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番外:また春は来る

 彼女が泣く姿を私はその日初めて見た。

 やっと泣いてくれた。と思った。

 それまでの彼女は不用意に私が「大丈夫?」と無意味な問いをしてしまった時など、自分に言い聞かせるように何回も何回も大丈夫だと繰り返していた。

 震える手で携帯を握りしめながら大丈夫と繰り返した。

 大丈夫と口にすれば本当に全てが大丈夫になるかのように繰り返した。そうすることでしか、自分を支えられなかったのだと思う。

 弱音を吐くこともなかったそんな彼女を私は見ているだけだった。あまりにも、私は無力だった。

 私達が直面した現実に対して、物語はあまりにも無力だった。


 寒さを押し流す春が始まる冬の終わり。私達の世界はぐるっと回転した。日常生活というとんでもなく平凡で当たり前の幸せが崩れる出来事が発生した。

 私はその日も自分の家でパソコンと格闘していた。まだ締め切りまでは余裕があったが、雑誌に掲載する短編のアイディアがなかなか降って来なくて、ああでもないこうでもないと、書いては消してを繰り返していた。何回も繰り返してそれでも納得がいかず、頭をリセットさせるために椅子から立ち上がった瞬間――。

 地面が、揺れた。

 味わったことのない規模の揺れだった。手足ががくがくと震えた。咄嗟になんの対処法も思い浮かばず、みっともなく机の下に逃げるので精一杯だった。

 じっと耐えているとだんだんと揺れはおさまっていった。

 ふらふらとした足にはまだ地面が揺れているかのような感覚が残る。どうにかして情報を仕入れようと、這うように動き、テレビの電源を入れると――。

 信じられないような言葉ばかりが、飛び交っていた。

 信じられないような映像が、流れていた。

 最大震度。死傷者。津波。警報。何度も流れるテロップには沢山の情報が詰められていた。

 呆然とテレビを眺めていると、いつもと変わらない音でインターホンが鳴った。

「涼!無事?怪我はしてない?」

 インターホンを鳴らしたのに、合鍵を使って勢いよく扉が開く音がした。心配そうな真山さんの声が玄関から私を呼ぶ。昔、三徹した後に丸一日熟睡した日、音信不通になった私に恐怖した真山さんは我が家の合鍵を持っている。そういえば短編のテーマを何にするか悩んでいるとこぼしたら、今日様子を見に来ると言っていた。昼過ぎに来ると連絡があったからもしかしたら来る途中だったのかもしれない。

「大丈夫、私も原稿も無事。原稿ちっとも進んでないけど」

 震えがおさまった身体に力を入れ、ひょっこりと玄関に顔を出すと、走ってきた様子の真山さんは汗だくのまま叫んだ。

「今は原稿なんていいわよ!」

「……いい、の!?」

「今よ!今の話よ!永遠にどうこうの話じゃないわよ!……じゃなくて!」

 なんだ、残念。書くことは日常の一部だが締め切りは好きではないのだ。

「怪我は……してないわね、ガスの元栓は閉めた?」

「元栓……?」

「――確認してくるから座ってなさい」

 小走りに真山さんが台所に向かう。成る程、こういう時はガスの元栓は閉じた方がいいのか。

「涼……。元栓閉まってた。閉まってた、けど。先週私が来て以来触りもしなかったでしょう」

 戻って来た真山さんは部屋に入った瞬間から完全にお母さんモードだった。十八歳の冬に出会ってから、彼女に何くれとなくお世話になっているので、私は時折まごまごと反論するくらいしか抵抗出来ない。それにこうやって怒ってもらえるのは――口煩く感じる瞬間もあるが――ちょっと、嬉しい。

