牛鍋屋にて
「杏、一つだけ文句言ってもええか?」
「しょうがないから一つだけ文句を聞いてあげるわ。でも、聞くだけよ」
「何で鍋が一個しかないんなあ?わしは最初に言うたぞ。わしらはこれから早食い勝負をするんじゃ、と。鍋一個じゃ誰がどんだけ食ったか分からんし、早食い勝負にもなっとりゃせんがな」
「小皿に分けて欲しいってこと?」
「違うがな!一人につき一人前の鍋が欲しいゆうことじゃ。これはどう見たって四人に対して一人前しかないじゃろ!」
「そうですか。では、ごゆっくり」
「こら、待て、杏!どこ行くんなあ」
「何言ってんのよ。ちゃんと文句聞いてあげたじゃない」
そう言って杏は店の奥にある調理場の方へと消えてしまった。
先ほどの四人は杏の両親が切り盛りしている食事処、『平井屋』にやってきた。この平井屋は杏の祖父の代から続いている店で、味もよく、常連客で賑わう日もしばしばである。
しかし、店を出したばかりの頃のような忙しさを最近感じられなくなってきたのもまた事実だ。当初は牛鍋の珍しさもあって客足が途絶えることはなかったのだが、年が経つにつれてその物珍しさも薄れ、客足は遠退いていってしまった。店の中にお客がいないこともそれほど珍しくなくなってきてしまった現状において、空席ばかりが目立つ景色とは裏腹に、店内はとてもやかましかった。
「杏ぅ、逃げるなや~。そない恥ずかしがらんでもいいから出てきてくれや。ほら、顔だけでもいいからよぉ~」
いつでも騒がしい春一をなだめたのは代月だった。
「春一や、よ~く考えてもみんさい。お前、ここで牛鍋食べてからお金を払ったことがあるんか?わしが記憶している限りは一銭たりとも払ってないぞ。いわばわしらはタダ飯を頂いておると言うことじゃ。そんなに文句ばかり言っておったら罰が当たるぞ」
さすがは代月、実に常識的な意見を述べているのだが。
「代月、お前もわかっちょらんのう。わしはべつにタダで飯食うとるわけじゃないがな。今お金を払ってないだけで、ちゃんと、将来払うつもりでおる。なんじゃ、その、あれじゃがな、出世払いとか言うやつじゃがな」
この答弁に、三人が呆れていると、奥から杏ではなく杏の母親が出てきた。
この時ばかりはさすがの春一もかしこまるものとばかり思っていた三人だったが、その予測に反して春一の態度は少しも変るところがなかった。
「おばさん、聞いてくれや。杏が一人前の牛鍋しか持って来てくれんのじゃ。おばさん、おばさんにはわしらが何人に見えるかや?」
杏の母親は、おばさん、と言うには少々若すぎるようにも見えるのだが、どうも春一にはそういう感覚がないらしい。杏の母も春一のそんな呼び方を全く気にしていないらしく、優しい笑顔は少しも崩れることがない。春一を除く三人はみな一様に、杏の母親に見とれていたわけだが、杏も大人になればこれほどの別嬪さんになるであろう、というところまで考えが及んでいるものは一人もいなかった。
「春ちゃん、ごめんね。私の目には、はっきり四人のお侍さんが映ってますよ。でも杏がね、どうしても一人前以上は出しちゃダメだって言うのよ。あの子、一回言い出したら聞かないでしょう。せっかく作った牛鍋をひっくり返されるのもおばさん嫌なのよ。だからごめんね、堪忍して頂戴な」
頭を撫でられた春一はやっとのことで大人しくなった。
「まあ、おばさんが言うならしかたない。ほら、もう勝負はなしじゃ。食え食え、わしのおごりじゃ。たんと食え」
みなが鍋を突っつき始めたのと相反するように、一人の少年が居住まいを正した。
「たんと食え、って言うほどないだろ。それにまたタダ食いするつもりか。情けないな」
そう言いつつ秀也は杏の母親の方へと体を向けている。
「杏の母上、俺が大きくなったらいくらでもお勘定を払うから、今日は見逃してください」
「あら、秀ちゃん。それじゃあ期待してますよ」
秀也が精一杯の格好をつけ、杏の母親の美声に酔いしれているうちにも鍋の中身は減っていく。
「ああいうのを阿呆と言うんじゃ」
春一が箸で秀也を差しつつぼやいていた。もちろん口の中はなおも忙しく動いている。
