のれんに牛
ただひたすらに走っていた。
石につまずき転びそうになるたびに杏は思う。あの頃も私はこうして走っていたなあと。
一瞬垣間見た昔の自分があの時の秀也の言葉を反芻させる。
(俺たちは変わってしまったのだろうか)
そんなこと杏にだってわからない。確かに外見や肩書だけを見れば自分たちは変わってしまったのだろう。もう子供ではないのだから。秀也は檢妖隊とかいう政府の仕事に就いているし、代月は出版社で歌論を論じたりしている。春一は相変わらずのらりくらりしているけれど、背丈は杏が見上げるくらい大きくなってしまった。でも身体の変化なら杏だってあの頃より大人になっている。背だって少しは伸びたし胸だって膨らんだ。京二はあの時から一度も顔を合わせていないからわからないけれど、みんなと同じように確かに成長しているはずだ。
自分たちは大人になったのだから。
それを一番に物語っているのはみんなが顔を合わせる回数だろう。昔は毎日のように五人で過ごしていたけれど、今はそんな機会を持つことはできない。杏自身だってお店の手伝いで忙しいからなかなか外になんて出られない。
あの頃はお互いが考えていることがなんとなくわかった。よくあの四人が何か悪だくみを考えているときは杏にも薄々そういう雰囲気が伝わってきたものだ。それに巻き込まれてひどい目にあったこともあったけれど、今思えばいい思い出になっている。あの頃は何もかもが楽しくてしょうがなかった。
でも、今は違う。
もうお互いが考えていることがなんとなくわかるなんてことは言えない。
だって、今の杏には京二の考えていることが分からないのだから。秀也についていかない春一のことも分からないし、涼しい顔をしてお茶をすすっていられる代月のことも分からない。
やっぱり自分たちは変わってしまったのだろうか。
全力で山を下った杏は平井屋を目指して走っていた。平井屋までの道のりは少しも昔と変わらない。周りに映る景色も少しも変わっていない。自分たちと同じ時間を過ごしてきたはずの風景たちはあの頃のままだった。そんな風景が少し羨ましかった。
あの頃と変わらない景色を走り抜けているうちにふと思った。
変わるとはどういうことなのだろうと。
確かに自分たちは成長したし、顔を合わせる機会も減った。今自分たちが過ごしている時間はあの頃とは違う。そう、違うのだけれど。
(変わるってそういうことなの?)
杏の目にはいつもの見慣れた町の風景が映っていた。そしてなおも走る。両足両腕を懸命に動かす。こんなにも汗をかいたのは久しぶりだった。こんなにも危機感を煽られてせかされるのは久しぶりだった。
たぶん、あのとき以来だろう。
杏は平井屋の前に立っていた。
それは太陽の眩しさにめげることなく店先にかかっていた。通りを駆け抜ける風にひらひら揺らされながら仲良く遊んでいた。手でもつないでいるのだろうか、少しくらい汚れていてもそれを拭うことなくそこにいた。
平井屋の暖簾はあの頃のままだった。
杏が怒りにまかせて筆を走らせた『ひ』の文字。秀也のきっちりした性格が表れている『ら』の文字。京二の武骨さが表れたような『い』の文字。代月の嫌味なくらい修練された『屋』の文字。春一のめちゃくちゃな性格をそのまま表したかのような、わけのわからない自称、牛、の絵。
それぞれの文字は大きさも違うし、形も違うし、掠れた具合になっているものもあれば黒々と押しつけられたところもある。みんなバラバラなんだけど……。
暖簾は一列になって風に吹かれていた。
みんな並んで店先にいる。
杏はなぜだか泣けてきた。
泣き顔のまま平井屋の中を覗いたけれど春一の姿はどこにも見当たらない。そばにいた母親に二人のことを聞いてみたら、どうやら二人は代月の家に帰ってしまったらしい。
何も知らない杏の母親は、
「また喧嘩でもしたの?」
と杏に聞いてきた。杏よりもはるかに多くの年月を過ごしてきた杏の母親にしてみれば、杏や春一たちはあの頃と少しも変わっていないように映るのであろう。
杏は、
「うん」
とだけ言って、代月の家を目指して再び走っていった。
先ほどまでの疑問が一段落ついたせいか、今の杏の頭の中は秀也のことでいっぱいになっていた。あの状況はどう考えたってよくない。あんなにもたくさんの血が飛び散る場面を杏は生まれて初めて見た。しかもその血は秀也のものなのである。自然と唇が震えていた。
杏の頬を伝っている雫の重みがだんだん増してきた。涙がどんどん恐怖で彩られていく。一度はすっきりした表情をしていた杏の顔色が強張ってくる。整った顔立ちがみるみる崩れていく。あの暖簾を見た後だけに込み上げてくるものは大きかった。
昔の杏は悪夢のような妄想にさいなまれ、ぐちゃぐちゃになって泣いていた。怖くて怖くて仕方なかった。べつに恐山が怖くて泣いていたわけではない。あの四人がいなくなることが怖くて泣いていたのだ。あの四人と一緒にいられなくなることが怖くて泣いていたのだ。
今だって変わらない。
秀也がいなくなってしまうことが怖くて泣いている。秀也が薙刀に屈してしまう姿を想像して泣いている。
しかし杏の妄想はここで終わらない。
秀也は言っていた。あの羅城門の中に京二がいると。そして今、秀也と対峙しているのはあの羅城門から出てきた男。つまりあの男は京二の仲間だということになる。
秀也があの男に屈したとき、それはある意味京二に屈したことにもなる。京二の刃で秀也が倒れる。そんなことがあったら自分たちはもう二度とあの頃には戻れないだろう。自分たちの中では、あの頃の思い出すら消去しなければならなくなるだろう。あの四人の名前を出すことすら禁忌となってしまうだろう。
そんなの辛すぎる。
杏がどんなに過去を振り返ってみても、どんなに詳細に思い出の景色を振り返ってみても、浮かんでくるのはやっぱりあの四人のことばかりだから。笑ったり、泣いたり、喧嘩したり、いたずらしたり。今の自分はあの頃の自分でできている。あの頃の思い出でできている。あの頃の四人でできている。
五人の思い出が途切れた時、きっと自分は壊れてしまうだろう。
「春一」
秀也が叫んだ名前を口に出す。
「春一」
今の自分たちの状況を打破できるであろう男の名を口ずさむ。
「春一」
春一はどう思っているのだろう、今の自分たちのことを。昔と変わってしまったと思っているのだろうか、それとも変わっていないと思っているのだろうか。
ずいぶん走った。そろそろ代月の家が見えてくるはずだ。
春一と杏は昔から喧嘩ばかりしていた。
春一と喧嘩をするとたいてい杏は泣かされた。春一は加減というものを知らないのだろう。相手が男であっても女であっても関係なくひどいことを言ってくる。さっき、泣いている杏を見た杏の母親が、「喧嘩でもしたの?」と聞いてきたのはそのためだろう。
「春一」
杏は思った。やっぱり自分たちはあの頃と変わってない。
杏は成長したって春一と喧嘩をしているし、春一の考えていることが分からなかったら分からなかったで、またイライラして喧嘩をしている。数時間前だって自分たちは怒鳴り合いの喧嘩をしていた。
「春一」
春一は変わっていない。私も変わっていない。少しも変わっていない。
杏は代月の家の前に立っていた。
「春一」
わずかに呟いてから勢いよく戸を開く。
「春一!」
家の中には春一と代月しかいないようで、二人ともものすごい驚きを見せていた。
そして杏は叫ぶ。
「助けて!」
あの時と変わらぬ叫び声だった。