「出前で……一日に二食は……食べました……」

「………………出前を取っているだけ進歩だと妥協しましょう」

 テレビからは今も心をざわつかせる警報音と共に、状況を説明する声が聞こえる。自分をも落ち着かせようと普段よりも冷静に喋っているニュースキャスターの声。

 私の視線につられるように、真山さんもテレビに顔を向けた。

「……え?」

 引きつれたような声が真山さんの方から聞こえた。

「真山さん?どうかした?」

 静まった空間に被害状況が空虚に流れる。息を止めまばたきもせずに真山さんがテレビを見つめている。

「大丈、夫?」

「――ええ。大丈夫。大丈夫よ。……うん、大丈夫大丈夫大丈夫。きっと大丈夫」

 小刻みに震える手を押さえつけるように、真山さんは携帯を強く握りしめた。

「真山さ……」

「大丈夫だから。ね。……ごめんなさい涼、私今から会社戻るわ。もし何かあったらすぐに電話して」

 かける言葉を間違えた。それだけは分かった。

 一度も振り返らずに真山さんは私の部屋から出て行った。


 青ざめながら真山さんが帰った日から一週間。真山さんは会社を休んだ。細々とした連絡は真山さんの後輩という人がしてくれた。事前に真山さんから頼れる後輩だから大丈夫と一本連絡があった。最低限の必要なことだけが書かれたメールだった。

 仕事人間の真山さんが一週間も仕事を休むなんて、ただ事じゃない。

 後輩の人に真山さんについて探りをいれるメールを送ってみると、当たり障りのない調子で遠回りにだけど返答を拒まれた。

 きっと踏み込んでは、いけないのだ。

 人の事情を、望んでいないのに、聞いてはいけない。それは当たり前のことだ。当たり前のことだ。土足でずかずかと踏みいられるのは私が忌避することだ。――それでも。

 青ざめた真山さんの顔が。引きつれたような声が。振り返らなかった背中が、頭から、消えない。

 無理を言って約束を取り付け、おびえながら外に出る。約束した場所で私を待っていた真山さんの後輩の人は、細身の眼鏡が似合う女性だった。

「はじめまして」

 私が挨拶すると、彼女は苦いものを食べたかのように表情を歪めた。

「こんにちわ。三崎先生」

 落ち着いた声だった。真山さんの後輩だから真山さんよりは年下だろうけど、私よりはずっと年上であることがそれだけで分かる。

「知りたいことがあるんです」

 そう切り出して私が真山さんが今何をしているのかを知りたいと聞くと「失礼を承知で言いますが」と前置きし、彼女は言った。

「聞いて、どうするんですか」

 突き放そうとする言い方だった。

「三崎先生が興味本意で聞くような人じゃないのは分かっています。けれど、向き合う覚悟がないのなら聞かない方が双方の為だと思います。人の事情に踏み入るのならば中途半端ではいけません。きちんと向き合えないのなら聞くべきではないです」

 彼女はきっと真山さんのことを尊敬しているのだろう。そうじゃなきゃ自分を盾にするように守る言葉を使う訳がない。

 彼女の言葉は正しかった。でも私も軽い気持ちで来た訳じゃない。

「……私は、人と向き合うというのが、どれくらいの思いで、どれだけ心を傾けることなのか、分からないです。物語としか、向き合ってこなかったから」

 物語越しでしか、私は人を知れない。向き合うどころか会話をすることすら苦手だ。苦手だった。けれど真山さんは私の話を聞いてくれた。ちゃんと、聞いてくれた。

 真山さんと出会った日から今日まで。少しずつ、真山さんは私に教えてくれた。

「でも、私、真山さんのことが好きです。真山さんは私に色んなことを教えてくれたから。真山さんは、私を見つけてくれたから」

 十八歳の、冬。私が受賞出来たのは真山さんの一押しもあってのことだった。

 どこにもいなかった、誰とも繋がれなかった私に、誰かと生きることの切れ端をくれたのは真山さんだった。あの場所で一人のまま緩やかに削られて消えるはずだった命をここまで引き上げてくれたのは真山さんだった。

