大久保利通
「無礼者っ!」
館内の一部屋に怒号がこだました。その声は続ける。
「広場の騒ぎは君たちによるものかね」
このような状況においてもなお落ち着き払ったままの声が訊ねた。そして、広場から一人この館内へと侵入した男がそれに答える。
「左様。お命頂戴致したく参った」
「私の命を?」
「その通り、大久保利通その人の命を頂きに参った」
そう、ここは維新の三傑と言われる最後の一人、大久保利通が使用している部屋であった。
「なんと、……私は殺されるのか」
彼が自らの死を受け入れるまでにそれほどの時間はかからなかった。幕府を転覆させるという途方もない展望を抱き、さらにはそれを成し遂げてしまうほどの行動力を持ったこの男にとって、暗殺というのは常に気配を感じておかねばならない事柄だったのかもしれない。
「それならば問いたい、私の命を奪う君の名は何というのかね」
ある意味達観したところからもたらされる大久保の落ち着きと、狩られる側にいるにもかかわらず少しも崩れない威厳に、忍び込んだ男の方が少々尻込みをしてしまう。
「名乗れぬ。俺たちとて親がおり友がいる。それとわかる痕跡は些かたりとも残したくない。それゆえ、俺の刀の名をもって我が名としたいのだがいかがか」
「かまわん。名乗ってくれ」
柄を手にした男は抜刀した。窓からわずかに入ってくる月明かりが刀の刃紋を妖艶に映やしている。それは人を引き込むほどに妖しい刃紋だった。
「俺の名は童子切安綱なり」
「ほぉ、なんという妖しき刀か。これ程の業物に私は斬られるのか。ふふ、悪くない」
この刀に魅せられている感があるものの、やはり大久保は動揺を見せることはない。童子切はこの男の器の大きさを感じ、思わず息を吞んだ。
「死を恐れぬか」
愚問だ、と言わんばかりの顔つきで大久保は答えた。
「恐いさ。だが恐れれば見逃してくれるのかね?」
「いや、見逃さぬ」
童子切はこれ以上言葉を見つけることができなかった。それゆえ流れたしばしの沈黙を挟んで、今度は大久保の方から口を開く。
「刀を振らんのかね?急がねば増援が来るかもしれんぞ」
これに対して今度は童子切の方が、愚問である、と言いたげな表情で答えた。
「広場には俺の仲間が二人いる。一人たりともあの場から逃げられないだろうから増援は頼めませんよ。自発的に援軍が来るなら別でしょうが、よほど勘のいい者がいない限りそんなことは起こらないでしょう」
「たった二人で大した自信だな。いくら腕が立ったところで数の力には勝てぬ」
大久保の余裕とは反対に、童子切はやや表情を強張らせた。
「怪紋刀をご存じか」
この一言で大久保の表情も引き締まった。
「君たちは怪紋刀の使い手かね」
「左様。この刃紋がその証」
妖しい刃紋が刀身に泳いでいる。
「そうであったか、見入られるはずだな。はて、君がその刀を持っているとなると、君もあの戦争に参加したのかね。そう考えると、なるほど君は賊軍の者だな?」
「違います。俺はどちらの側にもついておりません。そもそも参加していません」
「そうか、まだ若いか。うむ、だがそれでよい。あの戦は人間のする戦ではなかった。あの戦を私たちは、妖刀の乱、と呼んでいるのだが、あれ以来私は奇怪な夢ばかり見るようになってしまった。妖怪とはただの言葉遊びではなかったのだな。官軍の中でもあの戦を語りたがるものはそうおらんのだよ。普通だったら歓喜のあまり吹聴して歩く所なのだがね」
暗闇と同化してしまいそうなほど表情を沈ませた大久保は、その表情とは裏腹に、頭の回転はなおも正常に働いているらしく、はたと何かに気付いたようだ。
「戦に加わっていない君はなにゆえ私の命を奪おうと言うのか」
童子切は、ここからが本番、という面持ちでさらに表情を引き締める。
「日本の行く末を案じてのことです」
この返答を受けて大久保の表情には若干の怒気が混じった。
「私たちが面舵を担っていては日本が駄目になるということかな?」
大久保は自分の命を握っている相手に対してやや挑発的な発言をしたのだが、童子切はそれを気にすることなどないようだ。だが童子切の視線はなおも切れるほどの鋭さを保っている。もしかしたら童子切は、この大久保利通という男を見極めようとしているのかもしれない。
童子切が語り始めた。
「知識豊富なあなたは常に上ばかり見ている。西洋に追い付こうとするのが駄目だとは言わん。だがしかし、上を見すぎてこの国で懸命に生きている下々の人々を見失っているとしたなら話は別だ。あなたは藩閥ばかりに気を取られ、民の声を掬い上げようとしない。巷で邪な権力を振るう役人どもが見えていない。国は国としてあるのではない。食にありつくだけでも精一杯なほどに細々と暮らしている人々や、あなたのように富と権力を持った人たち、これらの人々一人一人があってこそ初めて国でいられるのだ。貧しくも健気に暮らす人々が見えていない今のあなたは、もはや国を見失っているに等しいのです」
大志を述べる青年そのままに、童子切はこれらの言葉を一息で言い切った。
怒りをあらわにするかと思われた大久保であったが、その予想とは裏腹に少しだけ表情を和らげた。そして再び真剣な顔を取り戻すと、威厳ある面持ちそのままに語り始めた。
