嘘つきな刀②
日が傾きつつある頃合い。
代月の目先数センチにまですらりとした男の刃が迫ると、代月はまだ握ったままでいる数珠丸恒次でその刃を受け止めた。
のだが。
「うぐっ」
なぜだかわからぬまま、代月は再び顔を歪める。今の状況が全く理解できないでいる代月は、ともかくこの男との距離を取ることにした。何が起きているのか分からぬままただ闇雲に刀を振るい続けたところでそれは体力の無駄遣いにすぎないし、体力という面では常人よりはるかに劣っている代月にとっては致命傷になりかねない。
「逃げても無駄だって。正面からやり合おうよ」
すらりとした男は若干陶酔した表情で、代月に挑発的な言葉を投げかけてくる。男の顔は粗野な表情を浮かべたり、恍惚に満ちた表情を浮かべたりと、実に落ち着きなく変化していた。ついさっきまでの一定した色男の容貌が嘘であったかのように。
しかし代月はそんな男の言葉に耳を傾けている余裕などなかった。今の代月は体力的にもう限界だった。しかし戦意を失ったと言うわけではない。その証拠に、代月の怪紋は未だその妖しい輝きを失ってはいない。
距離をとったことで若干の冷静さは取り戻せたものの、冷静になることでまたすぐに疑問が増えた。
「なんでじゃ」
代月は自分が受けた傷の数を確認した。あのすらりとした男が斬りかかってきた回数は二回だったはずなのに、代月は三か所の斬痕を受けていた。最初の斬撃は背後からの不意打ちで、背中を斬られた。代月自身がやや小走りであったために傷は深くまで達していない。二回目の斬撃は確かに受け止めたはずであるのに、背中に新たな痛みが走った。気付けば代月は胸の辺りにも斬撃を食らっている。いったいいつもらった傷なのか見当もつかない。
代月が考え込む暇もなくすらりとした男はすぐにまた代月へと斬撃を食らわせようとしている。
男の動きの素早さに代月は絶句した。瞬きをした次の瞬間にはもう自分へと斬りかかっていたのである。いくらなんでも速すぎる。
「だから逃げても無駄だと言っているだろう」
今度は諭すような口調で斬りかかってきた。口調とは裏腹に男が振るった刀は目に見えぬほどの速さである。
その速さに何とか対応し、相手の斬撃を自らの刀で受け止めた代月であったが、
「うっ」
また背中に新たな痛みが走った。それは背後にもう一人の剣士がいるかのように、明確な刃の感覚をもって代月に襲いかかってきた。
「どれくらい耐えられるかな」
これを好機とばかりにすらりとした男は幾重にも斬撃を食らわせてくる。嵐のように降り注ぐ斬撃の雨に、代月は防戦一方である。
その代月は斬撃を受けるたびに斬り傷が増えていった。代月は反撃をするどころか相手の衣すら切り取ることができないでいる。これには代月自身の問題もあるのだろうが、おそらく一番の要因は相手の速さにあった。刀の一振り一振りは決して重くはないのだけれど、とにかく速い。こちらにつけ入る隙を与えてくれない。
それゆえ代月はこの怪紋刀は使い手の動きの速さを増進させる効力があるのだと判断したかった。しかし、素早さだけではどうにも説明のつかないことがある。
先ほどから代月が相手の斬撃を受けとめるたびに代月には切り傷が増えている。相手の刀で切られているはずがないのに、その切り傷は間違いなく鋭い刃で斬られた感触だった。
謎の切り傷が十か所に及ぼうかというあたりで代月はふらふらしてきた。いくらなんでも斬撃を浴びすぎである。代月本人は相手の斬撃はすべて受け止めているつもりでいるのだから、精神的疲労も追い打ちをかけていた。
「終わりだね」
恍惚の表情とともに男の眼光には鋭さが増した。この一発で仕留めようとしているのだろう。切れるような視線を放っているにもかかわらず、男の全体的な印象としては陶酔しているように映ってしまう。何ともアンバランスである。