 怒られることが、心配されることが、嬉しいだなんて真山さんと会って私は初めて知った。

「――真山さんが、私にしてくれたのが。誰かと向き合う、って、こと?」

 誰に伝える訳でもない言葉が口からこぼれる。

 心が、痛い。気づけなかった世界の一部が私の中で広がる。

 知らなかった。優しいも、心配も、叱られるも、信頼も。気づかない内に少しずつ私の中に積もっていった。誰かが自分の日常の隣にいること。普通の人が最初から手に持っているもの。私は持ってなかったもの。

「少しでも、何かを返したいんです。真山さんは私の……恩人、だから。だから、だから、――教えて下さい」

「……分かりました」

 彼女から教えられた真山さんの事情。

 真山さんの地元があの日から始まったとある出来事の渦中にあること。

 状況は最悪に近くて、誰にも先の分からない状態であること。

 何年も人の住めない町になってしまう可能性があるということ。

 突然のことで何もかもが判明していないこと。その中で混乱のままに居場所を奪われた人達がいること。

 絶望してしまった人もいること。ままならない現状。

 がらがらと崩れていく当たり前。戻らない過去。

 彼女が知っている全てを教えてもらった後、深く礼をし、頭が破裂しそうな情報を抱え私はその場を立ち去った。

 家に帰ってからは、調べられる範囲で最大限に情報を仕入れた。遠くない過去に海外で起きた出来事も。

 小説よりも小説の中の出来事のようだった。

 まるで違う世界の出来事のように感じてしまった。それなのに、真山さんにとってはどうしようもない現実だった。

 小説家の癖に想像力が足りない自分に吐き気がした。


 休みを終えた真山さんは、何事もなかったかのように仕事に戻った。態度、だけは。

 会うたびに明らかに真山さんはやつれていった。眠れていないようだった。打ち合わせに来ていた時に、少しでも気持ちを落ち着かせればと、冷蔵庫から取り出し手渡したペットボトルは、力の入らない真山さんの手から滑り落ち床で鈍い音をたてた。

「……情けなくてごめんね」

 泣いてしまいそうな、顔だった。

「頑張って、る」

 誰かを励ますなんてしたことないけど、私は真山さんが辛そうな姿は見たくなかった。下手くそだけど伝えたかった。頑張らなくてもいいんだって言いたかった。

「真山さんは、頑張ってる。大切な人のために頑張ってる。でも疲れたら休んでいいよ。愚痴を言ってもいいよ。誰も怒らないよ、誰も恨まないよ、だから大丈夫。休んでも、いいんだよ」

 たどたどしく私が言うと真山さんはふるふると首を横に振った。

「私だけが大変なわけじゃない。もっと大変な人が沢山いる。東京にいて、家があって、コンビニに物は溢れてる。そんな、私が、大変なんて、言えない。弱音なんて、吐けない。だって今、皆が、家も無くしたり、家族が、見つかってなかったり、してるのに、私が」

 一言毎に心がズタズタに切り裂かれていくようだった。痛くないのかと不思議に思うほどに自分で自分の心を切り裂いている。

「真山さん、真山さん、ねえ聞いて。だからって真山さんが同じ目に合わなきゃいけない訳ではないんだよ。そうじゃないよ、そんな同調はしちゃ駄目」

「涼には分からないわよ!」

 どうしようもないほどに拒絶だけが込められた叫びだった。

「――ごめん。涼は何も悪くない。怒鳴ってしまってごめん」

 怒鳴り声に驚いて言葉が出てこなかった。だけど真山さんから逃げたくはなかった。意思は示したくて髪の毛をばさばさとさせながら首を振る。

「涼。ごめん。ごめ………………どうして。私の、どうして、他人の言葉が苦しい、関係ない人が口にする言葉が恐ろしい。勝手なことを言わないで。私の、私達の。どうして」

 ぐちゃぐちゃに踏みにじられた心がそのまんま真山さんから溢れだす。誰かに砕かれてしまった心が言葉になって降ってくる。

「どうして私の友達はいなくなったのに。あんな人間がのうのうと生きているのだろう。お前が死ねば良かったのにと、そんなことを思ってしまう」

 ――友達の弟さんから、家が荒らされていたと連絡があったそうだ。火事場泥棒という言葉があるけれど。現実にやるやつがいるなんて、思わなかった。もうこれ以上がないってくらいに傷ついた心を更に傷つける人がいるなんて思わなかった。私ですら聞いた瞬間に、心の奥からせり上がった感情で視界が真っ赤に染まった。

