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のれんに牛  作者: マナブハジメ
青年期
12/24

強気な杏(あんず)

「杏、おかわりくれや」

「今日はちゃんとお金払ってくれるんでしょうねえ。出世払いとか言わないでしょうねえ?」

「今日は秀也が払ってくれる言うとるから大丈夫じゃ」

 杏が秀也を見やる。

「あ、ああ。心配するな。俺が払うから」

 秀也の返事を聞いた杏はにっこり笑顔をつくってから店の奥へと消えていった。

 ここは平井屋である。

春一、代月、秀也の三人は鍋を囲み、杏は絶えずかかってくるお客さんからの注文にかかりっきりでとても忙しそうにしている。昼時ということもあってか店は満席である。このような忙しさを常に願ってきた杏にとっては喜ばしいことこの上ないのだが、なかなかかまってもらえない春一としてはあまり喜ばしいことではないらしく、どこか()ねたような顔をしている。

 最近の平井屋は繁盛している。もともと味は良かったのだからさほど驚くようなことではないのかもしれないが、ここまで繁盛するためには何らかのきっかけがあったに違いない。残念ながら春一たちが書いた暖簾はさほどの効力を発揮しなかった。今でもいつも通り店先で風に揺られている。

 そのきっかけが何だったのかということについて杏は気付いていない。自分自身がそのきっかけであったのだから仕方ないだろう。

噂は町にすぐ広まった。「平井屋にはえらい別嬪さんが二人もおる」という噂だ。町の人がもてはやす、えらい別嬪、の一人は杏の母親であり、もう一人は杏だった。やはり男というのは花の近くに寄り付きたいものなのであろう。客足はなかなか絶えることがない。

 春一と代月は頻繁に平井屋を訪れているから杏の容姿の変わりように少しも気づいていなかった。春一は相変わらず出世払いを唱えているし、代月は自分の分しかお勘定を払ってくれない。代月いわく、春一にお金を貸しても返ってこんから損するだけじゃ、だそうだから、杏も春一にお金の期待はほとんどしていない。それでも牛鍋を出してあげているのは腐れ縁みたいなものである。

 ところが久々に平井屋を訪れた秀也にしてみれば驚きは大きなものだった。平井屋がこれだけ賑わっているのにも驚いたが、もっと驚いたのは数年ぶりに見た杏の姿だった。

 杏はこちらから声をかけるのがためらわれるくらいに美しくなっていたのである。秀也はつくづく、女とは分からんものだ、と思った。

 幸い杏の性格は少しも変わっていないようで、今でも昔のように気軽に声をかけてくるのだから秀也は安心した。また、嬉しくもあった。それでも先程のように杏と目が合うと少しどぎまぎしてしまう。慣れるのにもう少し時間がかかりそうだ。

 さて、秀也が春一と代月に飯をおごっているのは秀也が上機嫌であるからというわけではない。むしろもっと深刻な理由によるものだ。

 改めて秀也は二人を見やる。

「今からでも遅くない。京二を止めに行こう」

 春一がこれに答えた。

「お前の言うとる手紙が京二からのもんじゃという証拠はあるんかや?」

 この時の秀也は一刻も早く行動を起こしたい気分であった。事は何の前触れもなく突然起きたのである。秀也が京二の情報を掴みつつあったまさにその時、青天の霹靂(へきれき)のようにその事態を知らされた。檢妖隊の隊長から知らされたのは大久保暗殺の事実だった。自首してきた犯人の中に京二が含まれていなかったので、ほっと胸を撫で下ろしていたのもつかの間、翌日には政府に、天誅、と書かれた書簡が送り届けられた。

 その手紙の送り主は新妖立会を名乗っている。明後日に政府のお命頂戴する、と記されていた。秀也の掴んだ情報が正しければこれは京二の所属する団体である。つまり、明日には京二たちが乗り込んでくるということだ。それだけは避けなければならない。

「ああ。間違いなく京二からのものだ。あいつは今、新妖立会という団体に所属している。どんな活動をしているのかは分からんが、居場所なら掴めた」

「どこなあ?」

「恐山だ。どうやらあそこを拠点に活動しているらしい」

 春一の表情が引き攣った。

「恐山って、お前……。京二はようそないなところで平気でおれるもんじゃな。感心じゃ」

 そう言って春一は代月を見た。これに代月が口を開く。

「あそこはなかなか人が寄り付かんところじゃからのう。よう考えたもんじゃ」

 二人の呑気(のんき)な反応にだんだんイライラしてきた秀也であったが、ここは店内であるから大声を張り上げるわけにはいかない。

「政府のお命頂戴する、ということは、京二はこの国そのものに対して刃を向けるということだ。ことの重大さはお前らもわかってるだろ。もう京二の居場所だって掴んでるんだ。俺は今から恐山に乗り込もうと思う。無理して檢妖隊の勤務から抜けてきたんだ。お前らもついてきてくれるよな」

 しかし春一は浮かない表情のままだ。

「面倒くさいから嫌じゃ」

 秀也が思わず春一を怒鳴りつけてやろうかと思い大きく息を吸い込んだその時、ちょうどいいタイミングで杏が牛鍋のおかわりを持ってきた。

 実を言うと今日二人を平井屋に行こうと誘ったのは秀也である。代月はともかく春一ならば飯をおごるという単純な理由で自分についてきてくれると思ったからだ。しかしこの作戦は今のところうまくいっていない。

