綴る:泣くな広瀬(後編)
頭の中を流れていく物語が、ここ最近途切れ途切れになってしまう。掴もう掴もうと焦れば焦るほど世界は消失していく。
文章を紡いでいた瞬間に雑音が紛れ込む。意識が逸れたらもう駄目だ。ぷっつりと切れた糸はもう二度と繋がらない、生み出されるはずだった流れは止まってしまう。
それはきっと私を蝕み続ける呪いのせいだ。
この間慌ただしく沢渡が帰ってからしばらくして、珍しく沢渡と飲んだ時があった。
その日は私もアルコールを飲んでしまいたくなるような気分で、これから家にやってくると連絡を入れてきた沢渡についでに酒を買ってきてほしいと頼んだ。
訪れた沢渡はのっけから少し呆れたような調子だった。
「買ってはきましたけど、まともに飲んだことあるんですか」
失礼な言いぐさだ。担当作家に対する態度とは思えない。
「ある。飲める。何歳だと思っているんだ」
「……下戸は何年たっても下戸だろう。体調崩されても困るんですよ」
きっと前担当から、私が初めて酒を飲んだときの醜態を聞いていたのだろう。
アルコールに私はさして興味もなく、二十歳を越えても自分から飲むことはなかったのたが、出版社のパーティーに参加した時に間違えて飲んでしまったことがあった。
たった一杯飲んだだけだったのだが、それまでまったく飲んだこともなかった私はアルコールに対する態勢がなく、気がつけば家だった。
前担当が言うには、突然ケラケラと笑い出したかと思えば笑いながらバッタリと倒れたのだという。すわ何事かと駆け寄れば穏やかに寝息をたてていて、寿命が縮まったとほんのり説教をされた。
いまだにその場にいた人々が集まれば話題にのぼる、私の黒歴史だ。あまり人に知られたくないし、思い出されるのも嫌だが、人の口に戸をたてるのは難しい。
難しい。が、腹は立つ。いつものお小言がいつも以上にうるさく感じる。
お前は私にとってどういう存在だというんだ。過干渉が気に触って仕方ない。心がささくれだっている。
「これでも酒の飲み方くらい知ってる」
一人では飲むな、知り合いのいない場所では飲むなと、あの時にきつく言い渡されたが、沢渡もちょうどいることだし構わないだろう。
どう言っても私が引かないと見てか、不服そうにだが沢渡は買ってきた缶ビールを寄こした。
まだ買ってきたばかりの缶は冷たくて、直接触ると手が痛い。長袖を無理やり伸ばして缶を持つ。
炭酸を開ける瞬間の音を期待してプルタブを開けようとするが、開かない。かりかりとプルタブと戦っていると、見かねてか沢渡が私の手から缶を取り、プシュッと小気味よい音をたててから私に戻される。
「……ありがとう」
どうしてか先程までのささくれた気持ちは少し減っていて、この手にいるアルコールは、いらないものになった気がした。けれど先程までの会話を思い出すと、飲まずにいることも出来なくて私はビールを喉に流しこんだ。
苦い。美味しくない。炭酸が口の中を刺激して不快だ。じわじわと喉が熱をもつ。皆どうして好き好んでこんなものを飲むのか理解出来ない。
「ほら。やっぱり好きじゃないだろう」
顔をしかめているのを見て、呆れたように沢渡が言う。その言い様にムカついて、飲みたくもないビールを私は流しこんだ。また何か言われるのが嫌で、缶を口につけ続けちびりちびりと飲み続けた。
これまでの人生であの醜態以降、まったく酒を飲んだことがないわけではなかった。けれどそんなのは一口なめる程度のことで、コップ一杯分も飲んだことはなかった。当然、自分がどれくらい飲めるのかなんて知っていない。強いのか弱いのかだって知らない。
飲み方を理解していないとどうなるかは推して知るべし。だが、別にそうなっても構わないくらいには思っていた。いい年をした大人がすることではないだろう。いい年した大人がそれすら知らないのは異常なんだろう。
口の中が苦い。飲み物を飲んでいるはずなのに喉が渇く。意味が分からない。
沢渡はもう何も言わず、黙って私の正面に座り自分のビールを飲んでいる。こちらに視線も寄こさない。
「馬鹿だなあって思ってるでしょ」
自分が一番そう思ってる。さっき私は沢渡に対して私はどういう存在なんだと思ったけれど、私の方がよっぽど沢渡をどういう存在だと思っているんだろう。
ただの担当編集に何をさせているんだろう。