「何故。どうして。そればかり。何も出来ない。誰も助けられない。自分と、家族だけでもう精一杯。その家族すら私じゃ苦しみを減らすことも出来ない」

 真山さんの家族――父母と妹家族――は、今、仮の住処で先の分からない中で不安を抱えながら暮らしているらしい。

 何故。どうして。百万回唱えても誰も答えをくれない。やり場のない怒りと悲しさが渦巻いて消えないのだろう。私もまた思う。何故。と。

 あまりにも理不尽じゃないかと神様に問い質したい。

「これまで生きてきた働いてきた全てが何の役にも立てない、どうやって、生きればいいのか、分からなくなってしまった」

 ほとほとと、真山さんの目から水滴がこぼれ落ちる。

 ――やっと泣いてくれた。

 私は真山さんに強張った顔で笑うより泣いてほしかった。自分の悲しみをきちんと心にまで落としてほしかった。だってそうしなきゃ壊れてしまう。

「涼に、こんな。……情けない大人でごめんなさい」

「ううん。いいよ、真山さんは情けなくなんてないし、いつだって私には頼れる最高の担当様だよ。……それに私だってもう出会ったばかりの頃ほどは子どもじゃない」

 私はもう十八歳じゃなくて成人してるし。自由に使えるお金だってある。役所でする手続きは今だって理屈が分からなくて人に任せてばかりだけど、ちょっとは出来るようになった。

「最後の最後にこんなんで、ごめん。ありがとう」

 鞄からきちんとアイロンをされているハンカチを取り出して、真山さんは涙を拭う。睫毛についた涙が光を反射して、こんな時でも綺麗だと感じた。

 涙を拭った真山さんはいつも通りに背筋を伸ばして会社に戻った。

 今もまだテレビから次から次に伝えられる情報。増え続ける数字。見つからない会いたい人。

 本当に無力だ。

 なんの役にもたたないと思った。物語なんて所詮は娯楽だと。

 明確に誰かを救えるなんて思い上がっていたわけではないのに、他のことが出来ないから書いているだけで高尚な思いで生み出していたわけでもないのに、思ってしまった。

 私の仕事は誰の助けにもならないって。本当にどうしようもない出来事が起きた時、なんの役にもたたないって。

 あの日、寒さに震えていた、空腹に耐えていた人。

 今、三秒先の未来に怯える、誰か一人の力にもなれない。たった一人も助けられない。

 どうしようもなく、ただただ、悔しい。

 何も出来ない。何も。……自分のことすらもて余している私が、真山さんを助けられるはずがなかったのだ。

 もしも、私が、普通の、誰かを思いやることを当たり前に出来る人間だったなら。励ますこと、抱きしめること、側にいることを最初から知っている人間だったなら真山さんの力になれたのだろうか。

 繰り返すもしもには、何の力もないと知りながらそれでも繰り返す。私は結局何も出来なかった。

 ――年度末であったその月に真山さんは私の担当から外れた。


 真山さんから沢渡に担当が変わり数年経った頃、珍しく受賞パーティーに出席した。私も元受賞者として呼ばれたのだ。

 挨拶だの何だのと動き回っている沢渡をしり目に、会場の隅っこでじっとしていると、遠目に真山さんを見かけた。遠目でも姿を見るのは久しぶりだった。立場に伴い忙しさが増した真山さんに自分から連絡は出来なかった。けれど真山さんからは時折生存確認されるようにメールが送られてきた。今はそれだけが私と真山さんをまだ繋げていた。

 今日も、何かを振り切るように真山さんは忙しそうにしている。

 黙っていると周りの話し声が耳に飛び込んでくる、その中で、誰かの話し声から拾ってしまった。――真山さんの母親が先月亡くなったのだと。それなのに必死で働いていて痛々しく見える、可哀想と。

