙苗の口やかましさはピカ一だ。口から生まれてきたような女子だ。岡村のお母さんは口裂け女級の大口だったのかもしれない……。
「岡村の方がうるさいぞ。それに、どうせお前もプリントやらないんだろ?」
「やるわよ! やれいーでか! あんた達みたいなバカじゃあるまいし。三バカスがうるさいと他の女子に迷惑でしょ!」
静かにプリントに答えを書き始めている和木合を見ると、ちょっと悪ふざけが過ぎたかと反省してしまう。他の女子も怒りたいほど俺達の存在が迷惑なのかもしれない。なのに、知らないフリをして、一言も喋らずにプリントに答えを書き込んでいる……。
やれやれだ。
岡村に従うみたいで歯がゆいが、仕方ない。静かにするか……。