「きっと杏の母さんはあいつのことを女だと思ってるに違いないさ。かわいそうな奴だ」
京二もそれに加勢した。こちらもやはり、箸の動きは止まらない。
代月は無言を保っていた。
「代月、あんまり急いで食べると身体にようないぞ。もうちょいゆっくり食べたらどうかや。お前は身体が弱いんじゃから、せっかくのうまいもんが毒になったらいかんじゃろ?」
代月は尚も無言である。
すると京二が、
「こういうときだけわしを病人扱いするのはやめてくれ、って言ってるんだと思うぞ。たぶんだけどな」
と、代月の代弁をしていた。この時、代月はこくりと頷いたので京二の解釈は正しかったことになる。
やはり食べ盛りの子供たちの食欲と、各々利き手の敏捷さと言ったら釣り合いに出すものがなかなか見つからないほどに旺盛かつ素早いもので、ものの数分のうちに鍋の中身は空っぽになってしまった。咀嚼の回数が足りなかったのか、三人はあまり満腹感を感じていないようなのだが、牛鍋を食べることができた満足感はいっぱいのようである。
ここに至ってようやく秀也が気付いた。
「お前らなんでもう全部食っちまってんだよ!俺は一口も食ってないぞ!」
主犯格が三人もいるので誰にこの怒りの丈をぶつけていいやらわからず、とりあえず空っぽの鍋を指さしつつ三人に満遍なく不満をぶちまけた。
背景を赤で満たすような秀也の怒りとは対照的に、三人の反応は実に冷めたものだった。
「わしらはちゃんと言うたがな。秀也~早うせんとなくなってしまうぞ~、と。じゃが、お前は奥に行ってしもうたおばさんの後姿を気持ち悪う目して見つめとるもんじゃから、気付かんかったんじゃ。じゃからわしらはなんも悪うないがな」
早くしないとなくなるぞ、と言ったかどうかは別にして、確かに非は三人ばかりにあるものではない。そのことに気付くはずもない秀也は未だ怒りの炎を煮え滾らせている。
春一に続いて今度は京二が話し始めた。
「そうだぞ、俺たちは言ったんだ。秀也~お前の分も食っていいか~、食っていいなら沈黙を持って答えてくれ~、ってな。お前は何にも返事をしなかったから、俺たちはお前の分まで食べることにしたんだ。俺たちにとっては苦渋の決断だったんだぞ。なあ、代月」
代月はこくりと頷いた。
京二はそんな問いかけなど一切していないのだが、確かにずっと黙ったまま杏の母親の背中を見つめていた秀也は、残念なことに本人すらも周りの声が聞こえていなかったので、今回の件については自分に非があったのかもしれん、と思い始めてしまった。代月が京二に相槌を打ったこともこれに追い打ちをかけていた。
それゆえ秀也は、
「そうか」
とだけ言って大人しくなってしまった。
秀也にとっては後悔の、三人にとってはしてやったりの沈黙がしばしの間流れた。
すると、この四人が静かに大人しくしていることがやけに珍しく、興味をそそられたようで、店の奥から再び杏が現れた。
しかしまあ当然と言うべきか、杏が春一にとっての引き金となってしまうわけで。
「杏、秀也が牛鍋を食い損ねてしまったようでの、もう一つでええから鍋を持って来てくれんかや」
「いや」
「何でそんなに冷たいんなあ。このままでは秀也は死んでしまうかも知れんのだぞ。牛鍋お化けになってしまうかも知れんのだぞ。杏はそれでもええんか?」
「いいわよ。おもしろいじゃない」
これには秀也の顔がやや引き攣った。しかし、春一は止まらない。
「なにがおもしろいじゃ。牛鍋お化けなんて出てみい、みんな怖がって牛鍋なんか食べんようになってしまうぞ。この店を見てみい。わしらしか客がおらんじゃないかや。これ以上寂しいなったらやっていけんくなるぞ」
会話の途中で、はっ、とした代月が春一の言葉攻めを止めようとしたのだが、時すでに遅かった。杏はもはや怒り心頭である。
「大きなお世話よ!今日はたまたまお客さんがいないだけでいつもはちゃんといるんだから!うちの牛鍋は一番なんだから!」
