人魚の父
今日は父の日、という事で。
それは人魚の恋に似ていた。終わってしまえば泡になって消える。
別に悲劇のヒロインを気取っている訳じゃない。まさか自分がこんな事になるとは思っていなかったけど、それでも倫を外れた恋に溺れたのは私だ。それでも、事が明るみに出たとたんに掌を返して冷たくなったあの人が悲しくて、私は都会を離れて故郷に帰る事にした。この街のどこに行ってもあの人と過ごした時間を思い出しては虚しくなるのだから。
職場に辞職願を提出し、荷物は全て纏めて実家に送り、後は引き払うだけという部屋の窓から外を見ていると、すっかり自分も空っぽになってしまったように感じた。別に恨んでいる訳でも憎んでいる訳でもない。ただ、今までの時間はなんだったのだろうとは思う。もう、涙すら残っていなかった。
新幹線を乗り継ぎ、ぼろぼろになって帰った私を、父は黙って迎えてくれた。
相変わらず、何もない、静かな実家。変わらず無口な父。ずいぶん老けたなと思った。ただ、今日ばかりは急に実家に帰る事になった私を問いただすでもなく責めるでもない父がありがたかった。
正直に言えば、子供の頃の私は父が苦手だった。根っからの仕事人間で、昔からいつも帰りが遅かった父は、仕事が立て込んだ時には家に帰ってこない事すらあった。家の事はいつも母に任せっきりだった。私の幼い頃の記憶で、父に遊んでもらった記憶はない。
「お父さんは大事な仕事をしているのだから、仕方がないのよ」
まだ小学生だった私を諭すようにそう言っていた母は、心持ちいつも寂しそうに見えた。小学生の私から見てもあまりに家庭を顧みない父に対して、母がもっと文句を言っても良いのではないかと思っていた。にもかかわらず、母はかたくなに「お父さんは大切な仕事をしているから」の一点張りで、父を責める事は一度もなかった。
小学生も高学年になれば、いくら子供でも大人の世界で何が起こっているかを理解する。家にいても無口で、とても家族に関心があるように思えない父。仕事を理由に家に帰ってこない父。中学校に進学する頃には、何とも言えない嫌悪感すら抱くようになって、私はますます父と話さなくなった。それでも、母はその生涯で一度も父の悪口を言わなかった。少なくとも、私が知る限りは一度も。
母が突然病に倒れ、亡くなったのは私が中学2年生の頃だった。最初に病気に気付いてから一年も経たなかった。本当にあっという間だった。当時の私が母の身体に起こっていた事を理解する間もなく、病魔は母の全身に広がり、母はみるみる衰弱していった。
父を除けばたった一人の家族である母がみるみる弱っていくのを見て、私はどうして良いのか分からなかった。不安を、恐怖を、悲しみを、どこにぶつけて良いのか分からない感情を、ひたすら父にぶつけた。
「父さんがずっとお母さんを放ってきたから!」
母が最後の入院をして、その面会から私と父の二人で家に帰ってきた時、私は父に言った。その時の父の表情を私は今でも忘れられない。父は、何も言い返す事なく、ただ深い悲しみをたたえた目で私を見ていた。いや、その目にたたえられていたのは悲しみだけではなかったように思う。後悔に打ちのめされたような、罪悪感に狼狽えているような、何とも表現し難い弱々しい表情だった。かえってその弱々しさが情けないような気がして、私は余計に腹が立った。
「すまない」
かろうじて父が絞り出したその言葉を無視して、私は部屋に閉じこもった。
母が亡くなったのは、それから数週間後の事だった。やけに寂しい病院の個室で息を引き取った母の亡骸を前にして、父は泣いていた。大の大人の男でもこんなに泣くものかと、私がかえって冷静になってしまうほど、取り乱していた。
それからの父は、仕事の負担を減らし、男手一つで私を育ててくれた。無口な事は変わりなかったけれど、少しずつ二人で過ごす時間も増えた。そのおかげで、父に感謝できるくらいには大人になったとは思う。それでも、一度抱いてしまったわだかまりが私たちの間から完全に消えてなくなる事はなかった。
都内の大学に進学するのをきっかけに実家を出た。結局そのまま今日まで実家には一度も帰っていなかった。久しぶりに会ったのに相変わらず無口な父と一緒にいるのは気まずい感じもしたが、相変わらず以前と変わらないと思えば、それはそれで良いような気もした。
「母さんに、挨拶して行くといい」
ぼそりと言った父に促され、私は仏壇の前に立った。
仏壇の中の母に挨拶をしていると、自然と色々な事を思い出して、突然涙が出てきた。それは、本当に久しぶりの涙だった。辞職願を出した時も、あの人との思い出の品々を全て捨てた時も、一人で部屋を引き払った時も、新幹線に乗っていた時にも、ずっと出したくても出なかった涙が、堰を切ったように溢れ出して止まらなくなった。ずっと溜め込んできたものが、やっと吐き出せた気がした。
父はその間ずっと黙って私の傍にいてくれた。漸く泣き腫らした目が落ち着いてきた私に、父は一言「飯でも食いに行くか」と言った。
地元の地味なバーカウンターで、父と私はグラスを合わせた。
「大丈夫だ」
唐突に、父がぽつりと言った。その目は、遠くを見て、何かを思い出しているようだった。何が大丈夫なのだと、いつもだったら言い返してしまいそうな言葉だったけれど、何故だか不思議とその言葉はじんわりと私の心を暖めた。
「きっと大丈夫だ」
父はもう一度言った。まるで、何かを祈っているかのように。
その声がひどく優しく響いた。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
本作はもともとTwitterの診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語」で指定されたお題
『「それは人魚の恋に似ていた」で始まり、「その声がひどく優しく響いた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば3ツイート以内で』
を元に作った物語を、少し膨らましたものです。
元々作ったものはそっくりそのまま「あらすじ」に載せてあります。
こうやって書いてみると、自分で言うのも変ですがこの「私」と「父」という設定を自分自身が結構気に入っていたのだなと思いました。