綴る:泣くな広瀬(前編)
暗闇の中、パソコンの画面だけが鈍く周りを照らしている。
何かに追いたてられるようにキーボードの上を指が走る。頭の中を通りすぎていく世界をひとつも取り零さないために、指は動いていく。――もしくは、あと数日まで迫った締切のために。
余裕をもって書き進めていたはずなのに、気づけば間に合うかギリギリのラインをさ迷うのはいつものことだ。担当をやきもきさせながらも最終期限までに書き終えることは、経験から予測している。
見せ場を書き終えると、口の渇きが気になった。強張った肩回りをほぐしながら冷蔵庫へ向かう。軽く力を入れ冷蔵庫を開けると、静かな駆動音と共に空っぽな中身が私を迎えた。……見事に何も入っていない。食料がないのはいつものことだとしても、飲み物くらいはあるかと思ったのに。
外に出るの、面倒だな。
何かを体内に摂取するよりも、外に出かける億劫さの方が勝つ。ぐらぐらと脳内で天秤が動くのを想像している内に、水分さえ摂れれば満足するのだと思い付き、何故か冷蔵庫の上に置いてあったコップを手に取って水道の蛇口を捻る。
そういえば東京の水道水だって、近頃は不味くないと言われているらしい。味を気にしたことなどないから私にはよく分からないけれど。
一杯分の水を飲むと、フル回転させていた頭が少しクールダウン出来た気持ちになる。
息を吸って、吐く。酸素が巡る。……ああ、降りてきた。
無造作にコップをシンクに置く。勢いからすれば、がちゃんと音をたてただろうがもう雑音なんて私には聞こえていない。
流れる、言葉。溢れる、色彩。早く文字にしなくては零れ落ちてしまう。
スリープモードになっていたパソコンを素早く起動させる。くるくると回るカーソルを待つ間も世界は私に綴られるのを待たずに走り出している。――早く。
文字を打てるようになった瞬間、指が動きだす。画面には次々と文字が生み出されていく。
暗闇の中、部屋を照らすのはパソコンの明かりだけ。たったひとりの部屋で私は世界を紡ぎだす。
ピンポーンと軽い音が来客を知らせる。頭を動かすとゴリッと硬い感触がした。……床だ。
原稿を書き終わり送信してから、その後の記憶がない。いつものことだが力尽き、気絶するように寝てしまったんだろう。
起きぬけの体温に冷たい床が心地良くて、うだうだと床から離れずにいると、再度どこか間抜けな明るい音がピンポーンと鳴る。
誰が鳴らしているのかは想像がつく、多分あいつだろう。
人と会話をすることが面倒で不在を装い無視していると、ジリリリリと黒電話を模した着信音が鳴り響いた。これで扉の前にいる奴には、私が部屋にいることはバレてしまった。とはいっても家を不在にしていることの方が珍しいので、最初から部屋にいることは分かられているのだけれど。
嫌々ながら通話ボタンをタップすると、スマホと玄関の外から声が二重で聞こえてくる。
「原稿ありがとうございます。確認しました、問題はありません。今度こそおとすんじゃないかってヒヤヒヤしましたよ?三崎先生?」
ずるずると這いずる様に玄関に近づくと、扉を開けずに返事をする。
「間に合ったからいいでしょ」
私が返事をすると通話は切れ、扉の向こうから聞こえる肉声だけになった。
「結果論ですね。三崎先生が締切おとしたことない優秀な作家だということは知ってますけど、心配になるんですよ。待ってる身としては」
優秀な、をわざわざ強調して言ってくるのに皮肉を感じる。
口を挟まなくては長々とこのまま説教のような言葉が続くだろう。沢山の煩わしいことが頭を埋め尽くしたせいで、浮かんだ感想がそのまま口に出てしまった。
「敬語がうざい」
うっかりだ。悪意は微塵もない。ただの感想だ。どう考えても拗れるような発言である自覚は持っているから、どうかそれで許してもらいたい。
「……仕事とプライベートは使い分ける主義なんで。というかいつも敬語でしょうが何を今更」
「残念ながらいつもうざいとは思ってる」
一度口にしてしまったのだからと開き直ることにした。
そう言うと、奴は私に聞かせるためのようなため息を深々と吐いている。それともこれは精神を整えるための呼吸だろうか。今後の心理描写のために後で聞いておこう。
「はいはい、止めますよ止めればいいんでしょうが。これだから作家は偏屈で面倒くさい」
「そうじゃない人もいるでしょ。偏見だ」
確かに、嫌々ながら顔を出したパーティーで出会ったあの人とかあの人とか、よく本屋で積まれている人気作家のその人とか、少し言葉を交わしただけでも分かるくらいに偏屈な人はいたけれども。まともな人もいるはずである。