絶対的な危機感を感じているものの、代月は意識が困憊してきて、これに対応できないでいた。もはや相手の刀そのものによる斬撃も受け止められないかもしれないと思った頃になってようやく筋糸の援軍がやってきた。
「おっと、危ない危ない」
すらりとした男はその筋糸を避けるようにして代月と距離を取る。その後数本の筋糸によってさらに距離を広げると、秀也が代月の元へと駆け寄ってきた。
「大丈夫か、代月」
「来るのが遅いわ馬鹿もん。死ぬかと思うたわ」
「すまん。二人とも動いたままだったから、あいつだけに狙いを絞るのに苦労したんだ」
申し訳なさそうにしている秀也を睨みつけたまま、代月は訊ねた。
「どう見る、あやつの能力」
秀也も真剣な面持ちで答える。
「まず目に見えて動きが俊敏になった。お前の懸衣翁を受けてなおあの速さは異常だ。間違いなく速さを増す能力がある。問題はお前の傷の受けようだ。斬撃を受けとめるたびにお前は斬撃を食らっていた。まるで言葉遊びだ。防げば斬られる」
「そうじゃのう。しかし防がねば刀そのものの刃が襲ってくる。何とも面妖なことじゃ」
回答を得ぬまま二人がすらりとした男の方を見ると、
「油断大敵」
かなりの距離を保っていたはずのその姿は二人の目の前にまで及んでいた。ねちゃりとした笑みを浮かべたまま斬りかかってくる様は薄気味悪いくらいだ。
「代月!下がってろ!」
声と同時に秀也が糸陣による防御壁を張っていた。
その糸陣に男の斬撃がぶつかる。すると、二回の斬音を残して再び男は秀也から距離をとった。秀也の筋糸を嫌がってのことだろう。
「秀也」
「ああ、聞こえた。一振りで二回の斬音がした」
焦ったような表情をしている秀也とは対照的に、代月は少し考え込んでいた。
「もう一回こんかのう」
秀也としてはなるべく相手のわけのわからぬ斬撃など受けたくない。しかもあの男は表情と斬撃の速さ鋭さが一致していないのでかなりやりにくいのだ。
しかし、代月の方は違った。今の糸陣の攻防に一つの違和感を覚えていた。ほんの些細な違和感なのだが、それは相手の怪紋刀の核心を突く部分であるような気がしたのだ。
代月が言ったそばからまた男の方から仕掛けてきた。
「どうだ、俺の奇術は」
最初はまったく手を出さなかったすらりとした男であるが、今こそが好機と戦局を読んだのか、実に積極的に仕掛けてくる。やはりこの男、なかなかにキレ者である。また、そのような戦局の流れを心得ていることからも、かなりの場数を踏んでいることがわかる。
わずかの時間を持って代月が告げた。
「秀也、糸陣を縦列に二個張ってくれ」
「わかった」
頷くと同時に秀也は二つの糸陣を縦列に張った。しかし急ぎであったために二つの糸陣の間はわずかの隙間しか開けることができなかった。
二人は間一髪のところで相手の斬撃を防ぐことができた。
相手の刀と糸陣がぶつかりあうことで発せられる斬音はやはり二つだった。秀也にしてみれば何ら収穫らしきものはなく、先程と変わらぬ現象が起きたまでのことである。代月がなぜ糸陣を縦列に張らせたのか、その意図すら掴めないでいた。
一方の代月はというと、収穫大である。まず最初の糸陣を張った時に気付いたのは、同時に聞こえたはずの斬音であるにもかかわらず確かに二つの斬音が聞こえたと言うことだ。時間差はなかったのに、同一の一音として聞こえてくることはなかった。
それゆえ代月は実験的に秀也に二つの糸陣を縦列に張ってもらった。二つの糸陣の間はあまりなかったが、逆にそれが功を奏した。
二つの斬音はほぼ同時なものとして代月の耳に届いた。ただ、さっきの斬音とは少し違った風に聞こえたのだ。表現はし辛いところであるが、それはなんとなく立体的に聞こえた。つまり、距離の違いを感じることができたのだ。