 腹が、立った。勝手に真山さんを哀れむな。

 軽率に同情なんてしてくれるな。

 まるで自分より下に見るように、可哀想なんて言うな。

 理不尽に立ち向かう彼女を、可哀想なんて言葉で括るな。

 誰もかれも、可哀想なんかじゃ、ない。

 真山さんと会うことがなくなっても、彼女の地元の状況は合間合間に確認していた。

 時間じゃ解決しない現実。不確かな明日。心ない言葉。途方もなさに削られる怒り。行き場のない感情。

 あの日で止まった心の一部。冬の終わりで止まった時間。

 当事者にしか分からない思い。当事者じゃないから見えるもの。

 生きている今こそが地獄のようだと誰かが言っていた。

 地獄のようだと言われたこの世界にあの日産まれた子。

 それでも、生きている、私達。

「沢渡」

 私の様子を見にやって来た沢渡に呼びかける。私にしては珍しく強い声が喉から出た。

 私に出来ること、私に出来ること。

「この前言ってた雑誌連載の話だけど、好きに書かせてもらえるんだよね」

「そうですけど……何かありましたか三崎先生」

 私が、出来ること。

「ねえ、沢渡。私、真山さんの力になりたい。どうすればいい?」

「……そんなの決まってるだろ」

「――だよね」

 私に出来ることなんて、いつだってたったひとつしかない。


 初めて私から真山さんにメールを送った。時間が出来た時で良いから会いに来てほしいと。

 すぐにきた返事には来月の日にちが指定されていた。私には今やるべきことが山のようにあったから、指定された日付までの時間はあっという間に過ぎた。

 そして、指定の日。インターホンを鳴らして真山さんはやって来た。今はもう私の家の合鍵を彼女は持っていない。

 久しぶりに会った真山さんは一回り小さくなってしまったように見えた。白髪が増え目の下の隈がくっきりと濃くなっている。

「久しぶり、涼。新しいシリーズ読んだよ。途中から凄く面白くなったね」

 瞬間心が満たされるのを感じた。あがりそうになる口角をおさえるように口に力を入れる。

「ありがとう真山さん。……今も読んでくれてるんだね」

「当たり前でしょう、私は前担当で、あなたの一番のファンなんだから」

 私が持っていなかったもの。差し出される心。何年たっても私はいつだって、真山さんからもらってばかりだ。

 ――だから、私、返したい。

「真山さん、私ね、自分がどうして物語を書いていたのか分かったの」

「…………そう。……良かった、……本当に良かった」

 安堵するように真山さんの顔が綻ぶ。私は本当にもらってばかり。

「聞いて真山さん。私ね、書きたいものが出来たの。だから私に時間をちょうだい。私が春を真山さんにあげる」

「涼?」

「待ってて。……忙しいのにごめんね。どうしても真山さんの顔を見たかったの」

 戸惑う彼女をよそに玄関まで連れていく。自分勝手な行動だが、どうしても一目姿を見てから始めたかった。

 真山さんが立ち去る足音を聞いてから、彼女の姿を見送るようにベランダに出た。歩く彼女の後姿はやるせなくて、昔よりも小さかった。――けれどきちんと前に進んでいた。

 私は彼女の姿が隠れて見えなくなるまでひとつも取り零さないように見続けた。

 西日が私を柔らかく包む。そよそよと流れる風は春を含んでいる。頭の中にだんだんと世界が構築されていく。

 春を吸い込む。彼女の背中を思い起こす。

 ただ、お日さまが暖かい。それだけで。

 どうしようもなく、泣けて泣けて仕方なかった。

 ちっぽけな私の手。無力な私の手。陽だまりを掬うように掌をかざす。今、私の手には何がある?

 三崎涼には何が出来る?

 ねえ、小説家。あなたに出来る事はなあに?