「お前はそうだろうが」
「否定はしない」
「しないのかよ」
何だろうこの無駄極まりない会話は。
「問題ないなら会社に戻りなよ」
編集者は会社員だ。平日なのだからやるべき仕事があるはずだ。抱えている作家だって私だけではないのだ。それに、他の人よりはマシだがこいつとだって会話するのは疲れる。出来るのであればさっさと帰っていただきたい。
「戻りますよ。ちゃんと生活出来てるかチェックしたら」
「必要ない」
切り捨てるように私がそう言うと、押し問答に焦れたのか声のトーンと口調が荒くなった。
「いいから鍵を開けろ。俺が不審者として通報されてもいいのか」
「むしろ通報されてしまえばいい」
にべもなく私が言い返すと、悪役のように不敵に笑う声が聞こえてきた。……気持ち悪い。
「そんな態度をとっていいと思ってるのかよ。分かってるんだぞこっちは、お前は腹が減っているのに、冷蔵庫はおろか部屋のどこにも食料が何もない状態なことくらい。俺の手には、今、二人ぶんの弁当とデザートがある」
言われて自分の空腹感にやっと気づく。最後にいつ食事をしたのか覚えてもいない。空腹を意識してしまえばごまかすことも出来なかった。
気持ち悪く笑う男――沢渡の言う通り、私の家に食べ物はない。
見えなくても分かるくらいに自慢気な顔をしているだろうことを想像すると、少し不本意ではあるが、空腹感に勝てる程ではなかった。
「……開ける」
渋々鍵を開けると、待ってましたと言わんばかりに、ずかずかと慣れた様子で沢渡は入ってきた。
「ひでえ顔。髪ぼさぼさ、ほっぺに線ついてる。また床で寝たのか」
ちらりと私の顔を見ただけで、靴を脱ぎながら小言を繰り出してくる。
「そんなのいいからご飯」
「お前は……、とりあえず顔洗って来い。その間に準備しておくから」
呆れた様子ながらも、てきぱきと買って来たものを台所に持っていき準備をしている。そんな沢渡を横目に私は言われるままに洗面台に向かった。
いくら仕事だからと言っても、よくこれだけ面倒な人間と積極的に関われるなと沢渡に対していつも思う。沢渡はデビューしてから二人目の私の担当編集だ。
一人目の担当編集は出世してしまい、私の担当から外れてしまった。
私とは親ほどの年の差があるベテラン編集だった前担当は、高校を卒業したばかりで右も左も分からない子どもだった私にとって、保護者代わりのような人だった。沢山のことを私は彼女から教えてもらった。なので、当時は担当替えをそれは不安に感じていた。
私は人とのコミュニケーションに自信がないから。
不安を抱いたまま迎えた、担当引き継ぎの初対面の日。
メールでのやり取りで決まった顔合わせの場所は、何度か利用したことのある出版社近くの喫茶店だった。
外出したのは久しぶりだった。誰かと会うために、というのなら余計に。
作家としてデビューしてから半年も経てば、前担当が外に出たくない私を斟酌してくれて打ち合わせは私の家で行っていた。ご飯は出前を頼めば外に出ずにすんだ。玄関で会って出前を受けとることすら私には苦痛であったが、買い物をするには、外に出て人の中に混ざって尚且つ会計をしなくてはならない。それを考えれば出前はなんぼかマシであった。
そうやって心地好い引きこもり生活をしていたため、久しぶりの外出にひどく緊張し、私は指定されていた時間よりも随分早く到着した。
喫茶店は、平日でも昼時だったからかそこそこ賑わっていた。カップが空いているのに長居するのは気まずくて、なくなっては十分もしない内にその場にいるためのコーヒーを注文した。これが無くなっても相手が現れなかったら、申し訳ないが用事が出来たと言い訳をして帰ってしまおうと、私は三杯目のコーヒーを注文した。
約束の時間までは、まだ三十分以上前の時間だった。自分で早く来ておきながらなんて自分勝手なのだと思うだろうが、そんなのは普通の人の理屈だ。引きこもりと外で待ち合わせをするという段階で、来ないということも前提で考えてほしい。
社会人としてあり得ないということは知ってる。けれど前担当に話を聞いているだろうから、メールさえ送ればまあいいだろうと思った。無断でないならまだいいだろうと。
つらつらと帰ることばかりを考えていたが、頼んだコーヒーが来ると同時に、待ち合わせの相手もやって来た。
店員に誘導され現れた男は、初めは私が先に来ていることに焦ったようであった。が、私の顔を見るや目をまんまるに見開き、口も間抜けにぽかんと開けた。何度か瞬きをすると声にならないくらいの小さな音で私の名前を口にした。