まるで自分が沢渡に甘えているようで嫌になる。誰も必要な存在になんてなってほしくないのに。
「何かあったのか」
そりゃあ疑問に思うだろう。何もなければ私が酒を飲みたいなんて言いだすはずがないのだから。
頭がふわふわしている。酩酊感とはこれのことか。社会人は理性をこうやって緩められて、腹を割って話すという不合理なことをしているんだな。
それなら、私も話しても良いのか。
皆、皆、皆が、一般の、普通の人がそうしているのなら。
「××出版の編集さんにさあ、言われたんだよね。『あなたの書く家族は現実味がないですね』って。『家族ならもっと雑であったり、遠慮がなかったりするもんですよ』って」
デビューして数年経ってから関わるようになった出版社の編集さんだった。もしそれを言ったのが新人の、顔も名前も記憶にない相手だったなら何も思わなかったかもしれない。けれどその人は業界では有名なやり手の編集者だった。私も何作か組んで作品を書いたが評判に違わないだけの人だったから、聞き流すことは出来なかった。
棘のように引っかかった言葉は私を蝕む。
「それでも許されるのが家族ならそんな家族を私は知らないよ」
どうして、また。ついて回る。いつまでたっても。何年たっても。どうして私は普通になれない。普通の感覚が手に入らない。理解しようとしても理解しきれない。
どうして、こんな。
いつまでもいつまでもいつまでも。捨ててきたはずなのに。もう手放したはずなのに。消したはずなのに。思い出しもしないのに。どうしてまだ影のように付きまとわれる。
これまでもこれからも一生無くならないのだろうか。
嫌だ。私は私だけで生きる術を手に入れたのに。非力な子どもではないのに。それなのに。どうして。
「なあ、…………広瀬」
「本名で呼ぶな!」
引きつれたような声が私の口から弾ける。大声を出すことなんてないから息があがる。
自分からは絶対に口にしない私の名前。
限られた人しかもう知らないはずの、私の苗字。
初めて出会った喫茶店で沢渡が口にしたのは、私の本名だった。
「……三崎先生は、好きでやってるんですか?」
「何を?」
一体どうして今そんなことを聞くのだろう。
「小説家を。書く、ことを」
そんなこと、私だってずっと謎だよ。
言葉が頭に浮かんだと共に私の意識は沈んだ。
私の親は所謂毒親ってやつだった。
とても気まぐれに私は育てられた。毎日三食ご飯を食べるということは家庭の授業で知った。
親が料理をする姿を私は見たことがない。食べ物とはもう作られた状態のものでしかなかった。幼少期の私にとっては。
幼稚園には行っていなかった。小学校は途中から通いだした。
小学校に行くようになって始めて色んなことを知った。同じ年の子どもがたくさんいること。何が楽しいのか分からないけど他の子達はよく笑っていること。わがままを簡単に口にすること。
親は子どもを愛しているのが普通らしいこと。
家の外は知らない世界で溢れてた。
私が私の世界の全てだと思っていた物事はほとんどが一般的ではなかった。
他人との認識の食い違いは、時間が経てば経つほど深い溝となって私の前に立ちはだかった。
そもそもが、普通は遅くとも幼稚園には他人との交流を覚えだすのに、それが無かった私は人と関係を築くということが他の子よりも一歩も二歩も遅れてのスタートだった。
コミュニケーションというものは学ばなくても出来るものではない。自分で体験しないとそれは身に着かない。そして小学生は馬鹿ではない、異質なものを簡単に嗅ぎわける。違う、というものを明確に理解している。
もしも私が天真爛漫な、人に愛される人間性を兼ね備えていたのなら、過去の道行きは違うものになっていたのだろうか。もしもを重ねたところで今は変わらなくとも想像してしまう。
気づけば私は一人になった。どこにいても。誰がいても。
些細なことで食い違う会話を繰り返せば、私に近寄る子はいなくなり。私もまた自分には無理だと次第に諦めた。コミュニケーション能力は鍛えられないまま年月は経ってしまった。
私はそうやって一人になった。
親が親になることはなかった。あいつらは申し訳程度の、死なないだけの食費を与えるというような、世間から槍玉にあげられないぎりぎりの義務だけ果たした。
