あの日の誓い
「び、びっくりするがな!バカ杏!」
いつもと変わらぬ調子の春一がそこにいた。
「人の名前を叫びながら入ってくる奴がどこにおるんじゃ!やり直せや!もっとお淑やかにやりなおせや!」
大声を張り上げる春一であったが、
「これ、春一。杏の話をちゃんと聞いてやらんか」
という代月の言葉で冷静さを取り戻し、そして気付いた。
「あ、杏?」
春一は杏の顔をまじまじと見つめる。
「泣いとるんか?」
自分と喧嘩をして涙を流している杏ならば見たことがあるのだが、そうでもないのに泣いている杏を見るのは珍しいようで、春一は少しだけ戸惑っていた。
「助けて、助けてよ、春一」
杏の瞳からは涙がぼろぼろこぼれている。いくら身体が成長したからと言って杏の中身までもが成長したというわけではない。それは年月を経れば育つというようなものではなく、今の杏はあの時の杏と同じなのだから。自分の存在の一部が切り取られてしまうような、どうしようもない恐怖に心を侵食されてしまっているのだから。
「どうしたんじゃ」
春一が問いかけても杏はただただ立ち尽くして泣いているだけだった。くしゃくしゃの顔のまま杏がわずかに口を開く。
「き、京二を……」
「杏、もっとはっきり言うてくれや」
肩を震わせながら一息呑んだ杏が声を紡ぐ。
「京二を止めてよ」
杏の頭の中はやや混乱している。秀也の今の状況を最初に伝えるべきだったのだろうが、今の杏にしてみれば、京二の刃で秀也が倒れるという悪魔のような妄想に支配されてしまっている。自分たちの思い出全てを否定するような惨劇の映像だ。
春一はグッとこぶしを握る。
「京二の事は放っておけ」
春一はかつてあの雪景色の中で誓ったことがある。あの時の春一はなんとも春一らしく、自分自身に自分の言葉を誓っていた。
(わしは見届けちゃる!こいつらの誓いが果たされるかこの目に刻んだる!こいつらが横道に逸れそうじゃったらわしがなおしちゃる!力尽くでも元に戻しちゃる!)
この言葉に嘘偽りはない。この誓いは今でも春一の心の中に深く刻み込まれている。そう、刻み込まれているからこそ、春一は京二を止めようとしないのだ。
「なんでよ!」
ちぎれそうな声を発した杏は一瞬ぞっとする。そして同時にあの時五人で誓いを叫んだときの情景がちらちらと浮かんでくる。その時に舞っていた粉雪のように、杏の中では春一が叫んだ言葉がゆっくりと降り積もり、そして重みを増していく。
「春一」
氷のように自分の中を滑り落ちていった感覚が杏の言葉を震わせる。杏は怖かった。自分がたどり着いた答えが否定されるかもしれないと思い震えていた。もしかしたら春一の中ではあの日の誓いはなくなっているのかもしれない。雪が溶けてなくなってしまうように、春一の中ではなかったことになっているのかもしれない。
それはまぎれもない変化であって、その変化は雪が清水に変わるような清らかで透き通ったものではない。だって、その変化は今の自分たちと昔の自分たちの連続性を否定するものなのだから。
杏にとって過去の自分たちの否定は、今の自分たち、さらには、杏自身をも否定することになってしまう。達磨落しのようにある一点だけを取り除いても平気でいられるわけじゃない。そんなに単純なものではない。
「私たちは」
降り積もる雪の重みに耐えながら撓る枝のように、杏の琴線は張り詰める。その重みがどさりと崩れてしまわないように、杏は自分を確かに感じてみる。そして、訊ねる。
「私たちは変わっちゃったのかな」
杏の緊張した声色とは対照的に、春一の顔色はいつもと変わらない。
「どういうことじゃ?よう意味が分からんがな」
「私たちはもう昔とは違うのかな」
これに対して春一はきっぱりと答えた。
「当たり前じゃがな。わしらはみんな変わっとる」
あまりにもはっきりした声の答えが返ってきたので、杏は悲嘆に暮れる暇すらなかった。
春一の言葉には昔から裏表というものがない。複雑な思考をするのがあまり得意ではないから思ったことをそのまま言うし、事実は事実のまま真っ直ぐに伝える。これは自分の言いたいことがそのまま伝わるし、言葉が装飾されていない分だけ相手に誤解されることもない。しかし春一の言葉はまれに誤解を生むことがある。
そう言う場合はたいてい春一が相手の深意まで理解できていない。春一は自分が真っ直ぐな言葉そのものしか使わないせいか、相手から投げかけられる質問に対してもあまり深く考えない。受け取った言葉は言葉そのものの意味として受け取ってしまうのだ。
