汚い正義と曇りなき正義
圧巻ここに極まれり、といった様相を呈してきた。
怪紋の妖しい輝きとともに京二の体中に気味の悪い文様が浮かび上がったかと思うと、感情の箍が外れたかのように、京二は春一へと襲いかかってきた。人の容姿をしたままの京二であったが、体中に這いずりまわる不気味な文様のせいで雰囲気はもはや人ならぬ者の様である。
京二が振るう狂刃に対する春一は、とにかく逃げ回っていた。
紙一重の差で春一をとらえられない京二の刃は虚しく空を切り、空振りの無念を広間の床へとぶつけていた。おかげで石造りの床はことごとく抉られ、ここが城内であることを忘れさせてしまうくらいだ。
春一は京二の一振りを見た瞬間、
「これはいかん」
という言葉だけを残して、ひたすら回避に努めた。京二の動きの速さは幸い人並みだったので、一振りを避けたついでに思い切り脇腹をぶん殴った春一であったが、京二の皮膚はあの時の鬼のように、磨き上げられた鉄の如く硬かった。
殴った春一の方が苦悶の表情を浮かべており、
「やっぱりいかん」
と二言目を発してからは何も発していない。
逃げ回る春一を目で追いながら、京二が声を発した。
「お前も刀を握れよ」
抜刀しない春一に対して京二は歯痒さを隠しきることができない。自分は何も春一を仕留めたくて刀を振るっているわけではないのだから。ただ確かめたいだけなのだ。自分の正義を、自分が存在する価値を。
それを知ってか知らずか春一が答えた。
「お前は何で刀を握っとるんな?」
京二が刀を握っているのはまぎれもなく、自分自身の弱さゆえである。自分の曖昧な正義を純真な春一の視線に見透かされたような気がして抜刀したのである。隠さねばならぬ正義などもはや正義ではないのだろうが、京二は頑としてこの正義を守り通そうとしている。そのことは京二とて薄々は気付いているのだろうが、それを自分で認めることなどできるはずもない。
今の京二にとってはこの正義が全てであり、それがなくなってしまえば京二は自分のよりどころとするものを失ってしまうのだから。掲げる正義を失ってしまえば京二は単なる人斬り鬼斬りであり、それはまぎれもない悪である。自分が憎み続けてきた悪である。
自分では己の正義を否定できない京二は、もしかしたら期待しているのかもしれない。春一に。春一が京二の曖昧な正義を――――。
「これは俺の正義だ。この刀一本で俺は強さを手に入れた。こいつが俺を支えてくれたのだ。だから俺は握ってるんだ。俺の正義を」
春一は少し目を細めながら京二の刀を見つめている。
「きったねえ正義じゃのう」
「見た目だけがすべてじゃないさ」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた京二が春一を睨みつける。
「さあ、そろそろお前も見せてみろよ、お前の正義を。久しぶりに勝負でもしようじゃないか。俺の正義とお前の正義、どちらが屈強なものなのか、勝負だ」
逃げやすい体勢だけは崩さなかった春一が居住まいを正した。
「さっきも言うたがお前の正義どうのこうのは全然興味ないんじゃがのう、もしかしたらお前の握っとるそのきったねえ正義がお前を横道にそらしとるんかもしれんな。まあ、どのみち勝負とくれば断ることはできんし、相手がお前ならなおさらじゃ。しょうがないからわしの正義を見せちゃるわい。泣いて謝っても許したらんからな」
そう言って春一は抜刀した。
そのあまりにも美しい刀身に京二は目がくらんでしまった。わずかな光すら汲みとり、自らの輝きへと変えてしまう春一の刀は直視することもままならないくらいだ。
「わしの愛刀、葵崩し菊紋の太刀、に一片の曇りなし」
子供のように無邪気にそう告げた春一は自信満々に訊ねた。
「どうじゃ、わしの正義は」
一片の淀みもない春一の刀を見て、京二は訊ねざるを得なかった。なぜなら、春一の正義はあまりにも透き通っていて、妖怪に侵された痕跡が一つも見あたらなかったから。
「春一、お前は妖怪を斬っていないのか」
「当たり前じゃ」
さも当然かのように言いきる春一を、京二は理解できなかった。春一だってあの時見たはずだ。桐蔭先生の怪紋刀から発せられた圧倒的な強さを。それでいてなぜあの力を欲しようとしないのか、自分のものにしないのか。あの時の春一が一体どんな顔をしていたのか京二には分からない。みんな自分と同じ風に思っているものだとばかり思っていた。
(あの時から、俺たちは別々の道を歩み始めてしまったのだろうか)
異なる景色を追い求め始めたそのきっかけ、瞬間なるものがいつだったのかは分からない。だが少なくとも結果だけを見れば自分たちは別々の道を選び、歩んでいた。
「なぜだ、なぜ妖怪を斬らないんだ。お前は強さを求めないのか、力が欲しくないのか?」
春一の表情は少しも揺るがなかった。