世間体は気になるのだろう、高校までは通わせられた。私に興味もないくせに、学費を払えば親の仕事をしたという顔をしていた。もしもこのままここにいれば、親として子どもに与えるべきことをほとんど放棄したくせに、自分たちの権利はきっと主張されるだろうことは分かっていた。
老後の世話は私にさせるのだろう、私は人生を親の食い物にされるのだろうと人生の果ての果てまで搾取されるのだと分かっていた。けれどそれを分かっていても、逃げようとすら考えなかったあの頃の私は、何かが壊れてしまっていたのだろうと今なら思う。
もう一度産まれ直さなければならないほど私はどうしようもなく壊れていた。
あのまま生き続けたもしもを考えただけでぞっとする。搾取されるのに慣れきって過ごし続けた未来なんて考えたくもない。それなのにあの頃の私には他の選択肢などなかった。どこかに逃げるなんて考えは存在しない、狭い視野の中で生きていた。
全てを諦めていた。
だからこそ私は物語にすがった。すがり、しがみつき、蜘蛛の糸を掴み取った。選択肢を手に入れた私は、壊れた箱庭をたった一言のメモを残して逃げ出した。
そうやってやっと私は私を手に入れた。全てを捨ててたった一つを手に入れた。
たった一つ私が手に入れたもの。だから、書かなくては私は生きていけない。
普通の顔をして、忘れたふりをして、こんな世界を生きていく方法を私は他に知らない。
アニメやドラマで描かれるような、普通の、幸せな家庭で生きていたような顔をどうすれば出来るのだろうか。当たり前に話される世間話をどうすれば何て事ない風に受け止められるのだろうか。
出来ない。私には、出来ない。
普通の、当たり前の、日向を生きてきた人間になることが、出来ない。
だって分からないのだ。
普通が分からないのだ。そんな世界で生きたことがないのだから、どれだけ普通になろうとしたってどうやったってかけ違ってしまうのだ。とてもじゃないけれど自分のままでは誰かと会えない。人間関係を築けない。
私は、あの日、世界の全てだと信じ込んでいた町の、小さな本屋で、自分だけど自分ではない世界を生み出すことで生きると決めた。
書くことでしか私は生きていけない。息を出来ない。世界と繋がれない。なのに。
――あなたの書く家族は現実味がないですね。
去年から書き始めたシリーズ物の売れ行きが、良くないらしい。このままでは打ち切りになるかもしれない。
ネットでタイトルを検索すると目をそむけたくなる感想を沢山見つけた。文字を追うごとに、カンナで心を削がれているような感覚に陥る。
これでしか私は人と繋がれないのに、これが誰にも届いていないなら私はどうすればいいのだろう。
他に出来る事なんてない。
人と会話するのだって私はもうひどく恐ろしいのだ。もしもバイトをするにしたって就職するにしたって、面接の時点で挫折してしまう。
他に生きる術などない。ここより先にはもう逃げる場所などないのだ。だって今いる場所こそが、逃げた先にたどり着いた場所なのだから。私が今手にしているたった一つがこれなのだから。他には何も持たぬのだから。
私は書かなくてはいけない。自分の居場所を守るために。この世にいていい場所を自分で作るために。
きっと、そうだ。私は――。
消えない棘はどこまでも邪魔をして、数日間ディスプレイに表示されている文字は少しも増えなかった。締め切りはまだ先だ。けれど自分が前のように書けるか自信がない。
今日はこれから装丁の打ち合わせで沢渡が家に来る。
会いたくない。
愚痴ってしまった日、私は問いに返事をしないまま眠っていた。目覚めたら片付けはされていて、水を飲むように。と書かれた付箋が冷蔵庫に貼られていた。
ピンポーンと、私の感情なんてこれっぽちも斟酌してくれない軽い音が沢渡の来訪を伝える。
怖々と私は玄関を開けたけれど、現れた沢渡はいつもと変わらない調子で挨拶してきた。それに私は小さな声で挨拶を返す。こんな時はどうすればいいのだろう。私は知らない。人とまともな会話なんてしてこなかったから。
物語の中ではいくらでも会話が出来ていたのに現実の私はこれっぽっちも言葉が出てこない。
様子がおかしいとは思われているだろうけれど、沢渡は普段通りだ。テキパキと装丁案を出して説明して決めていく。
「それじゃあ装丁はこれで決定でいいですね。発売は七月になります」
「はい。……あ、の、この間は、ごめんなさい」