だから春一にしてみれば年月を経て年を取り背丈も伸びた自分たちが昔と変わらないわけがなく、変化していて当たり前なのである。杏の問いかけがもっと深いところについてまで言及しているということに春一は全く気付いていない。
春一の隣では代月が笑っていた。代月には春一と杏の心境のどちらも読み取れてしまい、なんだか面白いこととして映ってしまったのだろう。
「春一らしい答えじゃ」
そうつぶやいた代月の視線は杏へと向けられる。
「杏、秀也はどうした?」
そう問われた杏は、はっ、としたように告げるべき事実を思い出した。自分は変わった変わってないの問答で一喜一憂している場合ではないのだ。
「秀ちゃんが……」
言葉と同時にあの鮮血の映像が浮かんできて言葉に詰まってしまう。
「秀ちゃんが斬られたの」
この言葉に春一と代月の表情が一変した。
「どういうことじゃ、ちゃんと説明せえ」
山の天気のように変わりやすい春一の声が怒っている。
杏は説明した。薙刀の男、怪紋刀、秀也が斬られたこと。これらの説明をするのには数秒とかからなかった。
珍しく代月の表情が冷たかった。
「春一」
代月に声をかけられた春一はこくりと頷いている。
「京二が一人で好き勝手やる分には何も文句は言わんのじゃが」
春一が立ち上がった。
春一はあの時誓った。見届けると。また、横道に逸れるようだったら元の道に戻す、とも誓った。見届けるというのは簡単だ。ただ見届ければいいのだから。一方、元に戻すとなると、これはいささか難しくなってくる。何が難しいかと言えば、横道に逸れたと判断することが難しいのだ。逸れる、という判断基準など一体どこから持ってこればいいのだろうか。
誓いを自分自身に誓った春一であったが、決して自分が神だとかそういう風に思っているわけではない。だから、横道に逸れる、という定義を持ち出すことがどうしてもできないのだ。
春一は昔から思っている。自分は自分で人は人だと。その思いが一番顕著に表れているのが春一独特の訛だろう。いつまでたっても春一はこの訛を直そうとしない。自分は自分なのだからいい、と気にすらしていない。
こいつらを見届ける、と宣言した春一は京二の行動を見届けるつもりでいた。人には人それぞれの正義があるのだということを自分に言い聞かせながら。それぞれの形の正義が成立するのだと心に刻みながら。
でもだからと言って横道がないというわけではない。春一の中ではこれだけは許せないと思う行為がある。
京二はその行為に及んでしまっている。横道に逸れてしまっている。春一はそう感じた。
「わしらを斬っても何も思わんようになってしまったというんじゃったら話は別じゃ」
春一は代月を見やる。
「説教でもたれるんか?」
代月も腰を上げた。珍しく右腰には刀をさげている。
春一は首を振った。
「わしはわしの誓いを果たすだけじゃ」
杏の中で、熱い何かが走り抜けた。身体の中心を駆け抜けた熱い何かが瞳の奥から溢れ出てくる。零れ落ちてくる涙はとても熱かった。自分の中で何度も問いかける。(ねえ、春一は今、何て言った?何て言ったの?)と。
熱い何かが、積もりに積もった深雪を溶かし、重みを失った枝の先が、ぴんっ、と雫を弾ませ、勢いよく跳ねる。その勢いにつられて杏は思わず声に出していた。
「春一、今何て言ったの?」
春一はけだるそうに答えた。
「誓いを果たすというたんじゃ。何か文句でもあるかや?」
あるわけないじゃないの、と思いながら杏は心の中で踊っていた。
擦れ違い様に春一がつぶやく。
「待っとれ」
杏が振り向いた時にはもう、二人の背中は遠くにあった。その頼もしい背中を見つめて杏はぼそりと声を漏らした。
「なにも変わってないわね、あんたは」
笑顔に溢れる雫を日光が煌めかせている。待っとれ、と言っただけの春一は不親切だと思う。相変わらずだと言ってしまえばそれまでなのだけれど。杏一人で代月の家にいるのはなんだか気まずい。杏は林檎と話をしたことがないのだから。林檎は今のところ家にいないものの、いつ帰ってくるか分からないではないか。だから杏は呟く。場所を言わなかった春一が悪いのよと思いつつ静かに呟く。
でもどこかでひっそりと思っている。言葉には表すことのできない確信というものを密かに抱きながら。二人は、いや、四人は、きっとあの場所に帰ってくるだろうと。
「平井屋で待ってるから」
大盛りの牛鍋を用意して待っていてあげようと思う杏であった。