冬の誓い
それは冬の季節だった。
春一たちが皆花塾を出なければならない日が不意に訪れたのだ。
倒幕の動きがいよいよ活発になり始め、雷が宿りし怪紋刀を持つ桐蔭の噂を聞きつけた藩士たちが桐蔭に倒幕へと参加するよう求めてきたのである。この要請になかなか応じなかった桐蔭であったが、倒幕を企てる藩士らの熱弁に心を揺さぶられたのか、しまいには了承の返事をしていた。
皆花塾は桐蔭の片腕一本で支えられている私塾であったから、選択肢は塾を閉めるという
ものしか残っていなかったのだろう。事が済むまでこの皆花塾は無期限閉鎖である、ということを告げた桐蔭は、最後の講義をこの言葉で締めくくった。
「男の子も女の子もみな志を立てなさい。それは大志でなくても構いません。でも、その志は自分を支えてくれるものでなければなりません。どのような時代であっても、どのような状況であっても、折れない志を抱くのです」
その日の稽古は行われることなく、これをもって皆花塾の戸は閉まった。この時の桐蔭はすでに変わり行く日本を予感していたのかもしれない。
最後の講義を聴き終わり、外に出た春一たちは、丘の上に立ちながら分厚い雪化粧を施した町を見下ろしていた。ここに誘ったのは秀也である。
「みんなで誓いを立てるんだ!」
そう意気込んだ秀也が竹刀の先端を空に突き上げている。
「寒いがな、はよう帰ろうや」
そう言ってぶるぶる震えている春一らに向かって秀也は、
「早く!お前らも俺みたいに竹刀を掲げろよ!」
自分も寒いらしく、みなを急かしていた。
この中には男四人だけでなく杏も含まれていた。
家に帰ろうと思っていた杏がふと四人を見やると、四人はいつもの道とは違う方へと行こうとしていたのである。それが気になった杏は、
「どこ行くの?ちょっと待ってよ~」
と言って、四人の後ろにくっついてきたのだ。
秀也の言うようにしなければ秀也は納得せず、自分たちは家に帰れないだろう、そう思った春一たちは仕方なく竹刀を袋から取り出し、天に掲げた。竹刀を持たない杏は四人のまねごとをするように、とりあえず腕だけ空に掲げた。
「いいか、考えたか?」
このような、形あること、をするのが好きな秀也が訊ねると、
「なんでもええからはようせい」
春一の苛立ちが返ってきた。
「じゃあ、まずは俺から!」
はらはらと舞う雪の中、秀也の声が響き渡った。
「あの一本杉に誓う!俺は偉くなる!偉くなって、この国を動かすんだ!」
目標を言葉にすることで自らに刻み込んだ秀也はとても清々しい顔をしていた。
「後であの杉でも切っちゃろうか」
「こらっ、茶化しちゃダメでしょ」
春一と杏の会話は秀也には聞こえていなかった。
秀也の次には京二の声が響く。
「この空に誓おう!俺は強くなる!強くなって日本を変える!」
あまり乗り気でなかった京二も、なんだかすっきりした表情をしていた。深々と降り積もる雪の中で、自らの目標が響き渡る様はなかなか気持ちのいいことなのかもしれない。
「雪降っとるがな。こない曇り空に誓って何がおもしろいんな?」
「春一!」
二人の会話はやはり京二には聞こえていなかった。
次は代月の順番なのだが、代月は未だ目標が定まらないらしく、竹刀を掲げたまま考え込んでいる。
「そうじゃなあ、とりあえず誓おう。いつかは顔を覗かせるであろう、雲の上の御天道様に」
そこまで言って代月は再び考え込んでしまった。
「強くはなれんしのう。どうするかのう、歌でも詠むかのう」
何やらぶつぶつ言っていた代月もようやく声を張り上げた。
「わしは健康に生きる!少なくともこいつらの中ではわしが一番最後に死ぬんじゃ!」
四人の失笑が聞こえてきそうな誓いが、琴線の様に張りつめた空気を震わせる。
「なんちゅう誓いじゃ」
春一のぼやきに杏の声は返ってこなかった。杏は次が自分の番であることもあって、やや緊張していたのである。
いつもより少しばかり甲高い声で杏が誓った。
「私はお母さんに誓うわ!平井屋をもっともっと繁盛させるの!」
美しい余韻を残して杏の声が雪山をかけて行く。
「おばさんここにおらんがな」
「うるさいわよ!」
恥ずかしそうに怒っている杏を見て、春一は溜息をついた。
「もうわしの番かや」
そう言って居住まいを正した春一であったが、竹刀を掲げてはいるものの、やらされている感を拭うまでには至らない。
それでも春一は声を響かせる。
「わしは誓う!もちろん、わし自信に誓うんじゃ!わしは四人の誓いをしかと聞き届けてやった!この耳に刻みつけといてやった!」
どう考えても横道に逸れていくような気がした四人がみな一様にして春一の顔を覗き込む。しかし、その言葉に反して春一は真面目に誓っていた。
「じゃからわしは見届けちゃる!こいつらの誓いが果たされるかこの目に刻んだる!こいつらが横道に逸れそうじゃったらわしがなおしちゃる!力尽くでも元に戻しちゃる!」
最後の方はやや興奮気味に叫んでいた春一が、どうだ、というような顔つきで四人の顔を見返した。
すると秀也が、
「お前、何様のつもりだよ!」
と文句を言い、京二が、
「俺は強くなる!」
と決意を新たにし、代月が、
「わしはお前より後に死ぬから、お前がわしの誓いを見届けるのは無理じゃ」
と冷静な意見を口にし、杏が、
「あんた自身は何にもしないのね」
とせっかく立てた春一の誓いに水を差していた。
「やかましいわ!もう嫌じゃ。わしは帰るからの!」
珍しく真剣に語ったつもりの春一が、ぷんぷんと怒りながらこの場を去ってゆく。残された四人も家路へと向かうべく春一の背中について行った。
「怒ったのかよ、春一?」
秀也と京二が駆け寄り、
「わしは間違ったこと言うてないぞ」
代月が駆け寄り、
「子供みたいね」
と子供の杏が駆け寄る。
はらはらと舞う粉雪が降り止むことはなく、それらは駆け足をやめることのない冷たい風と手を組んで視界を純白で覆ってしまった。
坂を下る彼らの背中を望むことはもうできない。
どこまでも高く降り積もる白の粉は息吹を育むやわらかな土たちを覆い尽くし、すべての雑音を飲み込んでいた。これからの日本を見るような真っ白な大地の上では五つの声だけが無邪気に遊んでいる。しかし、兎のように飛び跳ねる五人の声もやがて遠退いていった。
五人がそろってこの坂道を下るのは、これが最後であった。
数カ月後、世に言う妖刀の乱が起こり幕府は転覆した。新たなこの国の夜明けを別々の場所で過ごし、各々の視点で見つめる新時代の曙は、この五人にとっていったいどのように映ったのだろうか。
時代の大きな転換期がもたらす激流に乗って、それぞれの時は流れた。