何を謝られているのかと沢渡は一瞬不思議そうにしていたが、すぐに思い当たったようで「気にするな」と軽く流した。
「あんなの謝ることじゃない。それよりも……大丈夫なのか、その、色々と」
難航しているシリーズの打ち合わせを何度しても、一向に良案は出ていない。例の編集にそろそろ見限られてしまうのではないかとすら思うくらいだ。沢渡はそれを知ってしまったのだろう。
「うん。書けない。私は今、はじめてスランプに陥っている」
子どもの頃から、今まで。世界が途切れることなどなかった。世界はいつだって私に紡がれることを待っていた。書けなくなる日が来るなんて思ったこともなかった。私にとって書くことは呼吸と同義だったから。
書くことは、生きることだった。
「むしろこれまで無かったんだな。スランプになったこと。……でも、それじゃあ」
「そうだよ、どうすれば抜け出せるのか私は分からない。プロ失格だね。どうやって書いていたのか覚えているはずなのに書けなくなってる」
息の吸い方を人が忘れることはない。それなのに私は出来なくなった。息が吸えないなら、どうなるのか。そんなの誰だって分かる。
「どうして書くのが好きなのかと、沢渡は聞くのだろうかと疑問だったの。でも、もうどこかからその話を知ってたから聞いたんだね。スランプを脱出するには原点に戻るのが一つの方法だったりするから」
何年も昔、子どもの私が、何故物語を書き出したのか。たまにしか帰ってこない親を待つひとりぼっちの部屋で、何故物語だったのか。
「寂しいから私は物語を書くのかもしれない」
どれだけ普段平気ぶっていたって、ふいにやってくる虚しさはある。
物心ついた頃から私を必要とする人なんていなかった。抱き締めてくれる人も頭を撫でてくれる人も、手を繋いでくれる人さえいなかった。
いつだって、寂しかった。
がらんどうの部分を埋めるように私は物語を詰めた。読んで読んで読んで読んで、次第に世界は広がって生まれて動き出して書き止めてやっと私は世界との架け橋を手に入れた。
「結局のところ皆のようには人と関われない、可哀想な奴なんだよ私は。だから、身代わりみたいに物語に寄り添ってもらおうとしてるんだ。自分が生み出した存在、他者じゃないのに自分の外側にいる存在、物語は私の一部で完全に私を裏切ることはないから」
だから。私は。
「書けなくなるくらいなら死んでしまいたい」
沢渡の顔が強張った。ごまかすようにいつもの表情を瞬時に作ったが、そんな取り繕いに意味はない。
「……沢渡だって、そう思うでしょう?私には書く以外に価値なんてないんだから。人とろくに関われない、結婚だってしない、子どもを産むなんて考えただけで吐き気がしてしまう。そんな私が唯一出来ることが書くことなんだから、それを失ったらもうこの世界に私の居場所はないよ」
空っぽだったから書けていたのなら、私の中に蓄積された全てが無くなればまた書けるようになるのだろうか。
小さな本屋で見たあの光景も、親のように私を導いた前担当のことも、今私の目の前にいる沢渡のことも。全て。――けれどそれでは矛盾してしまう、過去の自分のままで止まってしまっては、いつまでたっても忘れてしまいたい境遇が私の頭を支配する。
変わりたい、変われない、変わらなきゃいけない、変われない変われない変われない。
変わらなくては私は書く道を失ってしまう。変わってしまっては私は物語が紡げなくなる。
どうすればいい。
書かなくては生きていけない、それなのに。やっと見つけた道すらもゆるやかに崩れていくだなんて。
どうして。どうして。どうして。――ああ、私がこんなんだからなのか。だからか。
「どうしようもなく私は全てを書くことに依存しすぎてるんだよ。……だから駄目なのかなあ。こんなんだから、だんだん誰にも届かなくなっていくのかなあ。それとも寂しさを埋めるために書いた私の物語は誰にも届いていなかったのかなあ。ただの、自己満足でしか、なかったのかなあ。分からなくなって書けなくなって、打ち切りにならないためにはって考えて、誰かを真似したような売れる作品、分かりやすく人に好まれる展開や文章で試しに少し書いてみたけど……何も満たされなかった。虚しかった。無理に誰かと会話しているようだった。私には書けなかった。……書けない小説家に価値なんてないのに。私はプロなのに。小説家なのに。そう名乗っているくせに書けなかった。こんなの無駄なあがきだと思う?間違った思考だと思うでしょ?他にもっといい方法はきっとあるんでしょ?知ってるよ。売れている作品はただ売れているだけの作品じゃないって、本当は真似出来る類いのものではないってことも知ってる。だけどもうどうすればいいのか分からないんだよ」
