鬼と邪な殺意
最後に現れた羅城門の鬼はこれまで京二が対峙してきたどの相手よりも強かった。もちろん、春一よりも強かった。春一とは竹刀での勝負しかしたことがないとはいえ、俊敏さ、身のこなし、力、これら全てが京二の経験をはるかに上回っていた。さらには鬼から発せられる今まで感じた事のないプレッシャーが京二の動きを鈍らせた。
鬼から放たれるプレッシャーは殺意以外の何物でもなかった。これほどまでに純度の高い殺意を京二は初めて浴びせられた。鬼から放たれるねっとりとした彼岸の視線の中で戦うのは、あたかも自分が深海の中で刀をふるっているかのようで、一つ一つの自分の動作がなんともぎこちなく、また苛立たしくもあった。
深海で泳ぐ魚の如く、京二を小馬鹿にしているのかと思うほどにじっくりといたぶりながらその素早さを見せつける鬼に対して京二はなす術がなかった。凌辱されているかのような感覚に陥ったものの、その感覚が強くなるにつれ、もう一方では、自分はもっと強くならねばならん、という気持ちがより一層堅固なものになった。その決意だけが京二の両足を支え、柄を握る手に力を与え、鬼を睨みつける眼に曇りを生じさせなかった。
この、強くなりたい、という思いがなければ、間違いなく京二は刹那のうちに鬼の鋭く尖った爪刃によって絶命の奈落へと突き落されてしまっただろう。肌が引き裂けそうなくらいに鋭い鬼の視線は、一たび京二が気を緩めたならば、息を込めすぎた紙風船のように、パンッ、と肉塊を四散させてしまいそうだ。またそのような映像が京二自身の頭の中にも浮かんできてしまうのだから、威圧というものは戦いにおける戦意に多大な影響を与えてしまう。
「貴様のような小僧がなにゆえ我らを襲うのか」
余裕を見せつけるためか、鬼が京二に話しかけてきた。京二はよろめきながらも揺らぎなき声ではっきりと答える。
「俺は強くなりたい」
鬼は嘲るような笑いを見せた後、なおも話し続けた。
「なにゆえ力を求めるか」
「邪な刀に屈せぬよう力を欲するのだ」
「邪とは何ぞ」
「罪なきものを斬り、命を何とも思わんやつらのことだ」
鬼はまた嘲笑を浮かべている。
「小僧は邪ではないのか」
「違う!」
鬼は広間をぐるりと見回した。視線で京二に問いかけるかのごとく、実にゆっくりと意味深に。気を緩めることのできない京二にしてみれば、この鬼の仕草が何を意味しているのかなど考えに及ぶはずがなかった。
「小僧は我ら鬼を散々斬り殺したではないか。なぜ邪ではないのか」
「鬼は人を喰う。罪の塊だ」
「我らは肉を食わねば生きていけぬ。仕方ないではないか」
「いや、それが罪なのだ」
「おかしなことを言うな小僧。ならばやはり貴様は邪だ」
「お前の理解が及んでいないだけのことだ。鬼の頭ではわからぬことなのだ」
鬼は卑しいものを見るかのような目で京二を見下ろしている。
「その慢心はどこから来るのか。やはり人間というのはおかしな生き物だ」
「何を言うか!」
京二は一層の鋭さを持って鬼を睨みつけるのだが、鬼からは、立場をわきまえろ、という無言のメッセージが返ってくる。
「貴様らはその慢心ゆえ気付いていないのだ。小僧、貴様は草ばかりを食って生きているわけではあるまい。家畜の肉を貪って生きているのであろう」
「そうだ」
「ならば小僧も邪ではないか。家畜の命を奪って何とも思わんのだろう。貴様は鬼畜以外の何物でもないではないか。邪の塊だ」
「生きていくのに必要な行為なのだ。お前らとは違う」
「小僧、少しは賢くなれ。それは我らにとっても同じなのだ。貴様らの慢心は家畜を食っているところから来るのではないのか。食うことで生きているものたちを支配している気になっているのではないのか。しかし自惚れてもらっては困る。我らは貴様らを食うのだ。我らからしてみれば貴様らは腹を満たすための食材にすぎぬ。家畜同然だ」
京二は歯を食い縛った。無言の京二に対して鬼は続ける。
「我らにしてみても生きていくために仕方のない行為なのだ。小僧、貴様は自分の口で言ったではないか、生きていくために肉を食らうのは邪な行為ではないと。ならば貴様が斬り殺した鬼たちは邪ではなかったことになる。どうだ、罪なき鬼たちを斬ったお前はどんな気持ちでいるのか。命に対して何と思うか」
