嘘つきな刀
泡を吹く巨体を視線の端に追いやると、羅城門の前に立ちふさがるのは残り一人となっていた。残った一人の男は先程までの牛鬼とは違い、代月や秀也の視界を我が物顔で占領してくるということはしない。二人の視界には男よりも赤花の景色の方が広い景色を保っている。
このすらりとした男は仲間がやられてもなお抜刀していない。ただ観察するようにこちらを眺めているだけだった。
「次はお前さんじゃがどうする。このままわしらを通してくれんか」
代月に訊ねられてようやくこの男は口を開いた。
「それはできない」
「やるんか。ならば容赦はせんぞ」
代月が構えると、諦めたようにしてこの男は抜刀した。
「おや」
と声を漏らしたのは代月で、秀也はしめたと心の中でガッツポーズをした。というのも、このすらりとした男が握った刀の刀身には何ら怪紋が見られなかったからである。見えるのは日の光を浴びて美しく輝く刀本来の刃紋だけ。妖しさの欠片も見られなかった。
「その刀でわしらとやるんか?」
「もちろん」
状況を理解していないのか、このすらりとした男は冷や汗一つ垂らしていない。嫌味なほどに涼しい顔のままで、色男の顔立ちは少しも崩れない。男はそのまま続けた。
「君の怪紋刀に憑いているのは懸衣翁だね。恐れ入ったよ。罪の大きさに比例して裁きが下るみたいだね。目には見えない重しとなって。その重さ、つまり罪の大きさを判断するためにはその対象者の衣服が必要。当然人を斬るのが趣味みたいなあいつには気絶するほどの裁きが下ったと。違うかな?」
秀也は息を呑んだ。自分は懸衣翁という存在を知らなかったとはいえ、今の景色に見とれることしかできなかった。にもかかわらずこのすらりとした男はここまでの分析をしていたのである。一つの情報から組み立てる理論が代月並みに明確で早い。
秀也は自分が入り込む余地を見つけることができなくなり、それゆえこの状況をしばし見守ることにした。
代月が答える。
「違わん。その通りじゃ」
「そうか。それじゃあ、一つ聞きたいのだがよかったら教えてくれ。その罪というのは人斬りだけに限定されるのかな。もしそうだったら君は僕に勝てないよ。少しくらいの重しならなんてことはないからね」
「残念ながら罪の在り方は様々じゃ。わしとて何かしらの罪は犯しとるじゃろう。だがこれだけは言える。お前の罪は軽うない。あんだけの警官を見殺しにしといて罪が軽いわけがない。地面に突っ伏すくらいの覚悟はしといたほうがええじゃろう」
「動けないのか、困ったなあ」
口先だけで話す色男に対しても代月は警戒を怠らなかった。怪紋刀ではないからと言ってなめてかかると痛い目を見るかもしれない。なにせこの男はこの羅城門にいるのだから。とてつもない剣術を持っている可能性は否定できないのである。
と同時に代月はこの男に対してもう一つの分析をしていた。この色男、先程の言動からしてなかなかにキレ者だ。ということは、この男は新妖立会なるものの頭脳を担っているのではなかろうか。そう考えると先程の牛鬼とのバランスが取れてくる。
普段の代月ならば決して自分から飛び込むということはない。相手の実力が分からないのに飛び込むのは賢いとは言えないからだ。しかし今の代月は少しでも早く春一の後を追いたいのである。そのためには目の前にいる色男をどうにかしなければいけない。
相手も先程の牛鬼とは正反対で自分から飛び込んでくるということはしない。代月の懸衣翁を嫌がっているのだろう。そもそもこの色男にしてみれば急ぐ必要など全くないのである。だからこの場の静止したままの空気を動かそうという気はさらさらない。
珍しく焦りを感じている代月は二対一の好機を生かそうとはせず、自分一人で先手を打った。
「計れ、数珠丸恒次!」
掛け声と同時に怪紋とまっさらな刀身がぶつかりあった。擦れ違うようにして重なり合った切っ先は空気を撓らせ、二人の残像には赤花の花弁が舞っている。
「しまった」