「そりゃあ誰だって強くなりたいがな。じゃがのう、わしはその強さを妖怪なんぞに求めたりせん」
またしても京二はぐらりと揺れた。自分がひたすらになって追いかけてきた強さをたった一言で一蹴されてしまったのだから。鬼にその強さを求めた過去の自分、そしてその過去の連続である今の自分を、春一はたった一言で否定してしまったのだから。
京二にはさっぱりわからなかった。春一の揺るぎない自信が一体どこからやってくるのかということが。だから、訊ねた。
「じゃあ、何に強さを求めるんだ」
京二の問いかけに、だからお前は阿呆なんじゃ、とでも言いたげな春一が答える。
「わし自身に決まっとろうが」
春一の言葉は力強かった。そこには少しの後ろめたさも隠されていなかった。
春一だってわかっている。人は変わり、時代は流れるということを。でも、だからこそ、春一は自分自身に誓い、自分自身に期待する。多くなくていい、ただ一つ、されど堅固で揺るがない不動なる決意がそこに宿ると信じ、また、その決意を変わらず追い続ける自分がいつの時代もそこにあると期待して。
今度は春一が訊ねた。
「京二、お前は何を信じちょる?」
京二はぐっと柄を握る手に力を込めた。そして自分に問いかける。俺は何を信じてここまでやってきたのだろうかと。自分はずっと強さを追い求めてきた。しかしそれはあくまでも目標である。自分というものを信じ切っている春一とは違い、京二は自分自身を深く信じ切るということはできない。自分は常に何か目標を掲げ、それに近付こうと努力する種類の人間だから。目標を抱くからには自分とそれとを常に比較していなくてはならない。自分が劣っていることに涙した日も少なからずある。
京二が自分自身を信じるというのは、京二が自分の理想を上回ったときにしかあり得ない。そんな日がいつか来るということを、今の京二は想像することすらできない。ともすれば、京二が自分を信じるという日は永遠に来ないだろう。
「俺は」
今の自分は何を信じているのだろう、と京二は考えているのだが、今の自分すら見失いつつある京二にとって、春一の問いかけは少々酷なものなのかもしれない。
しかし京二は考え続ける。これに答えなければ自分というものが崩壊してしまうかもしれないから。本当に、自分を保ち続けるというのは難しい作業である。今までは何ら気にすることなく生きてきたのだが、一度疑問が噴出するとなかなか答えが出てこない。もしかすると、これという答えはないのかもしれない。
お世辞にも美しいとは言えない春一の訛にめげることなく、玲瓏と響く春一の声を聞いているうちに、京二はあることに気付いた。
(自分はなぜこれほどまでに悩んでいるのだろう)
「ああ、俺は」
もしかしたら自分は、見えない、が故に悩んでいるのかもしれない。
かつては春一に憧れていた。喧嘩を仕掛けるのだって、自分が春一にどれくらい近付いたのかを測るための物差しだった。その結果に一喜一憂し、年月というものは瞬く間に過ぎていった。
成長した京二はとにかく強さに憧れた。そのためには妖怪を取り込むのだって厭わなかった。それが強さに帰結するのであれば、自分が望むべきものなのだと判断した。
この二つを追い求めていた頃の京二には確かに見えていた。目標を達成する未来の自分の姿が。未来の自分の姿が見えていたがゆえに歯を食い縛って奮闘することができたし、鬼神の如く圧倒的な力を持つものにも立ち向かうことができた。
「信じてるさ」
今の自分は見失ってしまっているのだ。憧れるべきものを。強さはもう手に入れた。それゆえ見ることができない。思い描くべき未来の自分の姿が。
「未来の自分を、信じてる」
思考の迷宮の中で、どこが終点ともわからずただ漆黒をさまよっていただけの京二には何も見えなかった。自分が目を閉じているのか開けているのか分からないくらいに、その闇は深かったから。
しかし、今の京二は眩しくて仕方ない。目を閉じていてもそれは強烈に主張してくる。控えるということを知らないその輝きは京二に叫び続けている。やかましくて仕方ないのだが、京二はそれを不快なものだとは思わない。その輝きの先には、きっと、自分が憧れるべきものが待っているのだろうから。その輝きを素直に受け入れることができたなら、思い描くべき未来の自分がきっと見えてくるはずだから。
自分を主張することをやめない輝きは、きっと、こう言っているのだろう。
わしがおるがな、わしを超えてみい、と。
「春一、俺はお前を超えてみせる。そして見てやるさ。鬼とともに手にしたこの力の先に、いったいどんな景色が待っているのかを」
春一は笑っていた。
「おう、超えれるもんなら超えてみい。まあ、わしの方が強いに決まっとるがのう」
「遠慮はしないぞ」
「阿呆、当たり前じゃ」
何を合図にするでもなく、二つの斬音が広間にこだました。




