絡新婦(じょろうぐも) vs 牛鬼(うしおに)
「大丈夫か杏?」
「うん、平気」
秀也と杏は恐れ山を登っていた。
勢いよく平井屋を飛び出したはいいものの、杏は少しだけ後悔していた。やっぱり恐山は怖いのだ。恐山はあの頃と少しも変わっていなかった。山への入り口付近では風が迷子になっていたし、そびえたつ木々は自分を拒むかのように枝を垂らしている。
あの頃と違うところと言えば杏自身がこの山に立ち入っているということぐらいである。あまりにも怖いので杏は秀也の袖口をぎゅっと握りしめていた。あの時の自分と変わっていない。とてもじゃないが一人で歩けるようなところではなかった。
「お化けとか出てこないわよね?」
思わずこんなことを口にしてしまう。
「大丈夫、俺がいる。今の俺なら鬼が出てこようと関係ないさ。お前を守ってやれる」
杏にとって久しぶりに見た秀也はずいぶん頼もしくなっていた。昔から少しきざなところはあったけれど、あの頃は口ばかりだった。でも今の秀也の背中はとてもたくましく見える。
杏は知っている。秀也が腰に下げている刀が怪紋刀であるということを。もちろん、怪紋刀がどんな刀であるかということも。春一や代月と一緒にいればそういう知識は否応なく杏の耳にも入ってきて、初めに浮かんだのは桐蔭先生が持っていたあの寸詰まりの短剣だった。たぶんあれも怪紋刀だったのだろうと杏は思っている。
最近はお店が忙しいので気にも留めていなかったのだが、久しぶりに秀也の顔を見たらなんだか昔が懐かしくなってきた。同時に、昔を思い出すことでつくづく思うことがある。
自分たちは成長したのだなあと。
あれ以来五人が一度に顔を合わせるという機会はなかった。みんな各々目標を追いかけ、気付けば五人はそれぞれの道を歩んでいた。
「杏」
後ろを振り向いた秀也が杏に声をかけた。
「どう思う?」
「何が?」
「その、俺たちは」
秀也は言葉を探しているようだ。
「俺たちは変わってしまったのだろうか」
秀也もまた時の流れを感じていた。
あの事件があって久しぶりに訪れた代月の家には春一がいた。代月とはちょくちょく会っていたのでそれほどの新鮮さは感じなかった。春一とは久々に顔を合わせたのだが、春一の性格や相変わらずの強い訛のせいか、これまた新鮮さを感じることはなかった。
そんな二人とは対照的に、杏に対しては新鮮さを感じずにはいられなかった。何年かぶりにあった杏は見違えるほどに美しく、思わず息をのんでしまった。驚きはしたものの、その驚きはすぐにうれしさへと変わっていた。
しかし同時に寂しさも感じた。
杏の変わりようは如実に自分たちが成長したことを物語っていたし、なによりももう昔の自分たちではないのだということを見せつけられているような気がしたからだ。いつでも何をするにも常に一緒にいたあの頃の自分たちがとても遠いところにあるように感じ、自分たちではない別の何かのように感じてしまっていた。過去という言葉の響きに何か特別なものを感じてしまっていた。
「わからない」
杏はそれしか言えなかった。
「そうか」
秀也も答えなど持ち合わせていない。
やけに静かになってしまった二人をよそ目に、木々で覆われた視界は空をとらえた。恐山の頂上に着いたのである。
「なに、これ……」
杏が思わず声を漏らした。驚きを隠せないようで、片手で口を押さえている。
「羅城門だ」
あの頃と変わらない景色がそこにあった。深紅に靡く花の群れ、ざわめくような花の群れから突き出る八本の木柱。
しかし秀也は恐れなかった。あの頃とは違うのだ。
「行こう。あの中に京二がいる」
杏は言葉を発することなく、うん、と頷いた。杏はなおも秀也の袖口を握りしめている。
二人が一歩二歩と着実に歩を進めていく途中、
「どこのお客さんで?」
羅城門の二階から重厚な声がこだました。
「杏、下がっていろ」
秀也が自分のそばから杏を遠ざける。
「杏」
後ろに下がる杏に秀也が声をかけた。
「場合によってはかまわんから逃げろよ」
杏は首を振った。しかし秀也はそれきり何も言わなかった。一言であるが故にその言葉に重みを感じてしまう。
「お前は誰だ。俺たちは京二にようがあってここに来た。関係ないなら何も言わずここを通してほしい」
秀也の呼びかけに、巨体の男はにやりと笑った。その視線は秀也の腰に下げられている刀に向かっている。
「貴様、剣術の腕はどんなもんだ?」
そう言って巨体は薙刀を振り回した。秀也に見せつけるかのように豪快に。
それを見た秀也は息を呑む。薙刀を振り回す男の豪快さに息を呑んだのではない。男が振り回している薙刀の刃紋に息を呑んだのだ。
きっ、と表情の引き締まった秀也を見て、巨体が問いかける。
「気付いたか?」
秀也が答える。
「ああ」
「どうした?貴様も抜刀しろよ」
巨体の視線は秀也にしか向いておらず、杏のことなど少しも気にしていないようだ。とんだ戦闘狂である。
「もちろんだ」
かみしめるようにして柄を握った秀也はためらわず抜刀した。
「ほう」
巨体が声を漏らす。
「貴様も使い手か。ならば遠慮なく」
刀身が妖しく光ったかと思うと巨体は二階から飛び降りていた。
「引き裂け!骨喰藤四郎!」
ずん、と赤花を散らせながら着地した男は巨体である。そう、とてつもなく巨体だった。二階にいたときよりも一回りほど大きさを増していたのである。
しかも、容姿は人間の面影をとどめていなかった。顔は狂気に満ちた牛のそれと同じく、体は鬼のそれに近かった。ただし、手足の指先から伸びる爪が適度に長く、人を引き裂くには十分すぎるほどに鋭かった。もはや二十本の刀と一振りの薙刀を操っているに等しい。
「貴様も見せろよ」
巨体の声に、もったいぶるでもなく秀也は刀を構えた。
「ああ。見せてやるよ」
秀也が握った刀の刃紋が光り始める。
「吐き出せ、膝丸」
ぼそりとつぶやいた秀也もまた、ただならぬ雰囲気に包まれていた。
それまでは普通に垂れていた相変わらずの長髪がめきめき束になり硬質さを増していた。それらの束は左右それぞれ四本ずつの対になり、合わせて八本の束となる。その八本の束は前方の標的に掴みかかるかのごとく前屈みに伸びている。
それらはあたかも蜘蛛の脚のようだった。
「ほう、絡新婦か」
「黙れ牛鬼」
二つの刃が火花を散らした。