「おお、そうかや、そうかや。確かにここの牛鍋はうまいぞ。じゃがな、この店が満席になったことはあるんかや?店が賑わう言うんは満席になることを言うんじゃ!」
残りの三人は、春一がこの店のことを褒めているのか貶しているのかよく分からなくなってきた。しかし、どうにもこうにも二人の間に口を挟めない。
「いっつもお金払わずに鍋食べてるあんたになんか言われたくないわよ!」
「出世払いじゃと言うとろうが!わからんやつじゃのう。お前みたいなけちけち女がおるから繁盛せんのじゃ!おばさんがかわいそうじゃ!」
この頃になると杏の目には涙が浮かんでおり、ふぅ、と吹いただけで今にもその雫が零れ落ちてしまいそうだったのだが、強気な性格の持ち主である杏は春一の傍若無人な言葉攻めに一歩も引こうとしない。
気付けば杏の母親も顔を覗かせていたのだが、どうやらこの光景を見るのは初めてではないらしく、特に険しい表情もしていない。むしろ、喧嘩するほど仲がいい、という言葉を温かい目で見守っているという感じである。
杏の母親のそんな視線に気付いた男三人はやや安心して、いつになったら二人の喧嘩は終わるのだろうか、ということに思いをはせていた。
二人の言い争いはなおも続いている。
「だったらどうすればいいのよ!私がいなくなればいいって言ってるのね!」
「誰もそないなことは言うとらんがな!」
「じゃあ、どうしろって言うのよ!うちを毎日繁盛させるためにどうしろって言うのよ!」
「そんなもん、あれじゃ!その、なんというか、あれじゃ!」
勢いに任せて喚いていた春一が杏の母親を見つけて、何を思ったか、
「おばさん、布じゃ!ひらひらした布と、あとは筆じゃ!そうじゃ。布と筆を持って来てくれ!」
と叫んでいた。
急に名前を呼ばれた杏の母はきょとんとした視線を春一に送っている。
「春ちゃん、急にどうしたの?布と筆って何に使うの?」
めちゃくちゃな答えが返ってくるものとばかり思っていた杏の母だったが、春一は前からそう思っていたのか、はたまた、本当に単に思いついただけなのか、それなりの理由を用意していた。
「わしが思うにこの店が満席にならんのは、入口にかかっとる暖簾のせいじゃと思うんじゃ。あの暖簾はちょいと古すぎやせんか?」
「う~ん。確かに汚れてるし、そのせいで文字も読み辛くなってるかも知れないけど……。もしかして春ちゃん、うちのお店の暖簾を新しくしてくれるのかしら?」
この問いかけに、春一は胸を張って答えた。
「さすがおばさん、ようわかっとるがな。店の名前がはっきりわかれば客も寄ってくる言うもんじゃ。暖簾は小奇麗にせんといかんのじゃ。よう言うじゃろ、暖簾は店の顔じゃと。いや、あれ、そないに言わんかもしれんのう。まあ、どっちでもいいわ。とにかくおばさん、布と筆を持って来てくれ」
せかす春一に応えるべく杏の母親は店の奥へと消えていった。
杏は春一と母が会話をしている隙に、自分の目をこすって涙を拭い落とし、いつもの透き通った瞳を取り戻す。男三人は肢体をのびのびと伸ばし、やっと終わった、という感想を身体全体で表現している。
そうしているうちにも杏の母親が店の暖簾用に寸法の整った布と筆を持って現れ、座敷に布を広げ始めた。
「それじゃあ春ちゃん、お願いね」
そう言って渡された筆を握ったはいいものの、春一は固まったまま動かない。筆を渡した後は、その傍らで始終を見守ろうとしていた杏の母親の代わりに、杏本人が問いかけた。
「何してるのよ?早く書き始めなさいよ」
しかし春一は少し困ったような顔を見せている。
「杏、この店の名前は何と言うんかや?『あんず屋』か?『牛鍋屋』か?」
杏は少し怒ったように、
「うちは『平井屋』よ!店の名前も知らないくせに、よくのうのうと呑気にお勘定もせずご飯食べられたわね!どういう神経してるのよ!」
と言って、春一が持っていた筆を取り上げてしまった。
「そない怒るなや。漢字じゃったからわからんかったんじゃ。そうじゃ、わしらにもしっかりわかるように、ひらがなを使おうや」
春一が言い訳をしているうちにも杏は布に筆を走らせている。布の上には、今の杏の心境そのままに、実に力強い文字で『ひ』と書かれていた。