口の動きを捉えてしまえば私の心はささくれだった。
「初めまして、三崎涼です」
固い声で私が名乗ると沢渡は我に返り、名刺を出しながら社会人らしく挨拶をした。
「担当を引き継ぎます、沢渡です。よろしくお願いします」
引き継ぎの確認や次回作について等。一通り業務としての必要事項を終えると、沢渡は恐る恐るだが私に探りを入れてきた。
「初めましてじゃ、ないですよね?」
先程までと違い、とても久しぶりに会った顔見知りとしての表情で聞いてきた。……けれど私はまったく顔も名前も覚えていなかったので肯定も否定も出来なかった。
「失礼ですが、ご出身を伺ってもいいですか?」
出身や年齢、通った学校を照らし合わせていくとどうやら本当に接点はあったらしい。
私と沢渡は、――そんな偶然があるのかと思うが。小学校から中学校まで、同じ学校で同じ学年をともにした同級生だった。
特徴のあった先生のこととか、思い出話のようなことを沢渡からされても、私は覚えていなかったが。クラスも一度か二度くらいは同じになったこともある、本当の同級生のようだった。
沢渡が担当になってからは、もう三年になる。
仕事とプライベートはどうこうと本人は言うが、仕事の枠組みを越えて沢渡は私の生活のフォローもしている。他の所がどうかまでは知らないが、少なくとも前の担当はここまではしなかった。と、思う。たまにご飯は面倒見てもらってはいたが。
果たしてこれは沢渡の面倒見がいいのか。そうでもしないと私が野垂れ死ぬと思っているのかどちらなのだろう。
買ってきた食事はコンビニではなくデパ地下のお弁当だった。美味しいものは嫌いではないが食事に頓着していないことを知っているはずなのに、わざわざ買ってきてくれたらしい。自分も食べるからだろうか。
経費で落ちると沢渡は言うけれど、実際のところはどうなのだろう。
「どうした?」
「……何でもない。美味しい」
私が数日何も食べてないのを見越していたらしい。消化に良さそうなヘルシー弁当を用意されていた。きっと良い婿になるだろうにどうしてこいつはここで私と食事をしているのだろう。
ちまちまと私が食べ進めていると、沢渡は食べ終わったのかパソコンで作業をし始めた。私は食べることがあまり得意ではないので、誰かと食事をするといつも待たせてしまう。人と食事をすることは滅多にないのだが、そのたびに申し訳ない気持ちになる。
沢渡だって、そうだ。私だけを担当している訳ではないのだから、本来なら暇ではないはずなのだ。食べ終わるまで待たれるのは、居心地が悪い。
「早く会社に戻った方がいいんじゃないの」
「メールとかを確認するだけだよ。今はそこまで急ぎの仕事はない、というかあるならここに来てる余裕はない」
曖昧な相槌をうちながら筍を咀嚼する。しゃきりしゃきりとした歯ごたえに、そういえば外は今時分春だなあ。なんてことを考えた。
「最近さあ、中高生見るとキラキラして見えるんだよね」
がちゃんと音がした。何の音だろうと思って見ると、沢渡が手に持とうとしたスマホを落したようだ。それなのに拾う様子もなく沢渡は固まっている。「どうかした?」と聞こうとするといきなり両肩を掴まれた。
真剣な顔をした沢渡が目の前にいる。……顔が近い。
「早まるな」
「……一体何のことを言って、」
続けようとした言葉は早口で捲し立てる沢渡に阻まれた。
「いいか、よく聞け。十八歳以下に手を出したら犯罪だ。ロリコンもショタコンもそれ自体は否定しない。人の好みに口を出す資格なんて誰にもないからな。だがな、三次元で危害を加えたらアウトだ。犯罪、駄目、絶対」
後半になるにつれて肩にかかる手の力が少しずつ強まっている。
「肩、痛い」
叩き落とすように手を払うと「すまん」と、沢渡はたいして悪びれもせずに謝ってきた。
「しかしだ。俺は担当編集者として、作家が道を踏み外すのをただ見ているだけにはいかなくてな」
「だから、さっきから一体何の話をしているのかまったく分からない」
「お前が中高生がキラキラして見えるっていうから。とうとう目覚めたってことなんだろ?」
どれだけ短絡的な思考なのだろう。
「馬鹿の極みなのか。編集者なら行間を読んで頂きたいんだけど」
「行間を読んだ結果そうなった」
「解釈違いも甚だしい」
とてつもなく不毛な会話を続けていると、落した沢渡のスマホが鳴りだした。
「ちょっと電話出てくる」