代月はこのことと自分が受けた二撃目の事を考え合わせた。するとある仮説が生まれた。
「秀也よ、あやつの斬撃は相対する方向からの二撃あるんじゃ。じゃからわしが正面からあやつの刀を受けた時、背中に切り傷を食らったんじゃ。そう考えれば胸の傷も説明がつく。背後を取られた時、同時に胸も斬られたんじゃろう。背中の衝撃が強かったもんじゃから気が付かんかったわ」
「反対側からの目に見えない刃か。なるほど。だが、あいつの尋常じゃない素早さはどう説明する。この二つの能力には繋がりがないぞ」
代月は再び考え込んだ。
代月が考えているうちにも相手は待っていてくれない。何度も俊足を飛ばして斬り込んでくるのだが、そのたびに秀也が糸陣を張ってこれに対応している。秀也は相手が遠距離を取ればすかさず筋糸をもって相手と交戦しているのだから、代月にとってはこの上ない用心棒だった。牛鬼のような馬鹿力がなければ秀也の絡新婦はかなり有用な能力なのである。
ところで代月はなおも考え込んでいる。万が一の時のために輝きの失っていない怪紋刀を左手に握っているものの、代月は自分の身のほとんど全てを秀也に預けていた。自分の意思で懸命に働かせているところといえば頭ぐらいなものである。全力をもってして相手の能力の解明を図ろうとしているのだが、それがうまくいかない。あの俊敏さと、相対する方向からくる二つの斬撃に共通項が見当たらないのである。一つの刀に二つの妖怪を取り込むということはできないから、なんともおかしな話なのだ。
「正面なのに背後」
深く考え込んでいるせいか代月は一人でぶつぶつつぶやいていた。
「怪紋がないのにある」
代月は何かを掴んだ気がした。
「前なのに後。あるのにない」
雲のように掴めそうで掴めない結論を代月は追いかけていた。そのうっすらとした答えに輪郭を与えたのはさっき秀也が言っていた一言だった。
「言葉遊び」
なんとなくではあるものの、すらりとした男が持つ怪紋刀に憑いている妖怪の姿が浮かんできた。
「なるほどのう。けったいなもんが憑いとるわけじゃ」
そう言って代月は秀也に告げた。
「秀也、あいつに憑いとるのはたぶん天逆毎じゃ」
「天逆毎?」
「そうじゃ。右といえば左、前といえば後、とまああべこべのことばかり言いよる妖怪じゃ」
しかし秀也は腑に落ちない顔をしている。
「代月、なるほどと言いたいところだがまだ納得は出来ないぞ。それはあいつの身軽さの説明になってない」
確かにそうだと思った代月は再びの思考に入る。すらりとした男の素早さは常軌を逸している。あれは人間の運動能力をはるかに上回るものであるから、間違いなく怪紋刀によるものである。仮にあの男が持つ怪紋刀が天逆毎の力を持っているとしても、男の素早さを説明することは出来ない。
それゆえ代月はあの男がどのタイミングであれほど速くなったのかを振り返ることにした。するとその瞬間はある一点に収束した。その一点とは代月が懸衣翁の能力を発揮した瞬間である。発揮した瞬間の、地面に平伏した男の表情はたぶん本物だった。本当に自分の罪の重みに苦しんでいるように見えた。あれが演技だったら大したものである。
それを見て、勝負あり、とふんだ代月が男の横を通り過ぎると、待ってましたとばかりに男は代月の背後を取った。その一瞬の機会を狙って男は怪紋刀の力を発揮したのであろう。
(ああ、軽くて仕方ない)
あの男が放った一言を思い出すと、なるほどそう言うことかとピンときた。
代月はあの男の抜け目のなさに少しだけ感心していた。懸衣翁の能力を聞き出したくせに、自分の能力についてはほとんど情報を漏らさなかったのだから。とは言っても、代月にしてみればその一言だけで十分だったのだが。
「重いのに軽い」