声を漏らしたのはすらりとした男だった。先程までは余裕だったはずの顔は醜く歪んでいる。男は代月の剣術の腕を見誤っていたのだろう。普通の剣士ならば相手に傷を与えるために踏み込んでくるのだが、代月の場合は衣を斬り取るために踏み込んでくる。斬撃を受ける側としては今までの経験で対峙していては、代月の目的を阻止することはできないのだ。この場合は経験で勝ち得た身のこなしが仇となってしまう。
またしても見とれていた秀也の視線の先には代月がいる。舞姫のように優雅な身のこなしで相手と斬撃を交わした代月の手には、切り取られた衣が握られていた。代月は間髪容れずに衣から手を離す。代月の手を離れた色男の衣は数珠丸恒次の峰へと消えていった。
その様子を声も出ないと言ったふうに見つめる男の額には髪の毛が張り付いている。今頃になって冷汗を垂らしたところでもはやどうにもならない。衣が消えると同時に男には絶望が降り注いだ。
代月が見つめる先ではすらりとした男が地面に手をついて自らの罪の重しに抗おうとしていた。やはりこの男は牛鬼ほど人を殺めてはいないようで、地面を抉るような裁きは下されなかった。しかし動きを封じるには十分な重しが加わっているようだ。男は地面に手と膝をついたまま、生まれたての小鹿のように小刻みに震えている。代月にはそれで充分だった。
「秀也、いくぞ」
と言って代月は羅城門へと足を向けた。邪魔のいなくなった景色の先にはでかでかと羅城門がその身を誇っている。春一と京二を長いこと二人きりにさせていては何をおっぱじめるかわかったものではない。それゆえ代月は柄にもなく少し駆け足で二人の元へと向かっていた。やっと四人だけで言葉を交わせるときが来たのだ。京二の過ちを正せるときが来たのだ。
やはり代月の中でも大切に残っている昔の思い出を振り返りながら走る代月が、小鹿の様に震える男を横切った。
その時、
「代月!」
という秀也の叫び声が空気を震わせた。その声と同時に代月の背中には熱い何かが走り抜けた。代月が、はて、思い出とはこんなにも熱いものだったか、と思っているうちに、赤花の群れに鮮血が飛び散った。熱さの正体が分からぬ代月はとりあえず事の成り行きに身を任せることにした。どう頑張ってみても踏んばりのきかなくなった代月は、抵抗することなく赤花の中にどさりと倒れ込む。
数秒時間が経ってから代月はようやく気付いた。背中の痛みに。自分が背中を斬られたということに。
「何でじゃ……」
痛む背中をかばいながら振り返ると、そこにはあのすらりとした男がいた。先程までは間違いなく地面に平伏していたはずなのに。罪というのは誰にでもあるもので、重さを感じないということはあり得ない。ましてこの男はあの牛鬼と行動を共にしていたのだからなおさらだ。動けるはずがないのに。
代月を見下ろすすらりとした男は何事もなかったかのように立っている。指先で持ち上げるかのように軽々と刀を振るいながら赤花を散らせる男は実に愉快そうだった。
「ああ、軽くて仕方ない」
起こるべきことと逆のことを述べている男の表情は、先程までの顔が嘘であったかのように、下品なものへと変わっている。顔そのものはどこも変わっていないのに、表情だけでこれほどまでに印象が変わるものなのかと唸りたくなるくらいだ。
引き裂けんばかりに口を開きながら、けっけっけ、と笑うこの男の刀を見て、代月は、はっとした。まっさらだったはずの刀身には怪紋が浮かび上がっていたのである。この男の表情と合わせると、その刃紋の妖しさが一段と引き立てられている。
代月は後悔していた。自分の気を緩めすぎていたことに。警戒心を弱めたせいで、自然と視野が狭まり、羅城門ばかりに気をとられてしまった。それゆえこの男への反応が遅れ、背後を取られたばかりか背中に斬撃まで食らってしまったのである。一生の不覚だ。
代月を見下ろすすらりとした男は粘質の笑みを引き連れながら刃を向けた。
「嘘吹け、波泳ぎ兼光」