「政府の人選に偏りがあることは認めよう。その人選に私の思惑が多分に含まれていることも否定しない。しかしこれだけは言っておく。いくらあの戦争において怪紋刀を持つ者たちが大きな功績をあげたからと言って、彼らを新政府の重役に置くことはない。これについては君だって気付いているはずだ。彼らの力は戦には向いていても政治には向いておらん。彼らは怪紋刀という力を持っているがゆえに政治の場でもその力を振るおうとするだろう。弁が刀に平伏した時、それすなわちこの国の沈没を意味する。君がこれをもって私を否定しているとするならば、私はさらなる否定をもって君に臨もう。そして、君がいう国の形についてだが、確かに私は最も根幹的な部分を見失っていたのかもしれない。これは明らかに恥ずべきことであるということを、私はこの場で認めざるを得ない。私もまだまだ未熟であるな」
親に叱られた子供のように大久保は、ぽりぽり、と自分のこめかみをかいていた。
この反応を全く予期していなかった童子切は、思わず柄を握る手を緩めた。
「俺の言ったことを詭弁だと笑わぬのか?」
「青臭くて笑えるさ。だがしかし、詭弁だとは思わん」
「ならば一瞬表情を緩めたのは何故か。論破は容易いと思ったのか?」
「説き伏せるつもりなど毛頭ない。大志を抱くのは男の特権だからな。志無き男はただの傀儡である。私が表情を緩めたのは他でもない。安堵したからだ」
「どういうことだ?」
「君のような志を持つ者がいればこの国はそう簡単には沈むまい。だがその手段として人を殺め続けるのならば、この国は沈みはしなくとも行く末を見失うだろう。もう一つ、最大の懸念をあげるとするのなら、私がこの場をもってこの世を去らねばならぬと言うことだろうな」
この時の大久保はもはや完全に笑っていた。実に穏やかな笑顔であった。
そして、この時の大久保の表情を見た童子切は密かに思った。
(この人には敵わない。すべての器が大きすぎる。この人がいる限りこの国は良い方向に向かっていくのではないか)
最初の宣言はどこへ行ったものか、とうとう童子切は刀を鞘に納めてしまった。
「なんだ、もしかして私の寿命は延びたのかね?」
「どれほど延びたのかは知りません。一日延びたのか、はたまた半日延びたのか。だが、今の俺はあなたを斬らない。いや、斬れない」
その言葉だけ残すと童子切は再び闇夜に消えてしまった。この時の大久保が本気で、童子切安綱を名乗った男の将来が楽しみだ、と思ったことは終ぞ誰にも語られることはなかった。
○
広場はもはや地獄である。
いたるところに赤色の水溜りが見られ、どことなく鉄臭い。
「まだ準備運動って感じなんだけどな。これで全部かよ、手応え無いにも程があるってもんだぜ。どうだ、俺とお前で一回やり合って見ねえか?」
巨体が話しかけた相手は、終始見物人を決め込んでいたあのすらりとした男である。
「その必要はないさ。ほら、彼が帰ってきたよ」
二つの影が見つめる先には童子切がいた。
「遅いじゃねえか、大久保とかいう奴はそんなに強かったのか?」
巨体が問いかける。
「いや、彼は偉大だった。俺が思っていたよりもはるかに大きな器を持った人物だった」
童子切を迎えるかのように、もう一つの影が一歩前に出た。
「ということは、斬らなかったんだね?」
「ああ」
「そうか。まあ、君がいいなら僕はそれでいいさ。こいつだってこれだけ派手にやったんだから文句は言わないはずだよ」
これについて巨体はやや不服そうな面持ちで応えた。
「文句は言わねえけどよ、満足はしてないぜ」
そのまま三つの影は粉々の門の脇を通り過ぎた。そして、政府の敷地を出るや否や、すらりとした影が問いかける。
「京二、これから僕たち『新妖立会』はどうするんだ」
「今はまだ動かん。俺たちが動くのは大久保が死した後だ。政府が彼を失った時、この国は迷走を始める」
童子切こと緋鏡京二は思うのであった。
この国が大久保を失った時、求心力を失った政府は腐敗していくだろう。いや、もはや腐敗しきっていると言ってもいい。大久保はその腐敗が世に溢れぬよう蓋をしてくれているのだ。蓋を失い溢れ出る膿どもを見ながら、それらがすべて抜け切るのを待つなどという流暢なことは言っていられない。ならばどうするか。答えは簡単だ。膿の溜まりきった壺を割ってしまえばいい。そして、新たな壺をもってこの国を担えばいい。膿を斬るのにどうして躊躇などしようか。汚れた血がこの国の汚点を拭っていくならばむしろ喜ぶべきことではないのか。やはり血を流さずにことを進めるなどというのは詭弁でしかない。変革というものはそれ程に生温いものではない。鮮血をもって新たな門出だと声を張れるくらいの度胸がなければだめだ。国を担うということはそれくらいでなければやっていけない。
そして、京二がこのようなことについて考える際、決まってある男のことが頭に浮かぶのだった。あいつならどう考えるだろう、どんな行動に出るだろう、と。
今もその男の顔が頭の中に浮かんでいる。だが、何も教えてはくれない。
(春一、お前ならどうする?)
京二は今でも、春一の背中を追いかけているのかもしれない。
(俺たちは、いつから別々の道を歩み始めてしまったのだろう)
その別れ道を手繰り寄せることはもうできない。
逆走することのできない時間を今、彼らは懸命に過ごしているのだった。
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