皆花塾で学ぶ子どもたち
時はさかのぼる。
この時代の日本は江戸幕府によってその治世を保っていた。しかしそれは綱を渡るくらいの危うさでしかない。巷では、幕府が倒れる日も近いらしいぞ、などという噂が、四季のあいさつのように定着しつつある頃合い。
大人たちがそんな噂で暇をつぶしていようが、町を所狭しと駆け回る子供たちにとっては何ら気にするようなものではないらしく、当面の彼らの悩みはと言えば、町の子供たちならばほとんどの者が通っている、私塾で課される宿題などについてであった。
私塾と言ってもお金を払わねばいけないところばかりではない。
皆花塾はその典型である。塾長の六花桐蔭が趣味で始めたような、道場の稽古も兼ねているこの塾では、似たような年頃の子供たちが大勢学んでいるのだった。
「先生、わしはとんとわからんのじゃ。なんで足し算やら引き算とかいう、ようわからんことをせなならんのか。字ぃ読むいうんは大事やいうことがわかるんじゃが、こう、数字でこない遊んどったって、何の意味があるんかわしにはわからん」
十歳くらいの年頃の少年がそこに立っていた。周りの子供たちはその少年を見上げている。
「春一、君はどうして毎回同じ質問ばかり繰り返すのですか。足し算引き算はお金の勘定をするときなどにとても大切なのだといつも言っているでしょう」
「わしはお金の勘定なんかせんからいいんじゃ。わしはいつもそういう面倒なことは代月か杏にやってもらっとるからのう。なあ、代月、杏」
教える側の立場にある桐蔭先生ですら手を焼くほどの屁理屈をこねているこの少年の名は、木稲春一。そして、この少年特有のかなり強い訛に名前を呼ばれた二人の生徒はそれぞれの反応でこれに応えた。
「自分で計算できるにこしたことはないがな、春一」
正岡代月少年は、一人でペラペラと紙をめくりながら、桐蔭先生の説明を特に聞くでもなく独学で筆を進めていた。春一の扱いは慣れているのか、特に抑揚のない澄ました声で春一に対している。
一方、この教室においては少数派であり、春一たちとつるむ連中の中にあっては紅一点の存在である平井杏は、特に言葉を発することもなく、ぷいっ、とあらぬ方向に顔を背けてしまうのであった。同い年ということもあって一緒にいる時間が長いため、このようなことをしょっちゅう経験している杏が匙を投げたくなるのも無理はない。
「なんでなあ。二人とも冷たいがな」
とだけ言い残し、ふて腐れたかのように、どかっ、と床に腰を下ろした春一は、それでもやはり納得がいかないらしく、隣の席の少年に語りかける。
「秀也、お前はどうなんな?お前はわしの味方じゃろ?お前も先生の言うとることなんてさっぱりわかっとらんのじゃろ?」
藤坂秀也少年は、ひそひそ声で話しかけてくる春一の声が邪魔で仕方ないらしく、
「うるさい!先生の声が聞こえないだろ。俺はお前と違ってちゃんと先生の話を聞いてるし、宿題だって毎日ちゃんとやってるんだ。お前と一緒にするな」
そう言って、別の教科書を襖のようにして春一との間に置いてしまった。
もはや誰か自分の意見に賛同してくれる人を見つけなければ腹の虫がおさまらなくなった春一は、くるりと後ろを振り返る。そして、ニヤッ、とした顔つきで問いかけた。
「京二、お前はわしと一緒じゃろ?お前とは試験の点数も大差ないからのう。下手したらわしの方が上かも知れん。なあ、どうなんじゃ?お前も足し算なんかいらんと思うとるんじゃろ?」
しかし、京二もまた春一に賛同することはなかった。
「俺はやれば出来る子なんだ。っていうか、俺は出来る子なんだ。足し算なんてちょちょいのちょいだ。お前と一緒にされたくないね」
「京二よ、お前はいつからそんなにイタイ子になってしもうたんじゃ。お前が勉強できんのはようわかっとるから強がらんでもいいぞ。先生の話を聞くふりももう疲れたじゃろ、勉強出来んもんは出来んもんどうし仲良うやろうや」
「春一、お前、俺に喧嘩売ってるのか?」
「いやいや、わしは事実を述べとるまでじゃが」
「ふざけんじゃねえ!」
「ふざけとらんがな!」
教科書や筆などを派手に散らかしながら、春一と京二がお互いの胸倉を掴んで勢いよく立ちあがった。この教室にあってはよくある光景に、桐蔭先生は、またか、というような表情で手のひらを自らの額に当てている。春一の隣にいる秀也は倒れた襖代わりの教科書を再び立て直し、他人のふりを決め込んでいる。代月は二人の様子などお構いなしで、黙々と教科書を見ては筆を走らせ、たまにチラリと二人を見ては再び視線を机上に戻していた。