鬼は改めて京二に問いかけた。
「小僧、貴様は邪ではないのか」
京二は握る刀により一層の力を込めた。そして自分に問いかける。俺は邪なのか、俺は俺が憎んでいた奴らと同じなのか、と。自分の決意が揺らぎそうになるのがわかった。強くなりたい、という自分の根源的な決意が揺らいでいるにもかかわらず、京二はしっかりと立っていた。溢れんばかりの力を込めて柄を握りしめていた。鬼の顔が曇ることはなかった。
自分の中にいつの間にか居座っていた一つの感情に気付かぬふりをして京二は首を振った。
「俺は邪ではない!」
叫ぶと同時に京二は鬼へと向かって走り出していた。京二を突き動かしたのはある一つの感情だった。
「気付かぬか、小僧」
そう言った鬼は構えることなく京二に対していた。爪刃を振りかざせば隙だらけで突っ込んでくる京二を引き裂く事は容易かったであろう。しかしこの鬼はある意味仏のように達観した心境に至ったのか、微動だにしなかった。
「気付かぬなら教えてやろう。我が身をもって貴様に教えてやる。せいぜい苦しめ」
鬼の目は京二の瞳の奥を捉えたまま京二の運動を追っている。いや、見届けている。鬼は何もしなかった。ただ小僧を見下ろしたまま立っているだけだった。無抵抗を見せつけるかのように。
「黙れ!」
京二は本当にただの小僧になっていた。理性に行動を委ねるのではなく、本能に行動を支配されてしまっていた。京二の叫びとともに放った一振りが、鬼の首を切断した。鬼の胴体は堂々と立ち誇ったままで、切断された首からは汚い液体が噴水のように噴き上がっている。
ごとり、と音をたてて床に転げ落ちた鬼の首はごろごろと転がり、しばらく転がった後に、唯一平坦な形態となっている首の切断面をもって床に立っていた。ねちゃりとした体液が床と首との安定をもたらしている。床から生えているようにも見える鬼の首は、死までのわずかな時間を持って京二に話しかけた。
「貴様は我を斬った。抵抗せぬ我を斬ったのだ。抵抗せぬもの斬った気分はどうだ。ははは、確かに感じたぞ、貴様の剣を。確かに見抜いたぞ、貴様の修羅を。貴様が自分で気付かぬなら我が教えてくれるわ、我が刻み込んでくれるわ、貴様の刀に。修羅へと化した貴様には拭えんだろう、我の血が。ははは、我とともに極めるがいい、小僧の言う強さとやらを。そして見るがいいその先に待つ景色を」
京二は雨のように降り注ぐ鬼の体液を拭うこともせずただ立ち尽くしていた。そして自分の刀を見つめていた。透き通るほどに美しかったはずの刀身を見つめていた。これから自分とともに歩んでいくこととなる京二の刀には鬼の体液がべったりと張り付いている。しかし京二はそれを拭おうとはしなかった。溝川よりも汚いその体液を無言で見つめ続けていた。
どろどろと刀身を這っていくその波紋を見て、京二はつぶやいた。
「鬼の呪いか」
それに対して首だけとなっている鬼が応えた。
「気付けよ小僧、鬼は貴様だ」
京二が鬼の首を見下ろす。鬼は続けた。
「それは印だ。貴様の感情の。ああ、気持ちよかった。貴様の―――」
鬼が言い終わる前に、京二は鬼の首を頭蓋から貫いた。
しかし鬼は最後の一息でその言葉を漏らす。それを告げた時の鬼の顔は、ニヤリ、と口角を引き上げて笑っていた。あまりの気味悪さに京二は身震いした。
汚い体液に混じって鬼の言葉は吐き出された。
――――殺意――――
羅城門の最奥に位置する大広間の中で京二は自問していた。自分の骨を作っているものは何なのか、自分の足を動かしているものは何なのか、自分の意思を生み出しているものは何なのか、と。
外では二人が何やら騒がしいことをしているらしい。さっき聞いた話ではこの羅城門前に絡新婦が現れたのだそうだ。あの巨体が手こずっているそうだから、それはきっと妖怪ではなく怪紋刀の使い手なのだろう。しかし乗り込んできた使い手も相手が悪い。あの二人相手に生きて帰ることはまず不可能だろう。
(ああ、まただ。また命に重みを感じていない)