「べつにあんたの言うことを聞いたわけじゃないわよ。漢字が書けないだけだからね」
どこか悔しげな表情を見せる杏の顔に気付くことなく、春一は新たな暖簾を見つめていた。
「何勝手に書き始めとるんな!わしが書こうと思っとったんに!もうええ。こうなったら全員で書くんじゃ。ほれ、そこの三人、なにくつろいどるんじゃ。はよう書けや。わしがしめじゃ」
そう言った本人は気付いていなかった。春一の頭の緩さがこんなところにも顔を覗かせてしまっているということに。
「しかたないな」
とか言いながら、秀也が『ら』を書いた。
「なんじゃ、意外と綺麗な字ぃ書くんじゃな」
春一が感想を述べている間にも、京二が筆を走らせていた。布地には新たに『い』の文字が加わっている。
「きったねえ字じゃのう。い、なんか、り、なんかわからんじゃないかや。まあ、いい、次!」
と言ってから春一は気付いた。しかし、そんな春一に向って代月は見せつけるかのごとく、文句のつけようがないくらい完璧な筆運びで『屋』と書いていた。無意味に長々と待たされた春一への嫌味を、漢字を使うことで表現しているあたりはなんとも代月らしいと言える。
これを見ていた杏は、
「書き終わっちゃったわね」
と、春一の顔を正面に据えて、実に晴れやかな笑顔で話しかけていた。
「杏、お前、今、わしのことを阿呆だと思ったじゃろ」
「思うわけないじゃない」
杏の表情は今日一番の輝きを放っている。
少し拳を握ってから代月の持つ筆を取り上げた春一は、既に完成してしまっている布地の暖簾と対峙していた。
そして、叫ぶ。
「まだ終わっちょらん!よう見とけ!」
声量と同じく豪快に筆を走らせた春一がその動きを止めると、『屋』の隣には何やら見たこともない生き物が描かれていた。
思わず覗き込んだ京二、秀也、杏が訊ねる。
「犬か?」
「いや、豚だろ」
「え?これ生き物なの?」
三人の悩ましげな顔を見て、最後に覗きこんだ代月がつぶやいた。
「牛?」
四人がそろってこの不可思議な絵を描きあげた少年の顔を見やると、
「そうじゃ、牛じゃ。どうかや、かわいいじゃろ?」
何とも誇らしげな表情の春一がそこにいた。
「おばさん、できた。明日からはこれを店先にかけてくれや。繁盛すること間違いないはずじゃ」
完成した暖簾をまじまじと見つめる杏の母は、
「あら素敵。明日から忙しくなるわね。みんな、ありがとうね」
そう言って一人一人の頭を順番に撫でていった。
男四人は杏の母に撫でられたことがうれしくて仕方なかったようで、みな同じように鼻の先や頬をポリポリと書いていた。そんな様子が可笑しくて仕方なかった杏はくすくす笑っているのであった。
男四人が平井屋を出る頃になると辺りは真っ暗だった。月の明かりだけではどこか頼りないものの、四人でいればそんなことは気にならない。
結局米しか食べられなかった秀也が口を開いた。
「春一、牛鍋お化けはないだろ。もっとかっこいいお化けにしてくれよ」
騒ぎすぎて疲れたのかどこか眠たそうな春一が、だるそうに答えた。
「何でもいいがな。どうせお化けなんかおりゃあせんのじゃから。何でも一緒じゃ」
これに反応したのは京二だ。
「春一、お化けはいるぜ」
「何を呆けたことを言っとるんな。イタイぞ」
「お前、知らないのか?恐山とか霊山とかいう山を」
「なんなあ、それ?」
春一は代月の方を見る。しかし、答えたのは秀也だった。
「妖怪が出るとかいう山だろ?俺も聞いたことがある」
「よ、妖怪が出るんか……。た、たまらんのう」
急に声が細くなった春一に対して京二が訊ねる。
「お前、もしかして怖いのか?」
これには春一もむきになって答えた。
「こ、怖いわけないがな。む、むしろおもしろそうじゃ」
これに対して、待ってましたとばかりに京二が続ける。
「そうか、よかった。それならちょうどいい。春一、勝負だ」
びくっ、とした春一の代わりに秀也が口を開いた。
「正気か京二。恐山には絶対に入っては駄目だと桐蔭先生がよく言っておられるではないか。そんなことも聞いてないのかお前は」