つぶやきながら代月は自分の刀を見た。数珠丸恒次は未だ戦意を失わず怪紋を誇っている。代月はなんだか可笑しくなってきた。気付いてしまえばなんてことはないことだった。神業とも思えるすらりとした男の俊足は、代月自身の力によってもたらされていたのだから。あの俊足を抑える唯一無二の方法は代月の左手に握られていたのだ。
「奇術とはよう言うたもんじゃ」
俊足を失ってしまえばあとは種のばれている奇術にすぎない。奇、が分かっているのだからそれを破ることは容易いだろう。なにせこちらは二人、あちらは一人なのだから。
「秀也、ありったけの本数の筋糸を放ったれ。たぶんあやつはもう今までのような俊足では避けれんようになるからのう。まったく、嘘つきなんぞようないわ。いつかはばれてしまうもんなんじゃ」
代月に言われるままに秀也は幾本もの筋糸を放った。それとタイミングを合わせるようにして代月は自分の怪紋刀を鞘におさめる。つまり、懸衣翁の力を鞘におさめた。
代月が怪紋刀をおさめると同時に今まで超人的な身軽さを持って俊足を飛ばしてきたすらりとした男はこけるようにしてバランスを失った。何分間も神業のような動きをしていたために、このわずかの時間で身体がその超人的な身のこなしの方に慣れてしまったのだろう。頭の中にある自分の動きと実際の自分の動きとの間に隔たりができてしまい、それがぎこちなさへと結びつき、それが最悪の形となって終結した。
「な……ぜ……」
すらりとした男は糸に吊られた傀儡の如く、踊るようにして秀也の筋糸を浴びていた。ゆらゆらと揺れる糸刃を避けることができなかったのである。
この時ばかりは男の表情は苦悶に満ちていた。ここにきてようやく景色と表情に統一感がもたらされたとは、何とも皮肉なことだ。
嘘で固められた傀儡は踊ることをやめ、力尽きた。
男が倒れたのを、今度は確かに見届けると、秀也は不思議そうに代月の方を向いた。
「いったいどういうことだ。さっきまでは一発も当たらなかったのに、急にあいつの素早さが失われた」
秀也の疑問に代月が答える。
「やはりあやつは天逆毎だったんじゃ。それゆえわしの懸衣翁が仇となった。罪の代償としてかけられたあやつへの重しがあべこべの効力を発揮してしまったんじゃろう。素のままでは耐え切れんほどの重しも、天逆毎の手にかかって逆に身体を軽くするものへと変化させられてしまったんじゃ。じゃから、あやつの動きを元の人間的なものに戻すためにはわしの力をしまう必要があったというわけじゃ」
なるほど、と思うと同時に秀也は改めて代月の賢さを感じずにはいられない。同じ景色を見ているにもかかわらず、代月がそこから得る情報は自分の何倍も多くて濃い。感心しすぎて秀也はしばし言葉を失ってしまった。
数秒の沈黙の後に発せられたのは、子供のような感想だった。
「あっけなかったな」
秀也の一言に代月が答えた。
「それはお前の能力があったからじゃ。速さを失ったとはいえ対の方向から来る双刃はやっかいな能力じゃぞ。少なくともわしとあやつが差しでやりあったらわしは負けるじゃろう。わしとあやつでは相性が悪いんじゃ。その分お前の能力は近付かんでも攻撃できるから相性が良かった。わしとお前のどちらが欠けてもこの場をやり過ごすことは出来んかったというわけじゃ」
そう言って代月は赤花の群れへと身を倒した。
「わしは疲れた。もう動けんわ」
代月は本当にもう限界のようである。
「そんだけ傷受けてればなあ」
代月の隣に秀也も倒れ込む。こちらは、自分の仕事はもうやり終えたのだという気になっているようだ。
二人はそろって空を見つめている。
「秀也よ、お前が二人のところに行ってくれなんだらあいつら何をおっぱじめるやらわからんぞ」
「俺だって疲れた。でもまあ大丈夫だろう。なんとなくだけどな」
代月は何も言わなかった。なぜなら、代月も秀也と同じように思えてきたからだ。
二人が見つめている空は、もうすぐ茜色を迎える。