秀也が飯をおごるのに平井屋を選んだのには理由があった。杏である。べつに杏に会いに来たというわけではない。杏にこの分からず屋の春一を説得してもらおうと思ったのだ。

 だから秀也はこれまでの成り行きをすべて杏に話した。店が忙しいにもかかわらず杏は秀也の話を最後まで聞いてくれた。

代月が嫌な顔をしていたが、かまってなどいられない。代月にしてみれば杏を巻き込みたくないのだろうが、そんなことは秀也だって同じで、できることなら杏を巻き込みたくないと思っている。しかし春一にはどうしても自分についてきてもらいたいのだ。もしかしたら相手の怪紋刀は数本に及んでいる可能性がある。自分一人で対処するには不安が大きいし、檢妖隊の力を借りるわけにはいかない。京二を捕縛(ほばく)するのが目的なのではなく、京二の目を覚まさせるのが目的なのだから。

秀也が思うに春一の剣の腕は並外れてすごい。檢妖隊の隊長格と比べても遜色(そんしょく)はないし、取り込んでいる妖怪次第では春一の方が上になるかもしれないと思うくらいだ。

秀也から一通りの話を聞いた杏は沈痛な面持ちをしたまま春一に対している。

「あんた、事の重大さがわかってんの?京二が捕まったら間違いなく打ち首よ。殺されちゃうのよ。それでもいいって言うの?」

 春一は腕組みをしながら答えた。

「あいつはあいつなりに考えがあってそういうことをしとるんじゃろうから、わしらがあれこれ言うようなもんじゃないがな」

 この言葉に杏の表情がひやりと冷めた。

「最低ね」

「なんじゃと」

「見損なったって言ったのよ」

「もう一遍言ってみい!」

 春一が大声を張り上げた。これに杏も怒号で応える。

「何回でも言ってあげるわ!あんたは最低よ!友達一人救えない最低の男よ!」

「言いよったな!このバカ杏!お前はわかっちょらん!わしらはもうガキじゃありゃあせんのじゃ!自分のケツぐらい自分でふけるがな!いちいちわしらが口出すようなことじゃないんじゃ!」

 あまりの大声に店内の視線が全てこちらに集まっている。

「なによ!春一の馬鹿!」

 周りの視線など気にしないらしい杏は秀也の手を引っ張っていた。

「秀ちゃん行きましょ!こんな馬鹿置いといて、私たちだけで京二を説得するの」

 思わぬ方へと事態は転んでしまった。これではいよいよ杏を巻き込んでしまうことになる。秀也は助けを求めるように代月の方へと視線を送るのだが、代月は気付かぬふりをしたままお茶をすすっている。

「ほら、秀ちゃん!早くして!」

 一度決めてしまったことは頑として曲げない杏はもう店の外に出てしまっている。逆にせかされる形となった秀也は、

「待ってるぞ、春一」

 とだけ言い残して外へと出て行ってしまった。二人が向かうのはあの恐山である。

 嵐の過ぎ去った店の中で、春一は大きな溜息をついた。

「何でわしばっかり」

 そう言って代月の方を見やる。

「みんなお前を好いとるんじゃ。喜ばしいことじゃないか」

 しかし春一はまだ納得できないようだ。

「みんな勘違いしとるんじゃないかや?」

「何をじゃ?」

 代月はなおもお茶をすすっている。

「わしを負かした奴がここにおる言うことをみんな知らんのじゃ」

 代月がにやりと笑った。

「一回しか勝ったことはないがのう」

 春一は厭味(いやみ)ったらしく代月の顔を見る。

「お前が本気を出しとるとこは一回しか見たことないがのう」

「疲れるからいかんのじゃ。身体にようない」

「よう言うわ。(ひる)行燈(あんどん)もたいがいにせい」

 お茶を飲み終えたらしい代月が湯呑(ゆのみ)を置いた。

「行かんのか?」

 春一は首を振っている。

「行かん」

 代月は昔を思い出すかのように目を細めた。

「春一や、あの時の誓いはどこへ行ってしもうたんじゃ」

 春一も、それほど広くはない店の中でどこか遠くを見つめている。

「ちゃんと覚えとるがな。でも今はそん時じゃありゃせん。京二は京二なりによう考えとるはずじゃ。あいつなりに苦しんどるはずじゃ。その結果出た答えが、天誅、ならわしは何も言わんがな。それがあいつの正義なんじゃ。わしはそれを見届けるんじゃ。それもまたわしの誓いじゃからな」

 代月は春一の横顔をちらりと見た。そして安堵の溜息をつく。

春一の横顔はあの時と少しも変わっていなかったから。京二と喧嘩をしていた時、杏と喧嘩をしていた時、鬼の手から自分を助けてくれた時、雪の中で誓いを立てた時。あの時の横顔そのままだった。

「なんじゃ代月。人の顔じろじろ見よって。気色悪いがな」

 代月はくすりと笑って、

「帰るか?」

 席を立っていた。

「おう」

 そう言って春一も席を立った。秀也の代わりに勘定を済ませた代月は、春一とともに家へと帰ることにした。

 空に昇った真昼の太陽が、二人の背中を照らしていた。

平井屋の暖簾は未だ風に遊ばれている。


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