知っている。自分の表現や感性を武器にして戦う私たちが、そんなことをしてしまっては全てが死んでしまうことなど。
魂の存在しない創作物には誰の心も動かせない。だけど、全てを賭して生み出しても届かないなら、それにすら意味などないのではないか。同じ扱いをされてしまうのなら、そこに魂が存在していなくとも構わないのではないか。そんな風に揺らいでしまう。
「なあ、広瀬」
「その名字で呼ぶなって言ってるでしょう!」
心が一瞬で沸騰する。視界が真っ赤に染まる。
私があいつらの子どもだという証。同じ名字。公な書類ではどうしたって目にするそれは、見るたびに私があいつらの娘だということを突き付けてくる。
「……血の繋がりは、消したくても消せないよ。だけどだからって、お前と親が同じってわけじゃない。お前はお前だ」
「そうだよ。私は私だ。あいつらとは違う」
私はあいつらみたいに自分が正しいなんて思っていない。誰かを踏みつけていることに無自覚でもない。責任を果たせないのに、家族を作ろうなど思わない。
愛せないのに、子どもを産んだりしない。
「そうじゃないよ、広瀬。そういう意味じゃない。お前が使う、親とは違うって言葉は否定だ。俺が言いたいのはそうじゃない」
何を言われているのか分からない。普通の家庭で普通の生活をしていた沢渡が、私に何を教えてくれるというのだろう。
「否定しなくていい。そんな悲しいことはしなくていい。ただお前がお前だってことを認めてくれよ」
日向で生きてきた人間は、残酷だ。自分を肯定することの困難さを少しも理解していない。
自己肯定なんてものは、肯定してほしい人に肯定してもらったことがある人だけが持つ特権だろう。
「どうやって?ねえ、そんなことを言うなら教えてよ。どうやって認めるの。こんな、自分を。親にも愛されないなんておかしいんでしょ?普通じゃないんでしょ?親が子どもを愛すのが普通の家族なんでしょ?私が一人だったのは私がおかしいからなんでしょ?そんな、自分、を、どうやって認めるの……」
きっと私の心は子どものままで止まってる。
ひとりっきり、時折帰ってくる親をひた向きに待っていたあの頃のままで。
私は求めてた、愛を。だから代わりに想像した。
想像の中でなら親は私に笑いかけてくれるから。抱きしめてくれるから。愛して、くれるから。
綺麗なものを書くのはそれを求めているから。醜いものを書くのはそれをどうしようもなく知っているから。それを書かなくては心の中が真黒になって、全てを呪わずにはいられなくなるから。
「俺には広瀬の気持ちが分かるとは言えない。そう言えるような環境で育ったわけではないから。だけど俺は三崎涼のことは知ってるよ。……三崎涼の作品が書けるのは子どもの広瀬がいるからだ。広瀬がいたから三崎涼がある。広瀬だから書ける世界がある、三崎涼が書く世界だから救われる読者だっている」
忘れたのか。と、部屋の片隅においてあった箱を沢渡が指差す。それは、これまで読者から送られたファンレターをしまっている箱だった。
送られてきた手紙を最近私は読んでいただろうか。読めて、いなかったかもしれない。自分のことだけでいっぱいいっぱいになってしまって。
「言っていただろう。前に。中学生の男の子が三崎涼の作品を読んでファンレターをくれたんだって。自分はこの手紙を受け取るために小説を書いていたのかもしれない、って思ったって言ってただろう」
中学生の男には珍しく綺麗な字で書かれていたそれを、今も覚えている。
はじめてファンレターを書きますとその手紙は告げていた。その子が読んだのは、他の人からはとても批判された作品だった。その作品で私は救いのない気分が悪くなるような終わりを書いた。それなのに、その子は、自分はその作品を読んで救われたと言った。
救いのない世界でそれでも生きていた主人公に救われたと。他の作品も読んでくれたと。優しい話も好きでしたと。伝えてくれた。