手早くスマホを拾い上げ沢渡は部屋から出ていく。閉まったドアの向こう側から途切れ途切れに話し声が聞こえてきた。口調から仕事の電話だということがすぐに伝わる。
まだお弁当は二割ほど残っていたが正直もうお腹は満たされていて、食べたいという気持ちはしぼんでしまっていた。きっとこれ以上食べたら後々気分が悪くなるだろうとも思う。けれどいつもこういう時にどうすればいいのか私は分からない。
自分が買ったものならともかく、人がわざわざ買ってきたものを食べずに残していいのか、無理してでも食べなくてはならないのではないか。そう思ってしまう。
軽口ならともかく、自分の意思を面と向かって相手に伝える事がひどく苦手だ。それはこんな些細な所にも出てしまう。きっと他の人はもっと上手に自分の思っている事を口に出来るのだろう。きっと本当はこんな些細な事誰も気にしないのだろう。
なのに私は上手に出来ない。たったこれっぽっちのことが。
敵と向かい合うように残ったかぼちゃや煮物を見つめていると、話し終わったのか沢渡が戻ってきた。
「すぐに会社戻ることになった。何かあったら連絡してくれ。冷蔵庫にチーズケーキ入ってるから賞味期限内に食べろよ」
「わかった」
何かしらトラブルか急な仕事でも入ったんだろう。慌ただしく片づけをし、荷物をまとめている。
「それと、もういらないならそれ一緒に捨てるぞ」
言いながら私に向かって袋を差し出してきた。睨みつけていたら、まあ、そう思うだろう。
一瞬躊躇いがあったが促してくれたのならそれに首肯してしまえばいい。と、差し出してきた袋に蓋を閉めてお弁当を捨てた。沢渡はとくに思う所もなく袋をしばりキッチンのゴミ箱にまとめて捨てている。
ほら、やっぱり。気になんてするほどの事じゃあないんだ。
「それじゃあまたそのうち来るから。最低限人間の生活をしてくれよ」
「善処します」
バタバタと沢渡が出ていくと、部屋の中はとても静かで何の音もしなくなった。
私はそれに安堵を覚える。
控えめに言っても私は駄目人間だ。
引きこもりで生活能力もない。人とのコミュニケーションも苦手。きっとこの世に必要のない人間がいるのであれば私がそうなのだろう。
そんな必要のない人間だけど、小さな世界をこの世に生み出している。
何もない自分だけれども想像だけは好きだった。頭の中の空想であれば世界は無限に広がった。
だから私は書き溜めた。
それしか出来ない。私にはそれしかない。
誰に見せるでもない物語を幼いころから書き続けた。なんのために書いているのか、途中からはわからなくなっていた。ただ書き続けた。恐らくは、自分を支えるためだけに。
空気を入れ換えるために開けた窓から入った春の風。叩きつけるような雨の音。目映い新緑の力強さ。しんしんと積もる雪の温度。
美しいもの、醜いもの。暖かさ冷たさ。痛み。苦しみ。愛。寂しさ。切なさ。喜び。ひとりである自分。誰かといる人。笑う。泣く。怒る。失う。
全てを書いた。
些細な喜びも、蓄積するストレスも、時折死んでしまいたくなる自分の駄目さも全て。私は書いた。
そうして書いている内に、ふと魔が差すような思いで出版社が行っている賞に投稿をした。
せっかく書いているのだから一度くらいと思い送ってみた。
日常に圧死されながら生きていた時期のことだ。こまめに選考結果を見ることも出来ずにいて、送ったことも忘れかけている頃に受賞の結果が出た。
話を聞けば、投稿した小説は運よく審査員の目に留まったようだった。大賞をとった訳ではないが小さい賞にはひっかかり、そこからはとんとん拍子にデビューまでこぎつけた。
現実味は少しもなかった。起きている今の方が夢なのではとさえ思った。受賞の連絡をもらった時も、出版社の編集と打ち合わせした時も、単行本のために直しをしていても、夢の中を漂っているようだった。
沸き上がるように現実が熱を伴った日を私は今でも忘れられない。それは、受賞作の発売日だ。
単行本自体は事前に送られてきていたものの、実物を手にしてもまだどこかふわふわしていて、掴み所がないままだった。それなのに、発売日、自分の日常の一部、買えないけれどよく立ち寄る本屋に、自分が書いた本が並んでいたのを見た瞬間。
心なのか、胸なのか、心臓なのか、分からないけれど。奥底が燃えるような感覚があった。頭がクリアになって、目に写る色彩が濃くなったようだった。
今、やっと自分が世界に産まれ落ちたのだと思った。
私の本を手に取りレジに向かう人を見た日に、私はきっと本当の意味でこの世界に産まれた。
高校を卒業する直前。まだちらちらと雪が山から飛んでくる、その日に。