恐山
「ちょっと小便に行ってくる」
「何回行けば気が済むんだよ!」
春一と京二は恐山の入り口に立っていた。その後ろには秀也、代月、そしてなぜか杏までいる。
男四人はうまいこと桐蔭先生の目を盗んで午後から始まる道場での稽古をサボることができた。しかしその代りと言ってはなんだが杏に見つかってしまったのだ。杏は四人を見つけるや否や彼らのところまで駆け寄り、
「稽古さぼってどこ行くのよ?」
としつこく聞いてきた。これから恐山に行くことを杏に告げてしまっては、どうせ杏のことだろうから桐蔭先生に告げ口をしに行くに違いない、そう考えた四人は終始無言で足だけを懸命に動かした。
ところがここはさすが杏と言うべきか。四人が黙ったまま歩いているなんてなんか変だわ、と感じた杏は自分も四人に同行することにしたのである。
しかし杏は後悔していた。あまりの恐怖に思わず目の前にいる代月の裾を握っていた。これは当分離せそうにない。
杏にしてみれば、恐山に来るなんて思ってもみなかった。途中からおかしいなとは思っていたけれど、ここまで来たら引き返すのもなんだかためらわれてしまい、ずるずると引きずられるようにして四人の目的地まで来てしまったのである。
ここは明らかに空気が違った。
恐山の入り口から向こうとこちら側では世界が違うように感じられた。その感覚はどこから来るのだろうと思って五感を研ぎ澄ませてみると、すぐにその違和感に気付くことができた。ぽっかりと口を開いた入口から向こうには音がない、風がない、匂いがない、そう思った。入口に大きな壁があるかのごとく、こちら側の風がその奥には進もうとしない。行き止まりに突き当たったかのようにぐるぐると山の周りを右往左往しているのである。今までに感じたことがないくらいの違和感を放ちながら、恐山はその景色を覗かせていた。
「杏、こっち見るなや」
「見ないわよ!」
恐山の入り口とは反対の茂みの中で春一は立ち小便をしていた。こんなところに厠があるはずもないので誰も文句は言わない。
春一が用を足し終わり、再び五人となった彼らはそれでもやはり、これ以上歩を進めることができなかった。しかし誰も引き返そうとは言わない。その提案をしてもいいはずの杏ですら声を奪われていた。
「い、い、行くんかや?」
沈黙を破ったのは春一だった。
「あ、当たり前だ。勝負だからな。春一、決まり事は忘れてないよな」
勝負を提案した京二自身も後悔していた。妖怪を退治するなんていう途方もないことを抱くことはもうなかったが、妖怪を見てみたいという好奇心はおさまらなかった。それゆえこのような対決方法になってしまったわけだが、一歩を踏み出す勇気はなかった。
しかし京二は提案者であるからそれなりの態度を示さなければ恰好が付かない。自分でもそのことはよくわかっていた。
「わ、わ、忘れとらんがな。き、京二、お、お前から行けや」
「あ、ああ。行くぞ」
京二は自分の中でタイミングを計っていた。三、二、一、と。このカウントはもう十一回目である。
「はよ行けや」
「ま、待てよ」
「何じゃ、怖いんか?」
これ以上躊躇していては本当に示しが付かなくなると思った京二は腹を決めた。三、二、一。
「行くぞ!」
気合一発、大声で自らの背中を押して恐山の中に突進した。走らねばやっていられないのだろう。止まれば恐怖で足が竦んでしまう。
「おい!待てよ!」
京二に付き添うことになっていた秀也が慌てて彼の後ろを追いかけて行く。
残された三人には重い沈黙が流れていた。
「き、京二のやつ、本当に行きよった」
春一の顔は引き攣っていた。
「どうした春一、お前は行かんのか?」
代月の問いかけに春一は、
「代月、わしは本当は怖いんじゃ。行きたくないんじゃが、やっぱり行かんと駄目かのう」
本音を漏らしていた。代月の前では虚勢を張る必要などないように思われたからだ。
「行かんと駄目だろうなあ」
そう言って代月は杏の方を見た。
「杏や、ちょいと頼みごとがあるんじゃが聞いてくれるか?」
「なに?」
「桐蔭先生のところまで行って、わしらのことを告げ口してくれんか」
「よつ(、、)さん(、、)たちのことを?」
「ああ、わしらのことを」
「なんで?」
「何かあった時のためじゃ。何があってもおかしくないのがこの山じゃからのう」