私は、その日、初めて人から与えられた言葉で泣いた。
「その子だけじゃない、これを送ってくれた人たち皆そうだ。三崎涼の物語はちゃんと届いている。届いていなかったのかなんてもう思わなくていい。三崎涼の物語は届いてる。愛してくれる読者がいる。いるんだ、こんなに。ちゃんと見てくれよ。これを見ても、思い出しても、それでもお前は自分を認められないって、……自分に価値がないっていうのか」
私も、そうだった。
始まりは同じだった。
物語に救われた私は、気づけば私もまた誰かにとっての始まりになっていた。……もしも私が今書く物語がもう届かなくなってしまったのだとしても、たった一人でいい。
あの頃の私を物語が救ってくれたように、たった一人の救いになればそれでいい。
商業作家としては、そんな考えは間違いなのだとしても、それでもいい。
呪いが、過去が、いつまでもまとわりついたとしても、そんな物語を綴れたなら私は私を認められる。
それだけが私にこの世界で呼吸する方法を思い出させてくれる。
大袈裟だと思われるだろうか。それでも私には物語は救いだった。きっと誰かにとってもその瞬間はあるだろう。
想像することは、書くことは、私にとっての一種の代替行為だった。それなのに物語はそんな薄暗い物を忘れるくらいの眩しさを有していた。
どうして物語にすがったのか。どうして物語だったのか。どうして物語は存在するのか。それはきっとどうしようもない世界にも光があると知るために。
私には書くことしかない。だけど私は書くことが出来る。これしかなかったけれど私はこれが欲しかったのだ。過去も全てのみ込んで生きるための私の光。
「……泣くな、広瀬」
「泣いてない」
これは涙なんかじゃない。私の頬を伝うものは涙なんかではない。やっと棘が身体から排出されている、それだけだ。
「それと、前に言ってた××出版の編集さんって佐藤さんだろ。広瀬が言っていたあの話は本当ですかって聞いたら『三崎先生の書く話は良くも悪くも極端なんだ。綺麗なものは徹底的に綺麗に、醜いものは徹底して醜く書く。だけど世の中そうじゃないものの方が溢れているだろう。それを書くことが出来るようになれば三崎涼は化けるよ。僕はそれが見たい』だとさ。あの人流石やり手って言われるだけあるよ」
なんだ、それは。私にもそこまで丁寧に言ってくれれば良かったのに。だけどきっとあの人はその葛藤すら書けと思っているのだろう。
「俺も見たいよ」
ただ真っ直ぐになんの打算も含まずに伝えられた言葉は、私の涙を止め前を向かせるには充分すぎるものだった。
「悩みや苦しみすら糧にして書くのがお前らだろう?なあ、小説家?」
見せてくれよ。俺らが見過ごして生きてる世界の輪郭をさ。そう言って沢渡は気恥ずかしさを隠すように笑った。
人との関わり方はこれからもきっと私を悩ませる。後悔することも裏切られることも傷つけられることもあるだろう。
呼吸の仕方を忘れる日はまだ時折ある。
諦めてしまえば楽なのかもしれない。だけどそれでもどうしようもなく、焦がれる想いがここにある。
ひとりで生きるのはあまりにも寂しい。
誰かに、いてほしい。
出来るのならば私だって人の輪の中で生きていきたい。居場所がほしい。肯定してほしい。そしてどうか、私の物語が、心が、誰かに届いて。……そうすれば私は何があってもきっと生きていける。
人は綺麗なものだけじゃ生きられない。優しさだけじゃ生きられない。愛とか、夢とか、美しいものだけでは到底生きてはいけない。
打算的でみっともない一面を、とても弱い心を人は誰しも持っている。そう、……だから人は人が嫌いにはなれないのかもしれない。だから私はこんなにも書きたい世界があるのかもしれない。
そして、美しくも優しくもない理不尽な現実に生きる私たちは、それでも時折奇跡のような瞬間に出会えることがある。それを見るたびに知るたびに、生きることはそう悪くないんじゃないかと思える。
どんな境遇でも雨上がりの虹のような瞬間が人生には必ずある。私はそう信じたいし、信じている。
キーボードで音楽を奏でるように指が滑らかに動いていく。エンターを叩く瞬間に、駆けだすように世界を紡ぎだす。言葉が頭の中を高速で通り過ぎていく、それを私は文字に起こす。ひとりきりのこの部屋で。誰かに届けと祈る様に。