たった今、京二は羅城門に乗り込んできた使い手の命を何とも思わなかった。いつから命に重みを感じなくなってしまったのだろう。いや、いつから命に重量の差を感じてしまうようになったのだろう。
京二は分かっている。門の外でやり合っている連中が誰なのかということが。男の特徴を聞いた時、すぐに気付いた。その男が秀也であるだろうということに。もっと言うなら、秀也一人でこんな所に乗り込んでくるとは思えない。春一、もしかしたら代月までもがいるのだろう。
京二はやはり自分に問いかける。自分は変わってしまったのだろうかと。あの鬼の言っていたことがどうしても忘れられない。自分の中には修羅がいるのだろうか。殺意が自分の支えになってしまっているのだろうか。人間に一瞬の殺意が湧くのは決して珍しいことではない。怪紋刀を持っているものならば誰しも一度は殺意を持ったことがあるはずだ。そうでなければ妖怪を斬ることなどできない。
しかし殺意が精神的支柱になっているとしたなら話は大きく変わってくる。そんな人間はただの殺人狂でしかない。そんな人間がいくら理想を語ろうともそれは単なる詭弁、自己陶酔にほかならず、京二自身が憎んできた奴らと変わらないどころかそれ以下である。
(なにゆえ力を求めるか)
わからない。分からなくなってしまった。なぜ自分は力を求めていたのだろう。あの時見た桐蔭先生の力に底知れぬ魅力を感じたからなのだろうか。人を守り悪を絶つ正義に自分も近付きたいと感じたからなのだろうか。私慾ばかりを貪っている役人を懲らしめてやりたかったからなのだろうか。
京二は思考の迷宮に迷い込んでいた。
役人が私慾を貪ることができるのはそこに権力という力が介在しているからだ。悪が規定されるには罪なき人々を嬲る暴力という名の力が必要になってくる。京二が憎んでいた連中はみな何かしらの力を持っていた。
京二が望んでいたものは強さであり、それすなわち力である。そして今の京二にはその力が備わっている。
(貴様は邪ではないのか)
やはり自分は邪なのだろうか。自分が邪ではないと思うことはもはや自身の願望であり、事実を反映しているのかどうかすら分からない。自分の正義はどこに行ってしまったのか。自分は何のために刀を振るっているのか。自分は何を守ろうとしているのか。
何もかもが分からない。
「春一」
春一ならばどう考えるのだろうか。力を持たないにもかかわらず代月を助けるため鬼に立ち向かい、しまいには助けに行った自分自身が喰われそうになったあの時の春一は、いったいどんなことを思っていたのだろう。何が春一の足を支え、体を動かしたのだろう。
扉の奥からふらふらとした足音が聞こえてくる。
あの時目にした春一の背中はとても大きかった。その大きさに一瞬安堵を覚え、すぐにそれは悔しさに変わった。あの時は分からなかった。その悔しさがどこから来るのかということが。肩を並べて竹刀を握れないことが悔しかったのではない。自分に勇気が湧いてこなかったことを憂えたわけじゃない。己の事ばかり考えている自分に腹が立ったわけじゃない。
ただただ羨ましかったのだ。いつでもどんな状況でも変わらない春一という人間が。
「春一」
今の京二だからこそなおさら思う。変わらないということがどれほど難しく、また尊いものであるかということを。子供の頃のように無垢のままいることは針の上に立つことよりも難しい。成長すれば見えなくてもいいものまで見えてくるし、よそ見をしていては自分というものが揺らぎ始めてしまう。
足音が止んだ。
自分は変わってしまったのだろうか。
広間の扉がゆっくりと開かれる。
春一なら何と答えてくれるだろう。
「春一」
薄暗い広間に光が差し込む。泥沼のようにどんよりとした空気が解放された空間を通り、擦れ違うようにして新鮮な空気が広間の重みを和らげた。口を開いた扉は人の口腔のように暗闇に満ちてはおらず、眩しいばかりの景色を伴っている。
あまりの眩しさにそのシルエットしか見ることのできない京二はそれでも訊ねる。扉の横にたたずむ男から漂うあの頃と変わらぬ雰囲気だけを頼りに。
「俺は変わってしまったのだろうか」
京二と春一は対面した。
「知らんがな、馬鹿京二」
やはり春一はあの頃のままだった。