杏は自分が震えているので気付かなかったのだが、代月もまた恐怖で身を小刻みに震わせていた。杏は、こんなときでも冷静でいられる代月にひどく感心した。代月は勉強がよくできるし物知りなので、四人の中では唯一、さん、をつけて名前を呼んでいるのだが、この時ばかりは、いつもの尊敬にも似た気持ちとは違って、頼りになる安心感、のようなものを感じた。
「わかった」
代月がいればこの場はなんとかなるような気がした杏は、桐蔭先生のところへ行き、彼らが今していることを告げようという決心をした。これは、告げなければいけない、という使命感にも似たようなものだった。
「出来るだけ早いほうがいい。頼んだぞ」
「うん」
そう言って杏はもと来た道を引き返していった。できる限りの体力を振り絞り、全力で走った。
「杏ぅ~、転ぶなやぁ~」
春一の声が、やけに霞んで聞こえた。
「京二と秀也はどこまで行ってしもうたんな。もしかしたらもうてっぺんについてしまったんじゃないかや?」
春一と代月は歩いて山を登っていた。山道があることからここには人、もしくはそのようなものが行き交いしているということがわかる。
恐山の中は思っていたよりも普通で、明るさも普通の山のそれと変わらなかった。外からでは感じることが出来なかった風の流れもしっかりと感じることができる。
だが、代月には気になることがあった。
「この山はやけに静かじゃな」
普通の山でなら聞くことのできる鳥の囀りが全く聞こえてこないのである。そのことに気付いた代月が地面や周りなんかに視線をやりつつ歩いているのだが、今のところ生き物らしきものとは遭遇していない。虫すら見つけることができないでいる。強いて言うなら植物が普通に生えていると言うくらいだろうか。
しかしその植物にすら時折違和感を感じてしまう。この静かな山にはまったく似合わない、目がちかちかするほど鮮やかな花がぽつんと咲いていたりするのである。それらが群れをなして咲いているのも気味が悪いのだろうが、一輪だけひっそりと咲いているのもなんだか寒気がする。
鮮やかに咲き誇る一輪の花がこの景色の中で浮いている様は、この恐山にあっては異色の存在である自分たちを示しているようで、その花を見るたびに代月は寿命の縮まる思いがした。
そんな事には無関心の春一はいつもの調子を取り戻しつつある。
「なあ、妖怪なんぞが本当に出てきたらどうするんじゃ?」
「逃げる。もしくは隠れる」
「妖怪は悪さをするんか?」
「いや、みながみなそうだとは言わんが、悪さをする奴がいるのも確かじゃ」
「わしはようわからんのじゃが、妖怪ってなんなあ?」
「すまんがわしにもようわからん。だが、わしが思うにそれが答えでもあると思う」
「意味分からんがな」
「何というか、わしらが説明できんようなものが妖怪なんじゃ。だから、たまに起こる大雨とか大火事、吹雪だってある意味妖怪と呼べるんじゃ」
「全然分からん。雨は雨じゃがな」
自分の頭の中で思っていることを、自らの言葉を通してうまいこと説明のできない代月は、それっきり黙りこんでしまった。
静かになるのが嫌だった春一は、再び口を開く。
「ええ妖怪がおったら友達になれんかのう」
「友達になってどうするんじゃ?」
「決まっとるがな。京二のやつをおどかすんじゃ。あいつはばれてないと思うとるんか知らんけど、今日のあいつはぶるぶる震えとったぞ。やめとけばいいのにこんなとこまで駆け込みよって。おかげでわしまでこないところに入ってしもうたがな。けっこう歩いたからてっぺんももう少しなんじゃないかや?」
「そうじゃな」
二人が話を進めているうちにも山道の切れ目が見えてきた。恐山の頂上である。ここまで来る間に京二と秀也を見かけなかったことから、二人はそこにいるのだろう。
「二人ともてっぺんについてしまったら勝負はどうなるんな?」
「先に着いた方が勝ちじゃろう」
「何でじゃ!それはずるじゃ!」
「何でずるなんじゃ?お前が京二に、先に行け、と言ったんじゃろ?それなら文句は言ったらいかん」
「駄目じゃ!」
そのまま二人が山頂の景色をその目に刻もうとした刹那、二人は茂みに引っ張られ、藪の中に姿を消した。
神隠しのように、一瞬の出来事であった。