 春。雪解け。兎。愛。お日さま。桜。玄関。ピンク。空。飛行機雲。海辺の天文台。お気に入りのぬいぐるみ。通学路。広がる田んぼ。昨日見た夕焼け。砂が入ったスニーカー。片方だけ壊れたイヤホン。剥がれた絆創膏。捨てたはずのランドセル。桜、桜、桜、一面の桜。割れたアスファルトから咲いた名前を知らない花。はじめましての君と彼女。赤ん坊の泣き声。かん高い笑い声。夕方に始まる時代劇の再放送。砂糖をまぶしたパンの耳。庭のハナミズキ。こっそり作った秘密基地。炬燵と蜜柑。毎日見上げた部屋の天井。傷つけた柱。シールだらけの冷蔵庫。弾かなくなったピアノ。仕舞われたアルバム。プラネタリウム。ドラえもんの図鑑。小さくなった帽子。お揃いのキーホルダー。夜に浮かぶ白い息。出さなかった手紙。くたくたのタオルケット。吹き抜ける風。時間。短くなった髪の毛。会えなくなった誰か。かじかむ手。雨。言葉。飛んだ電子レンジ。ゲームセンター。折れたヒール。ぐちゃぐちゃの心。背中。ネックレス。繋いだ手。かけがえのない全て。

 あの日見た、あなたの涙。


 どうして、この世界に物語は存在しているのか。

 その意味を私はきっともうよく知っている。






 彼女は手のかかる可愛い女の子だった。

 人見知りで、外出嫌い。食事や睡眠を取らずに執筆をしてしまう子。自分の限界が分からなくてしょっちゅう気絶するように寝てしまう。一日音信不通になった時は本当に心配だった。その日から、私は彼女との付き合い方を変えた。担当の領分を越えて彼女と向き合った。そうでもしなきゃ駄目だと思った、一人の、大人として。それに遠慮なんてしていたら彼女は気づかぬ間に野垂れ死んでしまいそうだった。

 私の理屈では想像も出来なかった世界が見えている子。書く以外のことは不得手で、自分には普通の生活は無理だと諦めている憶病な子。

 物語以外では、感情表現も意思を伝えるのも拙い子。

 受け取るのも、差し出すのも下手な子。

 そんな彼女が、私のための物語を綴った。これまで一度として特定の誰かのために物語を書いたことのない彼女が。

 悩んでいたのに気づいていた。文字の力の無力さに悔しさを感じているのも。けれど私も余裕がなくて担当を外れてからは何のフォローも出来なかった。

 本当に、不器用で、書く以外の全てが苦手で、人そのものが苦手な彼女。それなのに、この綴られた物語からは彼女以外の息づかいが伝わってくる。不得意なことをもして書かれたのが分かる。……どうしようもないくらいの思いの塊。足跡を辿って、丁寧に包まれた言葉たち。

 ――生きることに物語は不必要だろうか。

 壊れた家も直せない。空腹も満たせない。包帯を巻くことも、瓦礫の下から助け出すことも、生活の手助けも出来ない。ただ目の前のことに精一杯の誰かの手を取ることは出来ない。

 けれど生活するだけで、人は生きられるのだろうか。――私は、そうは思わない。

 生活だけでいいのなら、この世界に物語も音楽も絵もスポーツも生まれてない。

 生活だけでいいのなら、システムだけが必要で恋も愛も必要ない。

 生活だけでいいのなら、この苦しみは存在してない。

 生活だけじゃ人は生きられない。


 何十年かかるのだろう。分からない。

 決して戻りはしない。新しく生まれ変わることしか出来ない。もう二度と私の当然は、帰ってこない。

 ふるさとの桜を当たり前のように見られる日は、また来るのだろうか。思いの力なんて曖昧なものでは、現実は変わらない。誰に褒められる訳でもなく尽力する人の力で、未来はいつか変わるだろう。

 ――人の消えた町で、今年も桜は咲いている。


 願わくば、

 彼女が記してくれた私達の心が、

 真摯に受け止めてくれる誰かの心に、

 ほんの少しでもいいから届きますように。

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