杏はというと、もはや二人の保護者であるかのような気持ちになっており、だんだんとイライラしたものが込み上げて来て、
「春一!京二!いい加減にしなさい!喧嘩なら外行ってやって頂戴!」
という、桐蔭先生も驚くくらいの怒号を発していた。
「違うんじゃ、杏、悪いのは京二なんじゃ」
「違うだろ!悪いのは春一なんだ。俺を信じてくれ、杏」
「何を言うとるんじゃ!お前が先にわしの胸倉掴んだんじゃろうが!」
「嘘を言うな!お前が先に掴んだんだろ!」
「嘘も大概にせえよ!お前が先に殴ってきたんじゃろうが!」
「ふふ、ボロを出したなバカ春一。俺はまだお前を殴ってないぞ」
「やかましいわ!言葉の暴力じゃ!」
「なんだと!めちゃくちゃなことばっか言ってんじゃねえぞ!」
ともすれば永遠に終わらなさそうな二人の喧嘩も、ここで終わりだった。
ぷるぷると怒りで身体を震わせた杏が二人の前までやってきて、カッ、と両眼で二人をにらみつける。そのまま深く深呼吸をして、もう一度言い放った。
「さっさと出てけ――――――っ!」
突風の嵐に襲われたかのようにしばし呆然とその場に立ちくしていた春一と京二は、
「京二、わしらはどうやら外に行った方がよさそうじゃ」
「あ、ああ。わかってる。よし、行こう。外に行こう」
しゅん、とした背中を並べて外へと追いやられるのであった。
その日の帰り道。
茜色の空の下、土臭い丘の坂道を一人の少年が、あっちへ行くでもなくこっちへ行くでもなく、ふらふらと歩いていた。少年の肩には竹刀が入っているのであろう袋が掛けられている。
皆花塾では、男は強くないといかん、という桐蔭先生の持論のもと、男子は全員強制的に、教室の隣にある道場を使って剣術の稽古をさせられているのだった。稽古は勉強会の後に行われるのが皆花塾の習慣であったから、帰りがこれくらいの時刻になるのは珍しいことではなかった。
雲のように掴みどころなく歩いていた少年の後ろから、別の少年がやってきた。
後ろから現れた少年は、呼吸のたびに肩を大きく上下させ、額からはきらきらと光る雫が流れ落ちている。
「待てよ春一!勝負だ!」
汗をかきながら必死に走ってきた少年は、言葉の威勢とは裏腹にどこかぐったり加減である。稽古が終るとすぐにその場を去り家路へと向かってしまう癖のある春一に少し遅れてから気付き、気付いてからはすぐに追いかけた少年が、疲れを感じているのは無理もないことだろう。
しかし、そんな少年の苦労などどこ吹く風の春一は、からりとした声で言い返す。
「なんじゃ、京二か。何の勝負なあ?喧嘩はせんぞ。また杏に怒られてしまうからな。そうじゃなあ、う~ん、何がいいやらなあ」
すると京二は竹刀を取り出し、
「剣術で勝負だ」
その矛先を春一へと向けていた。
「竹刀はやめようや。わしがつまらん。勉強じゃったらわしとお前はいい勝負なんじゃが、剣術はどう考えたってわしの方が上じゃ。お前がもうちょっと強うなってからにしよう。うん、そうしよう。別の勝負はないかや?」
そんな春一の言葉に京二は腹が立ったらしく、
「今日の俺は強いんだ!だからお前も早く竹刀を持て!」
夕日と同じくらい上気した顔で怒鳴っていた。
「今日の俺、って何遍聞いたか分からんがな。だいたい、お前には変な癖ゆうもんがあるしのう。どうせじゃったら十年後のお前をこの場に連れてこい言う話じゃ」
いつものようにああでもないこうでもないと二人が言い争っているうちに、京二の影にはもう二つの影が並んでいた。
その影に向かって、三人から見れば坂下に位置する春一が吠える。
「秀也、お前、その長い髪は鬱陶しくないんか?はよう切れ」
「うるさい。明日にでも切るつもりだ」
「お前の言う、明日、はいつなんじゃ?もう一年くらい経つがな」
「明日は明日だ」
「まったく、女みたいなやつじゃのう。もしかしたら杏より長いんじゃないかえ?」
そう言った春一はふとひらめいたようだ。
「京二、決まったぞ。早食い勝負にしよう。杏んとこの牛鍋屋で牛鍋早食い勝負をするんじゃ。秀也と代月も来るじゃろ?」
誘われた秀也と代月は互いの顔を見合せつつも、稽古が終わったばかりの二人の腹はこの提案に対して否定的な見解を示すはずもなく、
「いいぞ」
「かまわん」
という返事をしていた。
京二の返事を聞くことなく、と言うより、もはや勝負どうのこうのよりもただ単純に飯を食いたかっただけの春一は、再び坂を下るのであった。
その背中を追いかけるようにして、京二、秀也、代月も坂を下って行く。
様々に味わいのある赤色が、彼らを優しく照らしていた。