しかし京二は考えを改めようとはしなかった。
「お前ら知らないのか?確かに恐山は危険な所だけどな、それなりに魅力的なとこでもあるんだぜ」
京二はどこか優越感に浸っていた。
「じゃあ、教えてやるよ。誰にも話しちゃ駄目だぜ」
自然とひそひそ声になっている。
「妖怪を退治すると、その妖怪が―――――」
言い終わる前に代月が邪魔をした。
「無理じゃ」
代月の声は静かだった。静かだったのだが、静かに怒っている。三人にはそれがわかった。
「何が無理なんだよ」
しかし、話を遮られた京二は少しばかりの怒気を込めて代月に対している。
「まず妖怪を退治するということがわしらには無理じゃ。そもそもわしらは真剣を握ったことすらないじゃろう」
代月は見抜いていた。京二が言うところの、勝負、なるものが、妖怪退治、になるであろうということを。そしてもう一つ。京二が妖しい力に魅入られつつあると言うことを。
「京二や、今のお前が魅力的に感じている力は外道じゃ。強くなりたいと思う気持ちは分からんでもないが、その力は自分の力そのものではない。お前の表面的な力を補ってくれたとしても、お前の中身まで強くしてくれるわけではないからのう。違うか?」
諭すように語られるその口調に、京二の怒気は冷めていった。
「ま、まあな。確かに外道だ。代月、すまん」
「べつに謝るようなことじゃあない」
妖怪退治などと言う大それたことを思い描いていた自分が恥ずかしくなる京二であったが、いかんせん彼もまだまだ子供である。どうにも抑えきれない好奇心というものがふつふつと沸いてきて仕方がないのだ。この欲求は食欲と同じぐらい強いのだからしょうがない。
「代月、あのさ、妖怪を見るだけってのも駄目か?」
そして、代月もまた子供なのである。
「わからん。じゃが、実を言うと、わしも見てみたくてしょうがないんじゃ」
京二と代月が秀也の顔色を窺う。
「な、何だよ。桐蔭先生の教えを破れって言うのかよ。ま、まあ確かに見てみたい気もするけど……、な、なあ、春一」
秀也は、桐蔭先生の教えを破る、と言うこの一点にのみ後ろめたさを感じていた。
これに対して、ふられた春一は実に曖昧な返事をした。
「べ、べつにわしはお前らとちごうて大人じゃからそんなもんに興味はないし、全然見とうないんじゃが。お、お前らがどうしてもわしについてきて欲しい言うんじゃったら、ついていかんこともないが」
最初は、おもしろそう、とか言っていただけに、この矛盾が春一の動揺を表わしていると言ってもいいだろう。
この何とも言えないぐだぐだした感じを京二がまとめた。
「じゃあ、こうしよう。明日、俺と春一は勝負をする。場所は町のはずれにある恐山。勝負は、より高くまで山を登れた方が勝ちだ。秀也と代月にはそれぞれ俺か春一についてもらって、勝負の判定をしてもらう。ようは、証人だと思ってもらえばいい。空が赤みを帯びてきたら勝負はそこで終わり。妖怪に出くわした時は隠れるなり逃げるなりすればいい。とにかく勝ち負けは高さで決める。どうだ?」
秀也が質問をした。
「明日って、明日のいつだよ?」
「勉強会が終わった後だ。稽古はサボることになるが、一日くらいなんてことないだろ?」
秀也は自分の中で、稽古と妖怪を天秤にかけてみる。すると、あろうことか妖怪の方がその重みを強調してしまった。そのため、表情は渋いものの拒否はしなかった。
ところが春一の中では、興味、よりも、恐怖、の方が重たいわけで。
「こらこら、お前ら、稽古をサボるとは何事かや。剣術言うもんは日々の鍛錬が大切なんじゃ。そんな事を言うとるからお前らは、わしにいつまでたっても勝てんのじゃ」
暗くなってから恐山に入ると言うのはさすがに危険なので、京二は避けたかった。それゆえ、今の春一の発言には少々イラッときたのが、春一の頭の中はそれほど複雑にはできていない。
「春一、怖いのか?」
「んなわけあるか!」
「なら、明日どうするんだ?」
「行くに決まっとろうが!稽古なんてサボっちゃるわい!」
単純そのものであった。